ドッペルゲンガー


 白い場所に立ち尽くしていた。
 足元に降り積もった光は、柔らかく、雪のように冷たくて、足を動かすと、タンポポの綿毛のようにふわりと舞い上がる。きっとここは夢の中なのだろう。
 童話のような白い世界の中で、黒い隊服は不似合いだ。耳を澄ませば、誰かが囁く声が聞こえる。酷く懐かしい、優しい、響きだった。だがその一声ごとに、鋭く光った刃先が体の上を滑っていくように感じた。
 声のする方向には弱々しく輝く、白い霧がある。差し伸べようとした手は何故か関節がまったく動かず、霧には到底届かなかった。動かない腕に目をやると、もう一人の自分が震えながら手首を押さえつけていた。

『ごめんなさいね』

 伸ばした手は当然掴まれることのないまま、光はゆっくり薄れていった。

『幸せに、ならなきゃね』

 だが、切なく響いていたと思っていた声に、はっきりとした安堵が混じる。

『十四郎さんも』

 あの時砕け散った筈の、銀色に光る石を手のひらに残して。



【8】境界



「トシ、気が付いたか、」
 眩しさを感じるのと同時に目に入る白い天井。白い壁と無機質な空間はここが病室である事を示していた。
「近藤さん、」
 現実を認識した瞬間に飛び起きる。頭が割れるような痛みはいつの間にか治まっていた。
「アイツは?」
 ベッドから飛び降りようとした身体を押し止められて叫ぶように言葉を返す。だが、近藤は唇を噛んで視線を落とす。嫌な予感がじりじりと空気を取り巻いていた。
「銀時は、どうしたんだ、」
 鼓動が激しく跳ね上がり、重苦しさを増していく。痛いほどの沈黙を破ったのは、近藤ではなかった。
「言ってやりゃあいいじゃねぇですかィ、近藤さん、」
 言い淀む近藤の背後から静かな声が投げ掛けられる。無表情で入口のドアに凭れていたのは沖田だった。
「総悟、」
「アンタが言えないなら、俺が言いまさァ、」
「総悟、止めろ、」
 きっぱりとした口調と仄暗い怒りを秘めた視線。ざわざわと胸が浮き立つように騒ぐ。近藤の制止を振り払って、沖田は噛み締めるように言葉を続けた。
「旦那は壊れちまいやしたよ。もう、戻ってこねえ。夢の中の住人でさァ、」
 アンタのせいで、と。
 低く、重く、空気を揺らす。視線を落とせば己の指がガクガクと震えているのが見えた。
「ぼんやりしたまま誰の言葉にも反応しねェ。かと思えば、部屋が明るくなると狂ったみてェに暴れ出して、」

「……朝が来るのを、怖がってら、」

『朝まで、俺のな、』
『嫌だ、』
『……夜、が、明けちまう、』
『行くなよ、』
『愛してる、ずっと。お前が、俺を忘れても』
『言ったろ。俺はてめえが覚えてようが覚えてまいがどっちだっていい』

 銀時、

「何泣いてんでェ……アンタが泣くなんて俺ァ許さねえ」
「総悟、」
「こうなる可能性があるから俺には使うなって止めたんじゃねェのかよ」
 肩を掴んで止めようとした近藤の腕を叩き落として、沖田が再びギリギリと唇を噛み締める。悲痛な、音が漏れた。
「近藤さんは黙っててくだせェ。前より質悪ィんじゃねェんですか?置き去りにしたどころかテメーの弱さ背負わせて、押し潰して、」
「総悟!」
「……殺した。あの人の魂を、」
 押し殺した感情が消える。
「もう目覚めないかもしれねェ。一生あのままかもしれねェ。なら、アンタどうするんで?」
 淡々とした問いは、より一層深部を抉り始める。

『……俺ァ、構わねえよ、』
『想い出があれば生きてけるなんてしみったれたこと言う訳じゃねえよ、』
『……けど、そしたら、俺はテメーが選んだ道、ずっと見てられるじゃねえか、』
『…………いるよ。もう、会えねェけど』

 銀時、

 フラフラと辿り着いた病室に掲げられた名前を確認しながら、そっとドアに手をかける。
「トシ、ごめんな。俺が余計なお節介焼いちまったせいだろ。悪かった」
「何言ってんだ。アンタは悪くねぇよ。すまねえ、暫く二人にしてくれ」
「ああ。何かあったらナースコール押せよ」
 そっと開いたドアの前には暗幕が垂れ下がっていた。朝になると暴れ出すという沖田の言葉通りなのだろう。光が入らないように目張りされた部屋。夜を、閉じ込めている。
 枕元のスタンドライトだけが淡い光を放っている。一歩進むごとに目の前の景色が滲んで、眩暈が止まない。
「……ひじかた、」
 人工的な夜の帳の中で、銀時が土方へ向かって手を伸ばす。親を見つけた迷子の子供が縋り付くようだった。無垢な笑顔が己の罪をまた増幅させる。
「なに泣いてんだよ」
「っ、すまねえ、」
「それはもう、いらねえって言ったろ」
 甘える猫のように胸元に頬を擦り付け、匂いを確かめるように深呼吸する。そのまま顔を上げると、伸びあがって唇を寄せた。
「なあ、まだ時間あんだろ?」
 現実を映さない、空虚な瞳。
「朝まで、俺のだろ?」
 繰り返される、機械のような言葉。抜け殻の魂。
(……俺が、壊した。)
 自由に飛び回っていた鳥から、その風切羽を折って地に落とした。
 涙を拭っていた銀時の手を握り、その甲に口付ける。ずっと想い焦がれていた存在だった。
「銀時、」
「……まだ、夜だから、」
 手に入らないからこそ、一層輝いて見えていたのだと今更ながらに気付く。

『もう目覚めないかもしれねェ。一生あのままかもしれねェ。なら、アンタどうするんで?』

 そっと開かせた手にあの守り袋を握らせる。祈りと誓いを抱きながら、もう一度その手に唇を寄せた。
 覚悟なんて生易しい言葉では見合わない。

「銀時、」
 お前の一生を、俺は。
「ぎんとき、」
 衣擦れの音が部屋に響く。肌を滑る手はどこか冷たく現実感が無い。腕の中の存在を確かめるように、抱き締めている腕に力を籠める。
 すると、力無く動いた手が土方の頭を優しく撫で始めた。柔らかな感触に我に返り、目を開けると、銀時が穏やかな笑みを浮かべている。
 ゆらゆらと定まらない視点。それでも、その瞳の奥には僅かに光が見える。先ほどまでの虚を見つめる姿ではない。
「土方?これ、また夢か」
 静かな呟きを否定して納得させるのは怖かった。迷いながら、土方はそのまま軽く瞬きをすることで答えた。
 夢だと思っているほうが、きっと銀時にとっては楽なのではないか。そう思った。同時に、もしかしたらと僅かな期待を持ちかけている己を戒める為にも。
「夢だったら、どうする」
 それなのに、言葉の先を待ち侘びてしまう。喉奥が震えて、込み上げる想いが目の前の景色を滲ませる。夢だったらよかった。何もかも全て、夢なら。
「……土方、」
 ふわりと羽が舞い落ちるように銀時が微笑んだ。呆れと、哀しみが混ざった儚い笑顔だった。
「夢じゃねェと、困るな。なあ、土方、」
 繰り返される言葉に、そのまま伸ばされた手を掴もうとして、咄嗟に押し止める。躊躇い宙に浮いた指を退こうとすれば、銀時がまた呆れたように息を吐いてその手を包んだ。
「なんだよ。馬鹿だなぁ、お前、」
 喉が震えて返事をすることなどできなかった。探るようにして掴んだ手を開き、そっと指先を絡める。虚ろだった瞳に宿した光は次第に強さを増して、静かに揺らめいた。
「また沖田くんに担がれた?」
「……え、」
「そろそろ薬抜けるだろうから心配いらねェってさっき言われたんだけど、お前死にそうな顔して入って来たからよ。俺もちょっと、朦朧としてて、」
「……あの野郎、」
 それでも沖田の言ったことは嘘ではないのだろう。朝に怯え、夜に逃げ込んだ姿を見たからこそ、土方にああ言ったのだ。
 それ以上何も言えずにいると、薄く開いた銀時の唇が、何かを迷うように戦慄いた。
「……土方、ごめんな、」
 発せられたのは、耳を疑うような言葉だった。引き攣れた喉が、熱を持って乾いた音を出した。
「何で、てめえが謝る」
 罪があるのは全て自分の方だ。沖田が言った通り、己の弱さに目を瞑って逃げ出した挙句、この男に背負わせた。そして、その魂を殺した。それも二度。
 言いかけた言葉を制すように銀時の視線が向けられる。思わず押し黙ると、絡めた指先に力が込められた。迷いのない、強さだった。

「お前が、俺のこと忘れるって言った時、俺ァ耳障りの良い事言って受け入れる振りした。けど、本当は違った」

 淡々とした口調は、懺悔のようでもあった。穏やかな笑みを浮かべながら、伏せられた瞳は何を見ているのだろう。

「……あの時、本当は、ホッとしてた。俺も、逃げたかった」

 お前から。その真っ直ぐな想いから逃げたかった。

「お前の決意を受け入れたんじゃねえ。俺も、怖くて逃げた」

 志を邪魔するような真似をしたくなかったのは本当だった。けれど、何より、自分がこれ以上誰かを求めてしまうのが恐ろしかった。一夜だけなら、そのまま抱えていけると思えた。続いてしまえばきっと浅ましく次を期待してしまう。求めずにはいられない。あれ以上は、自分が自分で無くなることが目に見えていたから。

「あん時のお前の気持ちが弱さだって言うんなら、それにつけ込んだのは俺のほうだ」

 そう語尾が震えた瞬間、淡く滲んだ眦から一筋の涙が零れ落ちた。
「なのに、結局……呑みのツレにもなれやしねェ」
 胸の奥が激しく揺さぶられて溶け出していく。宙に浮いた一つ一つの音が、焼印のように魂に押し付けられていく。溶けた感情が意志とは関係なく瞳から溢れ出て、銀時の肌に落ちた。
「……それは違う。俺は、お前を苦しめたかっただけだ」
 そうだ。ただ忘れるだけなど我慢ならなかった。その左肩のように、お前に俺がつけた傷跡を残したかった。俺がお前を忘れてもお前が他人に目を向けぬよう、お前が俺を想い続けるように呪いをかけたかった。己が捨てようとしているお前の未来を手に入れたかった。お前をあの場所に縫い留めて。

「お前を捨てたかった。でも、お前が捨てることは許さねェ、そういう卑怯な男なんだよ、」

 自分から手を離しておきながら、誰にも渡したくなかった。
 自分のいないところで、幸せになどなって欲しくなかった。一生苦しんでいて欲しかった。同じだ。あの頃と何も変わっちゃいない。

『十四郎さんと一緒にいたい』
 あの時と同じ呪いをかけた。本当に彼女のことを想うのなら、俺はお前のことなど何とも思っていないと彼女の想いを含めて全て否定すれば良かったのに、それをしなかった。
『知らねーよ』
 そう突き放した。否定すら、しなかった。俺を憎めばいいと思っていた。俺を酷い男だと恨んで踏み台にして、別の幸せを掴んで欲しいと勝手に願った。それが彼女の願いを、彼女のそれまでの人生を踏み躙っている行為だとういう事にも気付かずに。
『幸せにならなきゃね』
 自分自身に言い聞かせるように、何度もそう繰り返していたと聞いた。
『最後まで、笑ってやした。誇りだって、』
『自分は、幸せだったって』
 何が人並みの幸せだ。何が普通の幸せだ。誰がそれを決める。鈍器で頭を殴られたような衝撃だった。彼女にとっての本当の幸せは何だったのか。わかっていた筈なのに。自分にはできないと決めつけて、向き合う努力さえせずに逃げた。寄り添う事だけが幸せではないと彼女はとうの昔に知っていたのに。
 そしてまた、同じことを繰り返した。今度は、もっと残酷な方法で。
「銀時、」
 繋いだ手に力を籠める。
「許さなくていい、憎んでくれていい。俺を楽になんてさせないでくれ、」
「ひじかた、」
 優しい指が、力無く頬に触れた。涙を拭っているのだと気付くまで、自分がまた泣いていることもわからなかった。
「こんなん、どうやったって綺麗になんか終われねェんだ。だったら、」
 一夜で終わることができたなら、思い出の中で生きていられたのかもしれない。想いを疑うことなく、その一瞬を燃やして灰となれば永遠にできたのかもしれない。
 けれど、それがこの先も続くのなら、お互いの想いを疑わなければならないのだ。必死に求めて手に入れた気になっても、今度は失いたくなくて焦燥に駆られてしまう。自分が想われているという確信を探してまたお前を傷つける。

 きっとその、繰り返し。

「今更、遅すぎるってわかってる。これだけ遠回りして、結局腹括るしかねェなんて救いようがねェ」
 この命がある限り繰り返す。きっとまた何度も何度も狂いながらこの男を壊し続ける。
「一生、てめえに狂って生きてくしかねェんだ。俺は、」
 何度拒絶されても、何度絶望しても、きっとまた性懲りもなく手を伸ばしてしまうのだろう。
「……俺も、」
 戦慄く唇が、そっと重ねられる。かさついた肌を馴染ませるように何度も合わせながら、きつく抱き締め合った。銀時の瞳が幸せそうに細められていく。
「……この期に及んで謝ったりすんじゃねぇぞ。テメーが許されたいと思ってんなら話は別だけどな、」
「……銀時、」
「許されたくなんかねェんだろ?だったら、俺は許すしかねェ。それがテメーへの罰になるんだろうが」
 反論を許さないと言わんばかりに、強い視線が己の弱さを射抜く。
 きっと、一生敵わない。
「……ああ、好きだ」
 何度でも、また、恋に落ちる。
「楽になんかさせねェよ。手始めに糖分買ってこい。あと馬行こうぜ。次は日本ダービーな?お前の金で」
 土方の頬に軽いキスを落としてベッドを降り、銀時が目張りされた窓を開ける。
 暗幕を引き剥がすと、爽やかな陽の光が風と共に部屋を巡った。葉擦れの音が底に溜まった澱を押し流していくようだった。
「やっぱ男は馬単だろ」
 人差し指を立てながら得意げに笑う。何度傷ついても、痛みを抱えてまた立ち上がる。その姿にどうしようもなく焦がれてしまうのだ。
「……何言ってんだ。ワイドだろ」
 懐を探れば、いつの間にかあの御守がポケットの中に戻されていた。顔を上げると何も語らない背中が、お前が持てと微笑んでいるようだった。

『幸せに、ならなきゃね』

 優しく蘇る言葉を噛み締めながら、目の前の体を抱き寄せる。きっと逝く場所が違うから、死んでも彼女に会えることは無いのだろう。
 そんなことはとうの昔にわかっている。
「土方?」
「おう、行くか。夜は西照庵な」
「何だそれ、どこ?」
「お前が巾着気に入ったって言ってた料亭だ。本当に店の名前覚えてなかったのかよ」
 呆れたようにそう零せば、言葉を察して銀時がまた嬉しそうに笑う。

 込み上げる愛しさに溺れていく。底が無い。
 きっと、この男の傍で死ねることも無い。
 それでも、いつかその瞬間が来たら、会いたいと願うのだろう。簡単には逝けないのだろう。
 この身体の奥底に溜まったお前の涙が、想いが波打つように揺れて、きっとこの世に引き戻される。

「銀時、」
「ん?」
「好きだ」
「んなこたァ最初からわかってんだよ。やっぱ恥ずかしい奴」

 最後まで愚かに足掻いて、傍に居たいともがき続ける。もう、逃げることはしない。

 捨てきれなかった、
 惨めにこの胸に棲み付いた、もう一人の己の誓いと共に。



【終】

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