ドッペルゲンガー


「……しくった、」
 零れた言葉を聞くものは誰もいない。一人きりの玄関で、上がり框に座り直す。頭を抱えようと手を動かせば傍らの紙袋がガサリと音を立てた。中を覗き込めば、風呂敷に包まれた折詰が入っている。蓋を開ければ数種類の和惣菜が綺麗に並んでいた。その中には見覚えのある巾着の姿も。
「っ、クソ、」
 口を滑らせた自分が悪い。殴ったのは完全な八つ当たりではないか。
 酩酊しながら目を開けたら居る筈のない人間が居たから、あの夜の夢を見ているのだと思ってしまった。
(……アイツはちっとも悪くねェのに、)
 ごみ箱を開けて中身を捨てようと振り上げる。途端に溢れ出す涙が邪魔をして、静かにその場に膝をつく。崩れ落ちそうになる体を耐えるので精一杯だった。
「俺は、捨てられねえんだ」
 熱を増していく衝動を留めるように目頭をきつく抑える。これ以上感情を溢れさせてしまえば終わりだと思った。
「……っ、ひじかた、」
 懐から取り出した縮緬を取り出し、祈るように握り締めた。あの日から、肌身離さず身に着けていた、御守。
「オメーなら、こんなヘマしねェんだろうな」
 離れた場所からそっと祈る、静かな、静かな彼女の生涯の恋。
 自分はまた、欲が出てしまった。想いを交わすことが無くても、ただ酒を酌み交わす仲にはなれるんじゃないかと思ってしまった。
「今度こそ、本当にシメ―だ」
 本来なら一切関わるべきではなかったのに。
「ごめんな、」
 手のひらの天眼石が淡く光る。咎めるような光は見ないようにそっと仕舞い込んだ。



【7】再会



 このままでいられたらと願った筈なのに、また浅ましく続きを期待してしまう。
(俺の記憶がないから、つまり今の俺はお前にとって別人だから、)
 もし、あのキスの意味を自惚れていいのなら、穏やかな視線と頑なな態度を結びつけるのはそれしかないように思えた。
 だが、あれから何度万事屋を訪れても、土方が銀時に会えることはなかった。依頼や買い物、パチンコ等、不在の理由は様々だったが、銀時が土方を避けているのは明白だった。それでも、どうしてもその口から本当のことが聞きたかった。ひと目、会いたかった。
 何度目の来訪か土方が数えるのを止めた頃、いつものように玄関を開けたのは眼鏡の少年だった。新八は土方の姿を認めると、すまなさそうに眉を下げた。
「すみません、土方さん。銀さん出てまして、」
「そうか」
 今日も駄目だったかと踵を返せば、後ろから弱々しい声が投げ掛けられる。
「近藤さんから依頼があって、使いで遠方に行ってるんです。暫く戻らないと思います」
「んだと、」
 思いもよらない人物の名に少年を振り返る。場の空気を押し流すように涼やかな風が数枚の葉と共に間を通り抜けていった。
「……土方さん、」
「何だ」
「銀さんは何も言いません。けど、態度を見てれば何かあったってことはわかります。土方さんは、会ってどうするつもりですか?」
 ゆるぎない決意を秘めた瞳が真っ直ぐに向けられる。守られるだけの子供ではない。誤魔化すことは彼を侮辱することになるだろう。
 一つ深呼吸をして土方は新八に向き直った。できるだけ真摯に向き合わねばならないと思った。
「会ったところでどうにかなるとは思っちゃいねェよ。傷つけちまったしな」
 土方が素直に答えるとは思っていなかったのか、新八は虚を衝かれたように瞬きを繰り返している。構わず、言葉を続けた。
「……俺は、アイツに惚れてるから会いてェだけだ」
 静かに進む時は、耳を澄ませばここに無い秒針の音が聴こえてくる気がした。
「じゃあな」
 口にした途端に、蟠りでしかなかった想いが明確な形を成していく。迷いも次第に薄れていく。

「……え、ええええええ!そっち?」

 たっぷり固まったまま一人取り残された新八が、土方の姿が見えなくなってからそう叫んでいることなど知る由もなかった。





「近藤さん、一杯付き合ってくれねェか」
 一升瓶とグラスを掲げ、縁側を指し示す。返答を待たずに腰を下ろせば宵闇を見守るように頭上で月が輝いていた。どこか寂しげにも見える光。孤月だ。
「トシから誘うなんて珍しいな」
 同じように土方の隣に座って胡坐を掻き、近藤が笑う。口では珍しいと言いながらもどこか予想していたように見えた。グラスを合わせて舐める程度に口をつける。酒は口実だとわかっているのだろう。
「……万事屋に何依頼したんだって聞きてェんだろ」
 見透かされているのはわかっている。いつも、そうだった。けれど、近藤が今まであからさまに意図的な態度を示したことは無い。何か言いたいことがあっても静かに見守っているのが常だった。それが、今回は違う。何かを思って、銀時に距離を持たせたのだ。
「親戚に五月人形送ろうとしてな。店から直接送ればよかったんだけど、丁度アイツ仕事ねェって言ってたからよ。ゆっくりでいいから丁寧に届けてくれって頼んだんだよ」
 猪口に浮かべた水面に月が揺らめく。
「……なあ、トシ。お前は何でアイツに拘る」
 不意打ちの問いは、心の何処かで予想していたのかもしれない。小さく息を呑み込むと、返答を促すように木立がざわめいた。
「俺の勝手な想像だけどよ。今までのお前なら、組に関係無いことは捨て置いてた。浪人一人に心砕くような真似はしなかった」
「……何が言いてェんだよ」
「いや、違うな。それができねェからこそ、お前は苦しんでた。だから、正直俺は、」
 グラスを置く音がやけに重く響く。
「何で、今なんだって、思っちまう。アイツをこれ以上追い詰めないでやってくれ、」
「どういうことだ」
「いや、そんなこと言ったところでアイツは何も言わないからな。俺は何も知らねェんだ」
 春はとうに過ぎたというのに、夜風は未だ冷たい。
「……アンタの方こそ、何でアイツに構うんだ」
 苦し紛れのような響きを含んだ土方の言葉に、近藤はどこか自嘲するように笑った。
「心配なんだ。お前ら、似てるから」
 自分の力ではどうしようもできない、まるで天災を嘆いているような口調だった。言わんとしていることは理解できるような気がするのに、きっとその真意は掴めていない。
「近藤さん、俺に記憶が戻ったらアイツを苦しめずに済むと思うか」
 溢れる感情を宥めるように息を吐き出すと、近藤がゆっくりと視線を向ける。見つめ返すことはできず、朧気な月を見上げた。瞼の裏で重なる、銀の光。
『ひじかた、』
 もう少しで、掴めそうだったのに。開いた手のひらには何もない。もう一度拳を握り締めていると視界の端に山崎が廊下を渡ってくる姿が見えた。
「局長、万事屋の旦那が来てますよ。依頼終わったそうです」
「明日でいいって言ったんだけどな。わかった、すぐ行く」
 思いがけない機会に立ち上がろうとすると、近藤が目の前に手を翳してそれを押し止めた。何故だ、どうしてだと呪詛のような恨みがましい想いが喉元へと競り上がってくる。近藤にこんな想いを抱くなど、考えたこともなかった。

 自分はどうかしてしまった。たった一人の男に、こんなにも。

 納得したように装い、自室に戻るふりをする。銀時が通されている客間の直ぐ傍の部屋で様子を窺う。
 大事にしたい、また、くだらないことで笑って欲しい。心を通わせて、傍に、いてくれたら。
 そう願っていた筈なのに、視界にその銀色が映った瞬間、全てが消える。我を忘れてその腕を捕らえ、後ろ手で固定すると、部屋へ引き摺り込んだ。
 何が起こったのか理解できなかったのだろう。銀時は「ぐえっ」と情けない声を上げ、その場に尻餅をついた。
「痛ってえな!何しやがんだテメー!」
 土方の姿を見つけると、唾を飛ばす勢いでがなり立てる。
「避けてたんだろ。なのに此処にノコノコ来やがって。俺が居るってわかってんだろうが」
「何の話だよ。あ、それよりテメー新八に変な事言っただろ!おかげで坂田家の食卓がすげえ気まずいんですけど!」
 ふざけて切り抜けるつもりなんだろうか。そうさせるつもりは毛頭無い。
「なあ、」
 無視して低く呼びかけると、その肩が震えた。見間違いではない。
「この間は悪かった。けど、テメーに惚れちまった」
 祈りを込めて手を差し出す。だが、その肌に触れる前に冷えた舌打ちが狭い部屋に響いた。
「ふざけんなよ。俺ァ、面倒は御免だ。テメーのことなんざ何とも思っちゃいねえんだよ」
「銀時、」
「気安く呼んでんじゃねェよ。飲みに付き合ってたのだってテメーの財布目当てに決まってんだろうが」
 少しずつ積み重ねていた穏やかな日々が、全て否定されていく。刺々しい口調は鋭さを増して土方の心を容赦無く突き刺した。
「全部、嘘か」
「そーだよ。いくら俺の事覚えてないっつっても、そうでもなきゃツラ見る度に喧嘩してた奴とほいほい飲みに行きますかっての」
「……巾着は、」
「俺が言ったのはあの店のじゃねェし、テメーとなんざ行く訳ねェだろ」
 目の前に歪な石を積み上げられているようだ。まるで賽の河原だ。崩すのは鬼。無駄な足掻きだとせせら笑って。
「どんだけ頭ん中お花畑だよ。もっぺん病院行ったほうがいいんじゃねえの?」
 ヘラヘラ笑う姿がどこか遠い。目の前が赤く染まる。
「……そうか、」

 鬼は、俺だ。

「土方?」
 無言のまま、拘束していた銀時の腕を解放する。俯いたまま、銀時が手首を確認した瞬間、その胸倉を掴み上げ、乱暴に唇を重ねた。抵抗しようと振り上げた手に胸を乱暴に叩かれても躊躇いは無かった。罪悪感も消え失せていた。
 顎を固定し、捩じ込んだ舌から唾液を注ぎ込む。銀時の喉がそれを飲み込むのを確認し、漸く唇を離した。
 積み上げられた石など蹴散らしてしまえと胸の奥底に溜まった膿が噴き出す。世界の全てを破壊してしまいたかった。
「……っ、てめえ、何、飲ませやがった、」
 口元を押さえて銀時が呻く。酷く凶暴な衝動だけが体中を駆け巡っていた。
「ついこの前認可が下りたばっかでよ。どんなもんだかな」
 夢から覚めたような気分だった。喉が引き攣っているのかかさついた息が吐き出される。暫くすると、銀時は鼓動の乱れを示すようにその場に膝を付き、浅い呼吸を繰り返し始めた。
「目の前にいる相手に、一番言いたくねェことを口走っちまうらしいぜ」
 土方の言葉に目を見開き、その場から逃れようと部屋の扉に向かって這いずり出す。
 哀れだった。額に浮かんだ脂汗を拭うこともできないまま、腕を押さえるだけで簡単にその場に縫い留められる。
 こんなに、簡単な事だったのかとどこか遠い場所にいるような気持ちだった。
「銀時、」
「っ、ちくしょ、」
 それでもまだ土方の手を振り払う。だが、ビクリと大きく震えると、苦しいのか銀時は胸元を掻き毟り始めた。
「おい、止めろ、」
 傷になるから。そう言いかけて、落雷に撃たれたかのように全ての動きが止まる。
 紐が切れるような音がして、手で抑えていた銀時の胸元から小さな縮緬が畳の上に落ちた。
「……な、」
 土方が失くした筈の、濃紺の守り袋。
「どういうことだ、なんで、てめえが、これを持ってる、」
 落ちた衝撃で中に入っていた天眼石が一つ、弱々しく転がっていく。
「っ、銀時!」
 両肩を掴んで顔を上げさせる。虚ろな瞳はもう土方を見つめていない。ガクガクと全身を震えさせながら、手足を突っ張り始めた。
「銀時!」
「…………だ、」
 蒼白い顔が尚も震え、硝子玉のように色を失った瞳から、堰を切ったように涙が溢れ始める。戦慄く唇が、意味を成さない言葉が斑に空気を染めていった。
「いやだ、いやだいやだいやだ、」
 縋るように響く言葉が行き場を失って地に落ちる。

「嫌だ、」

「……夜、が、明けちまう、」

「行くなよ、」

「十四郎、」

 己の中の空洞を、新たなピースが埋める。

『朝まで、俺のな、』

 例え、その形がどれほど歪でも。

「あああああああ!」
「銀時!銀時!っんで、おま、」
 全ての記憶を押し止めていた堤防が決壊するように、夥しい量の情報が、映像となって頭の中を埋め尽くす。処理しきれないフィルムが焼き切れて、脳髄を焦げ付かせていく。耐え難い頭痛が、鑿で鐘を打つように脳内を暴れ回る。
「トシ、何やって……おい!どうした!」
 扉を開ける気配と共に、動転した近藤の声が響く。
「万事屋!トシ!しっかりしろ!おい、誰か来てくれ!」
 目の前の景色が砂嵐に包まれているかのように輪郭を失い始めた。
(……俺は大丈夫だから、コイツを、)
 そう言いたいのに声が出ない。薄れていく意識の中で必死に手を伸ばす。
(すまねえ、俺は、また、)

 お前が大事に護ってくれていた物を、踏み躙ることしかできなかった。


inserted by FC2 system