空砲の嵐 2




 炎を鎮火させようと、激しい雨が降り注いでいる。
 ホテルの窓ガラスを叩く音は、俺に警告をしているようだと思った。

 今ならまだ、引き返せる。


『…いくらだ、』

 俺を買うと言いながら、土方の表情は終始強張っていた。
 やっぱり、勢いだけで言ってしまったんだろう。本当は男なんか抱く気にならないだろうに。
 からかっただけだと言って、解放してやればいい。コイツはきっとそれを望んでる。
 戸惑いがちに伏せられた瞳が、全てを物語っている。黒い瞳の中に湛えた感情は何なのだろう。俺への怒りだろうか。それとも失望だろうか。それとも軽蔑か。いや、きっと全てだ。
 お前は一体何をしているんだと、理性が激しく咎める声がする。それなのに、俺は戻ろうとはしなかった。
 一度だけ、と頭の中で悪魔が囁く。どうせ手に入る筈は無いのだから、一度くらいいいじゃないか、と。

 その「一度」だけで、全てを失うかもしれないということをわかっていながら。


「はい、乾杯。」

 寒さからではない震えが、体中を襲っていた。もう、戻れない。
 以前のように喧嘩越しのやり取りもできなくなるだろう。もうお前は俺を軽蔑して、目も合わせないに違いない。
 あの激しい炎を宿した瞳を見られることは二度と無いかも知れない。それなのに。

『本当に好きな人とした方がいいよ、』

 がらんどうの体に響く声。震えを誤魔化す為に、酒を煽る。酔ってしまえば、言い訳ができる。例え震えが止まらなくても、耐え切れずに涙を流したとしても。
 尚も震えそうになる指先を叱咤して、土方の手を引いた。熱い指が肌を滑る感触に、体が歓喜する。

「…十四郎、」

 背を抱いて、噛み締めるように名を呼んだ。土方の顔が、今にも泣き出しそうに歪んだ。
 閨の中では名前を呼べ、と恋人でもないのに勝手な言い分で説き伏せる。
 今だけだから、どうか許してくれ。

「…銀時、」

 何かを耐えるように呟かれた声に体の奥が痺れる。
 自分の名前が、特別な意味を持っているような錯覚に陥ってしまう。
 スポットライトを当てたみたいにキラキラと輝き出す。只の、お前の一声で。

「十四郎、」

 ずっと、ずっと自分には無縁だと思っていた。

 江戸に来て、俺はまた大事なものを手に入れた。けれど、それはお前とは全く別のものだ。
 お前は、俺が前に居た世界に生きている。もう俺には触れることができない、俺が失った世界だ。
 真選組は、お前の世界だ。
 だから俺は、その世界に全てを賭けるお前を青臭いとも思うし、羨ましいとも思う。
 決して交わることのないお前の世界の外側から、お前を見つめて、そう、思う。
 真っ直ぐな瞳がこのまま己の選んだ道を進めるように、絶望を知ることがないようにとこっそり祈りながら。

「…銀時、銀時、」

 ごめんな。こんなのルール違反だよな。挑発して抱かせるなんて、こんな卑怯なことは無い。
 俺はお前に対する立ち位置を変えてはいけないとずっと自分に言い聞かせてきた。それを今、破っている。

 不意に嗅いだこの煙草の香りが、箍を外してしまった。

 封じていた感情が溢れ出して、お前が欲しくて堪らなくて。
 いっそのこと狂ってしまえたらいいのに。

「銀時、」

 突然、土方の声が心配そうな響きを持ち始めた。ぎくりと体が強張る。

「銀時、悪ィ、痛ぇか?」
 意思とは裏腹に受け入れたことの無い体は無意識に緊張してか、土方の熱を拒む。無理矢理腰を落としても半分も呑み込むことができず、激痛で体は益々動かない。

(…クソ、んなに痛ぇなんて聞いてねーよ、)

 バレる訳にはいかない。
 俺が慣れていると思われるのと初めてだと思われるのとではこの行為の意味が全く違うものになってしまう。
「…銀、」
「へへ、でけえとキツいのな、」
 土方の眉間に寄せられた皺を伸ばすように触れながら口付ける。
 言葉を遮って笑い、反論が怖くて口を塞ぐ。どんな表情をしているのか見ることはできなかった。

 痛みを誤魔化すように自らを慰めながら腰を進める。引き裂かれるような熱さに気が遠くなる。
 自分の中に土方が存在する、その事実だけで達してしまえそうだと思った。

(…好きだ、)

 痛みに支配されている筈の体が快楽に満ちる。

(好きだ、好きだ、)

 口にすることの許されない言葉を胸の内で何度も繰り返しながら喘ぐ。
 今だけだから、雨が止んだら終わるから。どうか。

「…っ、じゃねえよ、」
「え?…ひっ、」
 噛み締めた唇が開くのと同時に土方が吐き捨てるように何かを言った。
 痛々しい響きに目を見開いた瞬間、激しく腰を揺さぶられる。いきなり変化した動きに舌を噛んでしまいそうになりながら、必死に土方にしがみ付いた。

 やっぱり女みたいにイイ、というわけにはいかないないのだろう。
 俺にちゃんとテクがあればまた違うのだろうか。金払って具合が悪いんじゃ最悪だ。
 俺がコイツの立場だったらチェンジに加えて慰謝料も請求したいと思うだろう。
「ひっ、ぃ、っ、」
 どうせならもっと乱暴にして欲しい。もう二度とお前のことを考えずに済むように。
「…銀時、」
 それなのに土方は俺が頭を振る度に、頬にかかった髪を優しく払って唇を寄せた。
 しっかり掴まってろとぶっきらぼうに囁かれて、腕を土方の背に導かれる。
 何度も繰り返し吹き込まれる声に、涙が溢れる。

(…金で買った野郎なんかに、真面目だな、)

 わかってる。だから、好きになった。

(…今だけ勘違いしても、見逃して、)

 薄れていく意識の中で小さく願う。怖くて声は出せなかった。



 雨足は強くなっていたが、西の空が明るくなり始めている。もうすぐ雨は止むだろう。

 眠る土方の額に口付けを一つ落としてから、着物の袖に手を通した。
 雨で少し湿った布地が火照った体から熱を奪う。寝覚めには丁度いいのかもしれない。
 痛む腰を引き摺りながら、テーブルの上に置かれていた紙幣に手を伸ばす。軽く握り締めた後、懐から取り出したライターで火を点けた。くたびれた紙幣は音も立てずにみるみるうちに灰へと姿を変えていく。もう、何の価値もない。
 灰皿の上に置いて煙草の吸殻に混ぜてしまえばそれが金であったことなどわからない。代わりにタクシー代として渡された一万円札を、小さく折り畳んで煙草の箱の中へと仕舞い込んだ。

「…何の詫びにもならねえけどな、」

 ぽつりとそう呟いて、指通りの良い、真っ直ぐな黒髪を梳きながら深呼吸する。

「オメーには、何も失って欲しくねえんだ、」

 勝手なことを言っているとわかっている。既にお前は奪っただろうと頭の中でもう一人の自分が叫ぶ。
 早くここを出て行かなくてはと思うのに、離れ難くて黒髪を撫で続けていると、土方の睫毛がぴくりと動いた。
 慌てて体を離して背を向ける。目を合わせないようにして距離を取った。
「…銀時、」
「質問は無し、な?」
「…んで、」
 何か言いたげな土方を無視して足早に部屋を出る。振り向いたら、終わりだと思った。

 雨はもうすぐ止む。俺もお前も、日常へ、自分の世界へ戻る。
 お前が何かに気付いたとしても、お前はきっと先を読んでくれると思っていた。
 全てをわかっても、何も知らないフリをしてくれると、思っていた。

 雨に紛れて泣いてしまえば全てが流れていくのだと。




「銀時!!」

 だからこうしてお前が追ってきて、俺を抱き締めるなんて、有り得ないことだ。

「…馬鹿だろ、テメー、」

 馬鹿はお前だと言ってやりたいのに言葉が出ない。
 なんて、馬鹿な。
 呼吸をするのも苦しくて、体中がじんじんと痺れている。

「テメーは俺に買われたんだろうが。もう、俺のもんだ。」
「ひじ、」
「三万以上だぁ?テメーにそんな価値があるとでも思ってんのかよ、」

 冷えた唇が熱を取り戻そうと躍起になって俺の唇を吸う。

「残念だったな。たった一万で、テメーのこれから全部俺のだ!」
「土方、」
「…俺のもんだ、銀時、」

 溢れそうになる涙を堪えて土方の肩口に噛み付いた。お前を縛るものが既に灰になっていることを知ったらどんな顔をするだろうか。伝える前に、俺がその瞳の熱に焼かれて灰になりそうだと思いながら、そっと瞼を閉じる。

「…俺、オメーはもっと賢い奴だと思ってたのに、何だよこの様ァ、」
「うるせぇ、誰のせいで馬鹿になってると思ってんだ。」

 肌にかかる吐息が、絡めた舌が、酷く熱い。

「…知らなかっただろ、俺…ずっと、惚れてんだよ。」
「そんなこと知るか。俺だって今気付いた、」

 触れた場所から生み出す熱が雨を消す。
 跡形も残さずに燃え尽きてしまいたい。お前への、想いで。


【END】

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