ドッペルゲンガー


「万事屋、いるか?」
「お、今日は早いじゃねーか」
 それから、二人オフの日は一緒に飲むことが多くなった。時折近藤が合流することがあったが、銀時の態度も変わらなかった。
 二人で一緒に飲むこともあるらしく、たまに土方の知らない話題で盛り上がったりする。その度に妙に喉がひりつくような疼きを覚えたが、気にしないように酒を呷った。大抵そういう時は飲み過ぎてしまい、コップを握り締めながら、うつらうつらと眠りに落ちそうになってしまう。
 何度か、眠気を我慢している時に、誰かに頭を撫でられたような気がしたが、もしかするとそれは夢だったのかもしれない。
 目覚めた時は屯所の自室で一人で寝ていることがほとんどだった。



【6】糸し糸しと言う心



「最近万事屋の旦那と仲良しらしいじゃねェですかィ、土方さん」
「ああ?いいだろうが別に、」
「おや、否定しねェんで?」
「しても無駄だろ。面倒臭ェ」
 揶揄いとわかりきっている会話に態々乗ってやる必要は無い。野良犬を追い払うように土方が手を振れば、沖田はつまらなさそうに唇を尖らせた。
「なんでェ、旦那の言ったことは本当だったか」
 今度は含みを持たせた言葉を投げかけてくる。これも罠だとわかっているが、その先についている餌のような言葉につい反応してしまう。
「アイツが何だって?」
 思う壺だとわかっているのに、問い返さずにはいられなかった。案の定、目の前の瞳が面白い玩具を見つけたかのように吊り上がり、唇が楽しそうに弧を描く。
「いや、同じこと旦那に聞いただけでさァ。旦那は『アイツが突っかかってこねェから』としか言ってねェけど」
「お前もアイツと会ってんのか」
「ったく、気にするとこそこですかィ。たまに団子屋で茶飲むくらいですぜ。あれで案外真面目な人なんでねェ。団子はたかるくせに、酒は奢るって言っても二十歳になってからってノッてくれねェんで」
 確かにあのちゃらんぽらんな姿とは真逆の態度だ。だが、子供の夕飯を準備していたり、当たり馬券を土方に返そうとしていた辺り、根は人に対して真面目なのかもしれない。
 しかしそれよりも、銀時が沖田と会っているという事実が何故かショックだった。そして、自分がショックを受けているという事実がより土方を打ちのめした。
「土方さん?」
「いや、んなことはどうでもいいだろ。早く仕事に戻れ」
 突如沸いた不可解な思考を追い払うように話を打ち切る。全身の細胞がざわめいている。土方の心情を知ってか知らずか、沖田は飄々と言葉を続けた。
「あ、そうだ。それこそ仕事の話で、この前認可降りたヤツ使っていいんですかィ?俺、試してみてェんでさァ」
「お前はダメだ。どうせ遊びで甚振るつもりだろ」
「ちぇっ、つまんねーの」
 沖田が指しているのは新薬の自白剤のようなものだ。一般に出回ることは無いが、つい先日、碌に検査も受けていないのに囚人への使用を許可された。
 これだけ認可を急ぐということは大方業者と幕府の中枢が癒着しているのだろう。囚人への使用は体のいい人体実験だ。できれば避けて通りたい話だった。
「ま、あんまり構ってると旦那も困るんじゃねェんですか?アレで結構モテますしね」
「んだと、」
 残された言葉に混乱する。もしかして、銀時がそう言っていたのだろうか。楽しそうにしているように見えて、本心では迷惑だったのだろうか。自分が動揺していることを繕うこともできない。惨めにその場で狼狽えることしかできなかった。


「どした?進んでねェな」
 ふわりと響く柔らかな音色に我に返る。どうやって仕事を終えてここまで来たのかも曖昧だ。視線を向けると、銀時が少し心配そうに杯を傾けていた。
「……いや、」
「また沖田くんがどっか破壊でもした?」
 投げかけられた言葉はある意味合っているのだろう。少なくとも己の精神が少しずつ瓦解していくのだけは理解できた。
「そうじゃねェけどよ」
 気になるのなら聞いてしまえばいい。記憶がないのだから何を聞いたとして不自然ではないだろう。何処からかそんな声が聞こえてくるような気がする。
「あんまりお前に構うと困るんじゃねェかって言われてな。お前は案外モテるからって、」
「けっ、案外は余計だっつーの」
「決まった相手はいねェのか?」
 勢いだけの台詞はどこか恐れを含んでいる。銀時は面喰って目を見開いた後、猪口に残っていた酒を一気に呷った。
「……いるよ。もう、会えねェけど」
 鋭い矢に射抜かれたようだった。自分が何を言ったのかも忘れてしまう。息をすることもできずに目を瞠りながらその横顔を見ることしかできなかった。
 遠くを見つめて、目を細める姿はどこか幸せそうに見えた。誰かを焦がれる、熱を孕んだ視線。思いもよらない返答に言葉を失う。
「それは、」
「つー訳だから別に気にしなくてもいいって。俺も懐寒い時はてめえと飲みてえなって思ってるからよ」
「懐寒い時は余計だろ」
「まあまあ、言葉の綾だって。まあ遠慮しないで飲みなさいよ」
「……俺の金だろうが」
 核心には触れさせずにするりと躱して逃げていく。こうして一緒に飲むようになってからも、銀時のことは何一つわからない。過去を思い出すこともない。時折こうして酷く胸が痛む瞬間があるだけだ。
 決まった人がいるのに会えないのは、その相手が離れた場所にいるのか、それとも相手が死んでしまったのか。
銀時のことを気遣って聞けないというよりは、己が怖くて聞けなかった。それはどうしてだと考えようとして、また思考が止まる。
 薄っすらと炙られている答えは次第に色濃くなっていて、もうすぐその文字が読めるのも時間の問題だと知っているのに。

 結局この日はそれ以上何も聞けぬまま、深酒することもできずに日付が変わる前に家路についた。
 冷たい夜風は己を諫めるように緩やかに吹いていく。振り払おうとしても、巣食った想いはじりじりと火傷のような爪痕だけを残していった。
『……いるよ』
 迷いの無い答え。あのいい加減な男が、誤魔化すことすらしなかった。過去形なのかはわからない。それでも、本気だったのだろう。
(俺は、)
 どうしてこんな想いをする。この感情は何に導かれているのだろう。痛みを無視して、冷静に考えようとした。今芽生えたものならばいい。だがもし、そうでないのならば。
 気付けば己の中は銀時のことばかりだ。真選組とは無関係のところで己を掻き乱されるなど、あってはならないとわかっているのに頭から離れることはない。

「副長、お休みのところすみません」
「いや大丈夫だ。どうした?」
 煩わしい思考に呑まれぬよう、事務作業に没頭していると控え目な呼びかけが部屋の外から聞こえてきた。時刻はもうすぐ午前零時を迎えようとしている。
「西照庵の女将から連絡があって、局長が潰れてるから迎えに来て欲しいそうなんですが」
「はあ?ったく何やってんだあの人は。そういう飲み方する場所じゃねェだろ」
 今日は幕府の上役と会食の予定だった筈だ。そういえば迎えに来た松平が、酔うと癖が悪く絡んでくる奴がいるから気が進まないと言っていたことを思い出す。体のいい道化を演じさせられてしまったのだろうか。
「すぐ用意するから車出してくれ」
「はい!」
 上役もいる場所で隊士だけを迎えに寄越す訳にはいかない。
 土方は身なりを整えると、すぐに車に乗り込んだ。些細なことで足元を掬われる訳にはいかないのだ。

「これはこれは、副長殿までご足労頂き申し訳ない」
 どこか人を値踏みするような視線を向けながら、男が土方を嗤う。自分たちは所詮成り上がり者だ。この類の輩には慣れている。
「ご迷惑をお掛けいたしました。申し訳ございません」
「いや、こちらが飲ませてしまったんでね。にしても、侍がそんなことでは困るよ」
 嫌味を言われたところで何も響くものか。構っている暇は無いのだ。
 深々と頭を下げて、迎えの車に乗り込む姿を見送る。姿が見えなくなると同時に横でライターに火を点ける気配がした。
「おう、トシすまねェな。エラい絡み酒でよ。俺の分までコイツが飲んでくれちまってな。まあ、怒らねェでやってくれ」
「……わかってるよ。んなことだろうと思った」
 溜息を吐いて、見送りに出ていた女将の姿を振り返る。土方がここへ来るのは久しぶりだったが、彼女は静かに頭を下げた。
「悪いな、女将。騒がしくしちまって、」
「いえいえ、いいんですよ。土方様もまたいらしてください」
 穏やかに微笑む姿に安堵しながら、酔っ払いの腕を肩に担ぎ直す。だが、続けられた言葉にその動きは封じられることになった。
「この間のお連れ様にも気に入って頂けたようで、嬉しい限りです。是非またご一緒に、」
「連れ?俺の?」
「ええ、銀髪のお侍さんですよ」
 時計の針が、止まる。
「……それ、いつだ、」
「ひと月くらい前だと思いますが、よろしければお土産持っていかれませんか?あの時、巾着お褒め頂いたので、」
 同時に、蘇る言葉。
『前にちょっといい割烹みたいな感じのとこで食べた巾着が美味くてよ』
『もう行くこともあるめェ』
 あの、意味は。
「土方様?」
「ああ、頼む」
 急速に冷えた夜風が辺りを包む。
(……なんで、あの時言わなかった。俺と一緒に行ったからまた連れてけって言えばいいだろ、)
 口を閉ざした理由は何なのか。
(俺が忘れてるから気遣ったのか?でもサウナや映画館で鉢合わせたことは言ってたじゃねえか。)
 酔っ払いの介抱を山崎に任せ、足早にかぶき町へと向かう。考えるより先に、体が動いた。


 暗い玄関に目を向ければドアが僅かに開いているのが見えた。不審に思いながら扉を開けると、同時に足元に何かが引っかかった。躓きそうになるのを寸での所で堪え、手探りで電気を点けると足元に転がっていたのは銀時だった。
「おい、何やってんだ、」
 土産を傍らに置き、その肩を揺り起こす。もしや具合が悪いのかと顔を近づければ、その心配を凌駕する酒の匂いが発せられていた。
「ったく、こっちも酔っ払いかよ。おい、起きろ」
 軽く頬を叩けば、重たげな瞼が薄く開く。
「ひじかた?」
 夢現を彷徨いながら発せられた言葉は、まるで羽根がふわりと降りてくるようだった。蒲公英の綿毛のような髪が眼前で甘く匂い立っている。
 訳もわからないまま湧き出てくる衝動に抗えず、吸い寄せられるままその頬に触れる。酒のせいで火照った肌は熱く、今にも眠りに落ちようとする赤子のようだ。
「ほら、寝るんなら布団で寝ろ。風邪ひくぞ、」
 ゆらゆらと視線が揺れる。

「……寝ねェ、」

 舟を漕いで夢の淵へと落ちていく。瞼が重たげに閉じられていくと同時にその唇が音を出さずに小さく動いた。

「朝になったら、いなくなっちまうから、」

 静かな夜の水面に、ぽつりと雫が落ちるように。

「……なに、」
 そっと紡がれる、儚い願いのようだった。身を斬るような想いと共に、鼓動が激しく跳ね上がる。飄々とした読めない普段の態度とは似ても似つかない。音にして舌にのせることもできない、淡い響きが身を斬るように空気を震わせる。何を想って、誰を想ってそんな表情をするのか。
「おい、」
 堪らずに触れていた頬を両手で包む。頭の中はガンガンと鈍器で殴られているような衝撃に襲われている。頭痛を無視して導かれるように唇を寄せた。
 待て、何をしようとしているのかと咎める声が聞こえてくる。それでも、止められなかった。
 薄く開いた唇からアルコールの香りが広がる。柔らかな感触が、夢ではないというようにその存在を主張しているようだった。
 啄むようにして何度も口付けを繰り返せば、柔らかな温度が伝わり、伝染するように体温が上がっていく。体中を奔る熱が耐え難く、全身を掻き毟りたくて堪らなかった。
 形を確かめるように唇の表面で輪郭を辿り、下唇を弾くようにして挟み込む。
(……やっぱり、俺は、コイツを、)
 男同士でどうにかなるなど考えたこともなかった。それなのに今こうしていることに何の疑問も後悔も湧いてこない。
 失った記憶の中の自分がこの男をどう思っていたのかなんて最早どうでもよかった。触れていたい。逃してはならない。込み上げるのはそんな焦燥だけだ。
 濡れた唇を一舐めして、そっと舌を潜り込ませる。息苦しいのか銀時の口元から同時に小さな呻き声が漏れた。視線を落とせば赤らんだ瞼の淵が僅かに震えている。
 起きてもいい。むしろ起きて自分の存在を認識させたい。祈るように再び唇を重ねると、硝子玉のような瞳がゆっくりと開いて土方の姿を捕らえた。
 そして宵闇に消え入りそうな音が、それでも確かに一言その場に響いた。

「ひじかた、」

 嬉しそうな、まるで子供のような微笑みを浮かべて土方へと手を伸ばす。何が起こったのか理解できずに固まっていると、その手がしっかりと土方の背へ回された。そして今度は銀時の方から唇が寄せられた。
「土方、」
 目の前の事実に混乱しながらもより深くへと口内を弄り、上顎を擽れば子犬がむずがるようなくぐもった吐息が漏れる。気持ち良さそうに細められた瞳が媚薬のように体の芯から込み上げる熱をさらに上げていく。
(……なんで、いや、やっぱり、)
 自分の予想が外れているのならば、受け入れられる可能性など微塵も無い筈だ。
 息苦しさから逃れる為に、酸素を求めるかのようにまたキスを落とす。体中を駆け巡っているのは紛れもない歓喜だ。
 貪るように舌を絡め合い、服の上から肌を撫で回す。燻っていた胸の奥の蟠りが溶けていくようだった。苦しくて、引き絞られるような痛みが絶えず繰り返されている。
 自分だけの箱庭に閉じ込めて慈しみたい気持ちとこのまま喉笛を噛みちぎって殺してやりたいと願う衝動が鬩ぎ合って気が狂いそうだ。
「ぎんとき、」
 堪らず初めて名を呼んだ。迷子の幼子が母親を探し求めるように。
「銀時、」
 呼べば呼ぶほど込み上げる熱が喉を焼く。だが、一瞬抱いた希望は次の瞬間打ち砕かれた。

「っに、しやがる、」
 左頬に激しい衝撃が訪れると同時に目の前の景色が一変する。殴られたのだと理解するまでにかかった時間は一瞬だったのか、それとも数分後だったのかもわからない。ノロノロと体を起こすと、憤怒の表情を剥き出しにして銀時が拳を震わせながら睨みつけていた。
「善良な市民の寝込み襲うたァ、どういうことだよ税金泥棒」
 吐き捨てるように舌打ちしながら、袖で口元を乱暴に拭っている。
「ちが、」
「何が違うんだよ。だいたい何でテメーがここにいんだ」
 豹変した態度につい先ほどまでの出来事は夢だったのではないかと錯覚してしまう。
「帰れよ、もう二度とツラ見せんな、」
「な、」
「帰れ!」
 言い訳さえも許さない激しい拒絶。握った拳が震えている。目を閉じて一つ息を吐き、開いたままの玄関の扉に手をかけた。
「……すまねぇ、土産届けに来ただけのつもりだった。食わねえなら捨ててくれ、」
 振り返ることはできなかった。急速に冷えていく身体が震え出す前にとその場から走り去る。言葉の通りだ。反応がどうであろうと同意が無いことに変わりない。

(……好きだ。)

 初めて形になった想いは今芽生えた物なのだろうか。そんなことはどっちでもいい。

(……酔ってるから誰かと間違えたのか?なら、何故俺の名を呼んだ、)

 あんなに嬉しそうに、目尻にうっすらと涙すら滲ませて。

(………銀時、)

 全てを思い出したら、答えてくれるのだろうか。


inserted by FC2 system