空砲の嵐 1


【SIDE:G】

 しとしとと降り注ぐ雨が着物の裾を濡らしていく。
 草履が濡れたせいで冷えてしまった爪先を摺り合わせるが、暖を取れる訳が無い。やっぱりブーツを履いてくれば良かったと深い溜息を吐いた。

「兄ちゃん、幾らだ?」
 酒臭い息を吐きながら、下卑た笑みを浮かべて男が肩を叩いてくる。耳元に息を吹きかけてくるのにゾッと鳥肌を立てながら、肩に置かれていた手の甲を軽く抓って微笑した。
「…幾らに見える?」
 髪を伝って落ちてきた雫が鎖骨の窪みを滑っていく。男がごくりと喉を鳴らしたのがわかった。

(…げ、マジで売れんのかよ。)
 表情が引き攣りそうになるのを必死に耐える。
 お仕事、お仕事、と言い聞かせてもったいぶるように視線を逸らした。
 此処へ来たのは、依頼だった。家出をした夫がこの辺りに出入りしているらしいから連れ戻してくれ、という嘆願を引き受けて、俺が囮になることになったのだ。
 若い男が好まれる、といっても新八を囮にするわけにはいかない。そんなことになったらお妙に殺されるし、第一新八では素人感が丸出しだ。『銀ちゃんならその点大丈夫アル!』という褒めになってない神楽の言葉に後押しされてこの場に立っている。

(しっかし、所帯持ちでこんなとこに出入りしてるたァろくなもんじゃねえな、)

 そんなことを思いながら、果たして自分で大丈夫なのかと顎を掻いた。
 若いうちならまだしも三十路前のオッさん捉まえて金払う物好きが果たしているだろうか。
 そう思っていた、のに。

「三でどうだ?」
「…サービス料込みで?…どうすっかな、」
「ん、何だ?オプションあるなら聞いてやってもいいぜ、兄ちゃん、」

(オイオイオイ、何か買う気満々なんですけどォォ!!)

 内心ダラダラと冷や汗を流しながら必死に笑顔を作る。

(何だコレ。来て五分でこんなんありか?)

 くらくらと眩暈がした。物好きがいるものだ、の一言で片付けるには重過ぎる。
 こっちでも食っていけるかなという考えが一瞬脳裏を過ぎったが、とてもじゃないがこんな奴らの相手なんてできそうにない。俺にも選ぶ権利がある。
 俯いてブツブツ言い始めた俺に業を煮やしたのか、目の前の男は「もったいぶってんじゃねえよ」と舌打ちして向かいの角に立っている男へ声を掛け始めた。助かった、と胸を撫で下ろして再び辺りを窺う。すると、道を挟んだゴミ箱の陰に何やら怪しい気配があることに気がついた。
「…アイツら、っの、バカ、」
 つかつかと一直線に向かって、ゴミ箱を思い切り蹴り上げる。
「ギャアア!やっぱバレた!」
「このっ新八がグズグズしてるからアル!」
「何やってんだ!ついてくんなって言っただろーが!」
 どうにか逃れようとゴミ箱の蓋で顔を隠している二人の首根っこを掴み上げる。ぐえっと新八が大げさに呻き声を上げた。
「だ、だって心配じゃないですか!」
「そうヨ!銀ちゃんは金詰まれたら断らないアル!」
「んなわけねえだろうが!」
 そんなに信用が無いのかと呆れながら深く息を吐く。幾ら俺でもそこまで落ちぶれちゃいない。仮に売るとしても相手くらいは選ばせろ…って、それじゃ相手選べば売ってもいいって考えてることになるのか?いやいやんなわけねえだろ。何考えてんだ俺は。
「あーっ!!居たアル!!」
 降り続ける雨さえも切り裂く勢いで、急に神楽が声を上げた。
 我に帰るのと同時に神楽の傍らにあったゴミ箱が勢い良く宙を舞う。勿論俺の制止が間に合う筈もなく、放たれたそれは一直線に神楽の目指す視線の先に向かっていった。
「ぎゃあああ!!」
 無防備な背中を突然飛んできたゴミ箱に急襲されて、男ががくりとその場に膝を突く。
「あーあ、」
「狙い通りネ!!」
「…いや気失ってるからコレ、大丈夫じゃないから、」
 しっかりして下さい、と新八が男の肩を叩くが、男は見事に意識を失っていた。
 懐から取り出した写真で顔を確認するが、探し人に間違いないようだ。思わず安堵の溜息を吐いた。これで人違いだったら俺たちが捕まるところだ。
「完全に伸びちゃってる…しょうがないなあ。僕らこのまま依頼人のとこまで送ってきますね。」
「へ?」
「銀さんは先帰ってて下さい。その格好のままじゃ風邪ひきますよ。」
 濡れ鼠で依頼人のとこに行ってもしょうがないでしょう。銀さんの分のタクシー代も貰ってきてますから、と懐から取り出した封筒を俺の手に押し付けて新八と神楽はタクシーに乗り込んだ。
「パチンコ代にしないでくださいよ!」
 走り去ろうとする窓から投げかけられる声に苦笑いしながら、湿った壁に寄りかかる。
 確かにわざわざタクシーなんて使うくらいなら甘味とパチンコ資金にしてしまいたい。俺が言うのもおかしな話だが、この場所は滅入る。この場に立っているだけで、知らず知らずのうちに負の気配が体を取り巻くのがわかる。集まる人間を食い物にしようとする、嫌な空気だ。

『兄ちゃん、幾らだ?』

 蘇る声。
 相手を選ぶ?だったら、一体どんな奴ならいいと言うのか。阿保らしくて言葉も出ない。


「お兄さん、客待ち?」
「いや…、」
 不意に掛けられた明るい声に振り向くと、まだ年若い、少年と言ってもいいくらいの風貌の男が笑みを作っていた。慣れた振舞いに、どうやら同業者だろうということを悟る。
「てめーこそ、」
 表情を変えずに問い返すと、少年はまた一つ笑みを零してゆっくりと目を伏せた。少し、自嘲気味に見えた。
「俺?俺は…人待ち、」
「客じゃなくて?」
 少年は曖昧に笑って懐から取り出した煙草に火を点ける。答えの代わりに吐き出された紫煙を俺はぼんやりと見詰めた。言葉の意味を知りたいとは思わなかった。
 霧雨は静かに着物を重くしていく。暫くの沈黙の後、少年は煙草を踏み潰して足を踏み出した。
「そろそろ行くね。」
「ああ、何か知らねーけど頑張れよ。」
「うん。あ、コレあげる。」
 やる気の無い仕草で手を振ると、少年は再び笑って俺の掌に何かを押し付けた。
「もし売るつもりなら、その前に一番好きな人とした方がいいよ。じゃあね。」
 答える間も無く小さな背中は雨の街へと消えていってしまう。
 残されたのは、使い込まれた百円ライターと同じ銘柄の煙草二箱だった。
「…余計なお世話だっつーの。つーか売らねえよ。」
 毛先から溜まった雫が肩へと落ちる。肌寒さに身震いしながら取り出した煙草に火を点けた。
気休めでも暖を取れるような気がしたのだ。

「本当に好きな奴、ねぇ、」

(…つーか、俺が素人ってわかってたな。)

 言われた言葉を反芻しながら煙草を銜えた瞬間、びくりと体が跳ねる。
 覚えのある苦い香りに鼓動が煩く響いた。

「あーあ、畜生、」

 銘柄なんて覚えちゃいない。けれど、匂いでわかってしまう。紛れもない、あの男の香りだ。
 肌を滑りながら立ち昇っていく煙に縛られる。


「お、兄ちゃん客待ちか?俺ならこんだけ出すぜ?」

 ボーっとしていると、再び男が三つ指を立てながら声をかけてくる。
 この街は一体どうなっているのだろうか。呆れてものを言う気にもなれやしない。

「残念。今夜は売約済みだから。」
「そうかい。なら、向かいのバーにいるからフラれたら頼むぜ。」

(…だれがするかバーカ、)

 ひらひらと手を振りながらこっそり舌を出す。すると様子を見られていたのか、別の男が「俺ならもっと出してやる」と声をかけてきた。打ん殴ってやりたかったが、適当にあしらって追い返す。こんなところでモテてもちっとも嬉しくない。


(…俺が、相手を選ぶなら、)

 脳裏を過ぎる、漆黒の瞳。
 涼しげに見えるそれが、何よりも激しく燃えることを知っている。護るものの為に。

 くらりと、視界が揺れた。肌を打つ雨の冷たさももう感じない。
 これ以上は拙い。風邪をひく前に帰らなくては。帰って、今あの男のことを考えたことは忘れる。

 この一本が、終わったら。

 そう、決意した時だった。


「ここで何してる、」

 たった今思い描いていた、魂を燃やす一筋の炎が。

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