ドッペルゲンガー


 袖を通さなかったのはせいぜい三日だ。
 隊服の内ポケットを探り、土方は首を傾げた。ある筈の物がそこにない。
(……斬り合いの時にでも落としたか。)
 可能性が無いわけではない。以前にも同じようなことは何度もあった。
(まあ、仕方ねェな。)
 形のあるものは、いつか失われる。わかっていたことだ。振り払うように煙草に火をつけ、ゆっくりと息を吐く。燻らせた紫煙を空気に溶かすようにして広げると、同時に控えめなノックの音が響いた。
「副長、山崎です」
「ああ、何だ」
 廊下に面した戸が開き、暖かな光が差し込んでくる。緩やかに巡る風が澱んでいた煙草の香りを押し流していく。
「もう具合は良いんですか?」
 手にした書類から視線を上げて、山崎が躊躇うように口を開く。
「問題ねェよ。そもそも自覚症状があった訳でもねえしな」
「まあ、そうかもしれないですけど。それにしたって早過ぎませんか?もうちょっと休んだらいいのに」
 溜息の理由は二通りだろうと予想しながら、再び苦い煙で灰を満たす。
「……どうせサボれねえとか思ってんだろ」
 呆れを含めた息を漏らせば慌てたような声色がその場に響いた。
「な!違いますよ!心配してるのに!」
「そうかよ。悪かったな。ところで近藤さんは居るか?」
 言葉にすると同時にその本人が今日はオフだと言っていたことを思い出す。であれば屯所に居る可能性は限りなくゼロに近い。用があればまずは志村邸へ向かったほうが早そうだ。だが土方の思考に反して、山崎の返事は意外なものだった。
「局長なら自室に居ますよ」
 軽い口調が弾むように告げられる。
「なんか昨日も飲みすぎちゃったみたいで、二日酔いでダウンしてます」
「二日酔いだァ?ったくだらしねェな」
「そんなこと言って、副長だって人の事言えないでしょ。いつも万事屋の旦那と飲むと自販機の上だの、公園のベンチだの二人で寝こけてるくせに、」
 口を尖らせながら発せられる言葉の意味が理解できず、思わず声を張り上げた。
「てめぇ、いい加減なこと言ってんじゃねーぞ!誰がいつ誰とそんな真似したァ?」
 一瞬にして変化した険悪な雰囲気に怯みそうになりながらも山崎はきっぱりと言葉を続ける。
「何言ってんですか、先月だってそうだったでしょう!」
 目を三角に吊り上げて放たれた言葉に息を呑む。
「……先月、」
「そうですよ!特に花見の時は毎回じゃないですか!」
 ざわざわと胸の奥がざわめき始めた。
「どういうことだ、」
「え?」
「……そもそも万事屋って何だ。店の名前か?」
「はあ?」
 込み上げる衝動の正体を知る術はない。何かなどわかりもしないのに両手が勝手に震えていく。
「万事屋の旦那ですよ。副長、嫌な奴に会っちまったとか言いながらなんやかんや一緒にいつも飲みに行ってるじゃないですか」
 いつの間にか額に滲んでいた汗が、ひやりとこめかみを伝って流れていった。
「……知らねェ、そんな奴聞いたこともねェ」
「副長?」
 理解できないもの、不可解なもの。それは人にとって恐怖の象徴だ。日常を語る山崎の顔にこんな想いを抱いたことがあっただろうか。
「副長、本当に?」



【5】BET



 柔らかな熱を含んだ旋風が、逸る心を咎めるように舞い上がる。渦の中心にある物は目を凝らしても決して見えない。景色が霞む理由を本当は知っているのではないか。思考はうねりの中に呑まれてまた輪郭を無くしていった。まるで夢の中に閉じ込められているようだ。
 慣れている筈の雑踏を歩きながら、必死に記憶を呼び起こそうと足を進める。
(……どういうことだ、)
 頭の中に蘇る会話を反芻しながら何度も自分への問答を繰り返した。

『本当にわからないんですか?万事屋の旦那ですよ?』
 困惑した表情で山崎がさらに目を見開く。どんなに言い方を変えたところで答えは知らないとしか言いようがない。もしかしたら山崎を含めた周囲にからかわれているのではないか。それとも、また何者かに体を乗っ取られていたのではないか。身に覚えがあるだけに、その可能性が高いのではと疑ってしまう。
『仲が良いんだか悪いんだかって感じでしたよ。顔合わせれば喧嘩ばっかりしてましたし』
 一触即発ですよ、と険悪な雰囲気を思い返している割には穏やかな語り口だった。
『でも、先の件では随分助けられたそうですよ。俺は入院してたからわかりませんけど、局長や原田が言ってました』
『まあ、それ、副長の依頼だって本人は言ってたらしいですけど』
 出来事は、覚えている。伊東が企てた陰謀。
 だが、まるで単純に年表を読んでいるかのように現実感が無い。そしてその表の中には「万事屋」という単語も存在していなかった。いや、朧気に子供二人のシルエットと顔は浮かんでくるが、山崎が言うような男はどの記憶にも合致しなかった。

(……俺の、依頼、)
 本当だろうか。そんな得体のしれない人間に組の行く末まで託したのだろうか。妖刀によって魂を喰われかけていたあの時、藁にも縋るような想いであったことは覚えている。記憶が断片的なのは妖刀のせいだと思っていたが、そうでないというのなら一体何を信じればいいのか。
 苛立ちを露わにして舌打ちする。机の上に山積みになっている書類を引っ掴んで乱暴に広げると、事件の報告書がいくつか現れた。男に関する書類は二部あった。目を通しその内容に愕然としながら、気付けばこうしてかぶき町へと足を進めている自分がいる。
(どういうことだ、)
 何度己に問うてみても答えは一向に出てこない。ならば確かめる他に術はないのだ。それなのに。

『トシ、無理して思い出そうとするのはよくないんじゃねェのか』
 よりによって彼がそんなことを言い出すとは思わなかった。
『局長?』
 同様に意外だったのだろう。山崎が傍らで驚きの声を上げる。
『手術が原因でもそうでないにしても、そんだけ脳に負担がかかってるってことだろ?無理して体に異常が出たらどうすんだ』
『それはそうですけど……でも案外会ってみたらあっさり思い出すかもしれないですよ。局長だって記憶喪失の先輩じゃないですか』
 あの時だってすぐ思い出したんだし。へらりとそう笑う山崎に鋭い視線が向けられる。想わす息を呑むと、静かに一つ息が吐き出された。
『俺は反対だ』
 きっぱりと言い切る姿は滅多に見せることのない真剣なものだった。

(……どうして、)
 砂利を踏みしめる音が身体を痺れさせるように這い上がってくる。言われた通りに足を進め、角を曲がると一層ふざけた看板が目に入った。一階のスナックは知っている。何度も通って来た道だ。なのにその上に書かれた看板の文字は初めて目にするものだった。
「万事屋、」
 思わず口を開き、確かめるようにそう音に乗せた。湧き上がるものなど何もない。そもそも此処まで来てしまったが、これからどうしようというのか。勝手に訪問してお前のことを忘れましたと申告する?何とも滑稽な話だ。お互いがどんな間柄だったのかはわからないがいずれにしても失礼過ぎるだろう。
 己の存在を忘れられる。一体どういう気持ちになるだろうか。
 不意に苦い記憶が蘇る。

『十四郎さん、』

 自分のことなど忘れて欲しいと願った。あの時。


 巡る思考を止められないままその場に立ち尽くしていると、視線の先にある玄関の扉がガラガラと音を立てて勢いよく開かれた。つい反射的に物陰へと身を潜めてしまう。
 不審な動きを周囲の者はどう感じているだろうか。一瞬ひやりとした考えが過ぎるが、すぐに思い直す。隊服を着ているのだから少なくとも張り込みには見えるだろう。
「銀さん!早くしてください!遅刻しますよ!」
「銀ちゃんウンコ長いアル。まだかかるネ」
「も〜だから早く起きろって言ったのに」
 見覚えのある子ども二人が玄関先で騒ぎ出す。二人のことは知っている。
「お〜悪ィ、キレが悪くてよ」
「ったくもう、急いでください!」
 バタバタと階段を駆け降りると同時に、スクーターがエンジン音を響かせる。巨大な犬に跨った少女が後を追い、銀色のシルエットはみるみる内に小さく遠ざかっていった。
(……アレが、万事屋。)
 己の中に沸き出でる感情が何なのかもわからないまま、男が去って行った方角を見つめ続けた。ざわめく胸の理由は悪い予感なのかもしれない。足はその場に縫い留められたまま、一歩たりとも動くことができなかった。

『あの人はそんな難しいことなんて考えてないでしょう』

 報告書の内容がじわじわと浮かんでくる。万事屋の坂田銀時。そして、伝説の攘夷志士・白夜叉。その通り名は土方もよく知っている物だった。もしも彼が生きているのなら、一度手合わせしてもらいたいものだと武州の田舎で願ったこともある。
 一度は自ら捕まりその斬首が決定していたが、当の首斬り役人が何を思ったか彼を逃がした。その後の消息は長く不明だったが、今は荒くれ者どもが集うかぶき町でこれまた胡散臭い万事屋などという商売を営んでいる。そして、自分と刀を交えたと沖田も山崎もそう言っていた。あっさり負けた、とも。
 記憶喪失という症状は土方にとって珍しいものではなかった。つい最近も己の上司が自分が誰であるかを全て忘れて攘夷浪士が経営する工場で働いていたことがあったからだ。
 だが他の記憶を共に失くすのならまだしも、何故あの男に関する記憶だけを失ったのだろう。
 気になるのは、報告書の最後に書かれた「現在は攘夷活動とは無縁。これ以上の捜査は無用とする」という一文。己の文字で記された言葉。
 何故、己に提出された報告書に態々書き足したのか。まるで他の者が読むことを想定しているようにも見える。だが、他へ提出された形跡は微塵も無い。あればまず山崎のふざけた文体を直させている筈だ。
「いずれにせよ、調べ直したほうがよさそうだな」
 そう呟いて踵を返す。この際忘れてしまったという事実は一旦置いておけばいい。まずはっきりさせなければならないのは男が真選組の敵であるかどうかだけだ。


「副長、何回目ですか。もう勘弁してください。俺は嫌です」
 珍しくきっぱりと前を見据えながら山崎が頬を引き攣らせてそう言い放った。
「何言ってんだ。監察の仕事だろうが」
 暗にこれは命令だと眉間に皺を寄せてみるが、意外にも山崎は引き下がらずに声を荒げた。
「副長は覚えてないからそんなこと言えるんでしょうけど、俺はもう散々万事屋の旦那のこと調べてるんですよ?しかもその度に命の危険に晒されてるんです!前なんか姉御の劇物で危うく視力失うとこだったんですから!」
「知るかよ。次はテメーが上手くやればいい話だろ」
「いいえ、とにかく嫌です。調べたいなら自分でやってください。俺は別件の潜入があるんで。そっちが最優先だって言ったのは副長でしょうが」
 返された言葉に思わず押し黙る。立て籠もりやハイジャックを繰り返す過激派の尻尾を掴んだのはつい数日前のことだ。そのこともちゃんと覚えている。
 もどかしさに唇を噛むと、山崎が何か閃いたのか拳を作って手のひらを叩いた。
「そうですよ。副長が自分でやればいいじゃないですか」
「は?」
「旦那はパチンコとか競馬とかしょっちゅうギャンブルしてるんですよ。だから出入りしてる場所がきな臭いから付き合わせろとか言って行動を監視すればいいじゃないですか」
「よくまあそんな言い訳がすぐ出るもんだな」
「伊達に監察やってませんからね。それに、局長はああ言ってましたけど、一緒に居たら何かの拍子で記憶が戻るかもしれませんし。それに、」
「何だ」
「俺がするのは無駄ですよ。今までだって旦那に関しては、結局副長は自分の目で見たことしか信じなかったんですから」
 自分が逃れる為の咄嗟の思い付きにしては山崎の提案は理にかなっていた。一先ず冷静になろうと煙草に火をつけ深呼吸する。心地良い酩酊感にも似た眩暈を感じながら、少しずつ煙を吐いていく。だが続いた言葉にまたも思考が停止した。
「まあ、俺は調査が必要だとは思いませんけど。局長だってなんやかんや旦那のこと信頼してるみたいだし、」
「んだと、」
「最近なんて特に。しょっちゅう一緒に飲みに行ってますよ。だいたい局長が先に潰れちゃうんで俺何回迎えに行ったことか」
 ざわざわと胸が揺すられているようだ。いや、伊東の一件を考えてみても、世話になった相手と親しくなるのは別に不自然な事ではない。特にあの人好きする大将のことだ。そう思うのに、胸騒ぎはちっとも治まらない。
「……そうだな。俺が、調べる」
 これは警鐘ではないのか。第六感にも似た何かが、あの男は危険だと示しているのではないのか。ならば、この目で確かめる他に術は無い。


 再び足を向けたかぶき町で、意を決して呼び鈴へと手を伸ばした。柄にもなく緊張している己に気付いて自嘲気味に息を吐く。すると、呼び鈴を押すより先に扉に一つの気配が近づいてきた。
「あれ、土方さん、」
 あれほど開けるのを躊躇っていた扉が軽い音を立ててカラカラを開く。眼鏡をかけた少年が土方を認識すると少し驚いた様子で微笑んだ。
「すみません、影が見えたから依頼人かと思って。どうぞ上がってください」
「え、」
 予想していたものとは違う対応に混乱する。成り行きで一緒に宴会したことなどはあっても、普段はいがみ合っていたのではないのか。
「僕、お茶入れてきますんで、ゆっくりしてってください」
 応接間のドアを開けて少年が再び笑う。戸惑いながら足を踏み入れると、椅子に深く腰掛け、行儀悪く机に脚を乗せた男が土方を静かに見つめていた。
「よお、そろそろ来る頃だと思ってたぜ」
 手元に開いていたジャンプを閉じると一つ大きく伸びをする。気怠そうに開かれた石楠花のような瞳からは感情を読み取ることはできなかった。
「どういうことだ、」
「俺のこと覚えてねェんだろ?ゴリラに聞いたぜ。クソ真面目だから近いうち万事屋に行くかもってな」
 ドクリと直接心臓を打たれたかのように鼓動が跳ねた。
「まあ俺としちゃあ、覚えてようが覚えてまいがどっちだっていいんだけどよ」
「なん、」
 柔らかな陽射しが窓から入り込み、部屋の空気を温めている。予想もしない展開に返す言葉を探していると、目の前のテーブルに緑茶の入った湯呑が控えめな仕草で差し出された。
「銀さん、そんな言い方しないでくださいよ」
 少年が眉を下げて窘めるように声をかける。
 予め聞いていたとしても、何故そんなに落ち着いているのか。土方の疑問を感じ取ったのか、少年は肩を竦めてはにかんだ。
「銀さんもちょっと前に記憶喪失になったことあるんですよ。ほら、近藤さんと一緒に」
「……ああ、聞いてる」
「あの時も二人ともすぐに思い出したし……だから心配いらないですよって言いたいですけど、すみません無責任ですよね」
 同じような症状で一緒に工場で働いていたということは山崎から聞き、事件の記録も読んだ。内容は己の記憶と合致していた。この男の存在を除いて。
「でも焦ると余計負担がかかって良くないと思うんです。ゆっくりでいいんじゃないですか?」
「ああ、そうだな」
 出された茶に口をつける。仄かな香りが鼻から抜けて、張り詰めた想いも少し弛んでいくような気がした。視線を向ければ銀髪の男は背もたれに深く身体を預けて椅子を軋ませている。
 静かな、空間だった。
「お前さあ、定食屋とかよく行く?」
 窓から射し込んだ光がゆらめくと同時に唐突な言葉が響く。怪訝な表情を向ければ、男は鼻を穿りながら眠たげに欠伸をしている。返答を促すように顎で示す姿に眉間を寄せつつ口を開いた。
「ああ、オフの日にはな。それが何だ」
「最後に行ったのいつ?」
「十日くらい前か。だから何なんだ」
 脈絡の無い会話に苛立って、懐から煙草を取り出す。すると男はゆっくりと立ち上がり、緩慢な動作で硝子の灰皿を差し出してきた。
「じゃあ、そん時隣に座った奴のこと覚えてる?」
「はあ?覚えてる訳ねェだろ。んなこと、」
 反射的にそう答えてから、ふと気付く。言わんとすることがじわじわと伝わってきたからだ。
「だろ?それと一緒だ」
 ひやりと腹の奥が冷えた。
「お前は一切覚えてないかもしれねェ。けど、相手は隣に座ってんのが真選組副長だって気付いたら覚えてるだろ?」
「それとは、」
「一緒だろ。もしかしたら醤油取ってくれってやり取りくらいしてるかもしれねェし」
「だったら、」
「だったら何?」
 何故か冷や水を浴びせられた気分だった。喉奥から競り上がるこの想いは何だ。
「……お前は、それでいいのか、」
 ライターを握り締めた手が震える。腹の底に蠢く感情は一体何なのだろう。怒りにも似たやるせなさが行き場を失って燻り続ける。土方が唇を噛む横で男は相変わらず感情の見えないまま今度は頭を掻いた。
「言ったろ。俺はてめえが覚えてようが覚えてまいがどっちだっていい」
 雲が太陽を遮っているのだろうか。陽射しが途切れ、部屋に一瞬の沈黙が落ちる。
「つー訳だから、気にすんな。元々仲良しこよしの間柄でもねェんだしよ。忘れてたって何も困んねェよ」
「……っ、」
「銀さん、またそんな言い方しなくても。土方さんは只でさえ病み上がりなんですから」
「あ〜そうでしたね、お大事に。んじゃ、俺今日青葉賞だから」
「また競馬かィィ!仕事しろ仕事!」
 手にしていた御盆ですかさずツッコミを入れながら、少年が呆れたように溜息を吐く。
「すみません、土方さん」
「……いや、」
 何か言わなければと思うのに、この部屋に入ってから唇は戦慄くばかりで碌な言葉が出てこない。さっきから銜えたままの煙草には火をつけてもいなかった。
「あ、そうだ。土方さん隊服じゃないってことは今日オフですか?」
「ああ、そうだな」
「だったら二人で行ったらいいじゃないですか」
「「はあ??」」
 思わぬ提案に男と声が重なるが、少年は気にした素振りもなくあっけらかんと頷いた。
「記憶が無くても気になるから来たんでしょう?そしたら一日だけでも前みたいに過ごしてみたらいいじゃないですか」
「……前みたい?」
 鸚鵡返しの言葉に、少年が小さく苦笑いする。
「土方さんがオフの日は行く先々で鉢合わせするって銀さんもいつも言ってたじゃないですか。そんで結局一緒に朝まで飲み比べして、」
 次の日大変なんですよ。そう続ける屈託のない笑顔が妙に眩しい。
「それに監視してくれる人がいたほうが僕らとしては安心っていうか……むしろ一緒に行ってこの人が無茶な賭け方したら止めて欲しいんです、」
「新八てめぇコノヤロー、」
「嫌なら今すぐ家賃と給料捻出してください!」
「だからそれを今から作ってくるんだろうが!」
「うるせーダメ人間!」
 再び持っていた盆で頭を叩きながら男の胸倉を揺さぶっている。さして抵抗しない様子は従業員と雇用主というよりはまるで兄弟のようだ。
 ふと思い出しかけた郷里を振り払うように今度こそ煙草に火をつける。途端に広がる苦味に漸く呼吸ができるような気がした。
「……わかった。一緒に行く」
「はあ?テメーまで何言ってんだ!」
 考えてみれば元々そのつもりだったのだ。回りくどい嘘を吐くよりも、願ってもない申し出だった。
「だったら依頼すりゃいいんだろ?依頼料はテメーのかけ金だ。俺のリハビリに付き合えよ」
 咄嗟に返した言葉に男の赤い瞳が泳ぐ。種銭すら覚束無いのにギャンブルに手を出すつもりだったのだろうか。いや、そういう無計画な頭だからこそギャンブルに嵌るのか、どちらにしても碌な男ではなさそうに思えた。



「オイ、何で勝手に変えてんだよ!」
「うるせー男がワイド買いなんてセコいマネすんじゃねぇ。馬単五―四できまりだ」
「そっちは俺の分だろーがァァ!」
 飛び交う歓声と怒号。人々の勝手な夢を乗せて馬は走る。足元に散らばる夢の残骸を蹴散らして、レース場を覗き込んだ。一面に広がる芝はこの場に訪れる者にとってはいつでも眩しいのだろう。隣に視線を向ければ上機嫌の男が競馬新聞と赤ペン片手にうんうんと唸っている。だがその顔には明らかに「人の金を使って賭けるのは清々しい」と書いてあった。
「大体てめーは大穴狙いにも程があんだよ」
 苦々しく、どこか諦めたような気持ちで吐き捨てる。
 以前は知っていた筈の存在がわからないまま隣に並んでいるというのはますます妙な感じだ。どうにも居心地が悪い。
「倍率だけで選んでんじゃねえぞ。今までの実績はちゃんと調べたのか?」
「んなことどーでもいいだろ?あっちの馬の方が可愛いじゃねぇか」
「は?」
「この新聞見た時、ビビッときたね。ほら見ろ。俺はやるぜ、って言ってんだろ?」
「もっと他に理由ねぇのかよ」
「ったく白けさせんなよ。そんなもん別にいらねーだろうが」
 合図の音がして、ゲートにそれぞれ馬が収まっていく。いよいよ始まるレースに向けて、再び視線をスタート地点に戻した。これだけ人間が集まって、視線を向けられて、その中で走る馬はどんな気持ちなんだろうか、ふと思った。人間なんかより、よっぽど繊細な生き物らしいのに。
「……お前はそうなのかよ」
 小声で呟いた言葉は、スタートの合図に掻き消されて届いてはいないだろう。
 理由は要らない。今こうしていることも含めて理由ばかりを欲しがっている自分とは全く違う。気の赴くまま自由に生きる。そんなことができたら。
「おい、」
「ん?」
「見ねぇのか?始まってんぞ、お前の金だろ」
「……ああ、」
 不思議そうに顔を覗き込まれて、ようやく我に返る。というより、指摘されるくらい呆けていたということに唇を噛む。
 男は小首を傾げた後、何事も無かったかのように再びレース場に視線を移した。青々と輝く芝が何故か目に痛い。背に五をつけた黒毛の馬が勢い良く先頭を走っている。
「よーっし!来い来い来い!」
「マジかよ、」
 第三コーナーを過ぎたところで後ろから激しい追い上げをみせる馬がいる。背中には、四。
「来た!マジ来ちゃったよオイ!」
「痛、いててて何すんだテメー!」
 男はがくがくと土方の肩を掴んで揺さぶりながら、レースを食い入るように見つめている。
 四番の馬は三位まで追い上げたままレースは進み、直線勝負となった。このままいけば先頭は五番で決まりだ。問題はデットヒートを演じている二着争い。気付けば「四番、四番」と叫びながら、馬鹿みたいにお互い掴みかかっていた。二着を争っていた二頭は折り重なるようにゴールを切る。
「四か?来た?」
「写真判定だろ、」
 肉眼で判断することはできず、電光掲示板を睨みつける。長い。待っている時間は本当に長い。いや、待っている間に期待という要素が加わるから長く感じるのだ。苛々と掲示板を眺めたまま待っていると、しばらくして結果と、それを知らせるアナウンスが報じられた。
「……オイ、」
「オイ、万事屋」
「何だよ、話しかけんな」
「そう落ち込むんじゃねーよ。俺の金だがな、」
「うるせー、上手くいけば万馬券だったんだぞ!……お前の金だけど」
「外れたもんはしょうがねぇだろうが」
 外れ馬券を破りながら、横の男ががっくりと項垂れる。
 あ〜あ、さすが幕臣ですね。これだから金持ちってのは嫌だねェ。遊びでやってんじゃねぇんだよこっちは。楽して稼ぎたいんだよ切実に。なあわっかんねェだろクソったれが。
 そんな恨み節をぶつぶつと呟き続けてはどんどん小さくなっていく馬券を延々と破いている。自分の懐は痛んでいないのに、いつまでも打ちひしがれている姿に怒りを覚えるよりも何故か笑みが漏れてしまう。
 自然と顔が緩んでいくのに気付いて慌てて気を引き締める為に頬を叩いた。
 目を閉じて顔を上げれば、青々とした芝の絨毯を撫でるように爽やかな風が吹いている。
「オイ、」
「うっせーな。しばらく話かけんなっつってんだろ」
「そうじゃなくて。お前、これ何だと思う?」
 恨めしそうな視線を送られると同時に袂から目当ての物を取り出す。ただの紙切れだ。男が今しがた破った物と良く似ているが、内容は全く違う。無表情のままその手のひらの上に乗せて、ワザとらしく得意げに鼻を鳴らしてみた。
「やっぱワイドだろ」
「おおおおおおお前!何じゃこりゃァァァ!」
「お前が俺の言ったのを素直に買うわけねぇからな」
「あああ?」
「飯食いにいくか」
「おま、これ当たって、」
「返事は?」
「行きまぁす!」
 久方ぶりに見たであろう当たり馬券への興奮と喜びからか、男は申し出を素直に受けた。
(……俺の言ったのを素直に買うわけない、か。何でそう思ったんだか。)
 わからない。失った記憶から繋がっているものならば、喧嘩ばかりしていて仲が悪かったというのは本当のことなのだろう。それでもこうして傍にいても男に対して負の感情は浮かんでこない。奇妙な空気が己を取り巻いている。
「ほら、三連単じゃねェから万馬券とは言えねェけどな」
 窓口へ向かいながら当たり馬券を差し出すと、男は驚いて目を丸くした。
「へ、だってお前のだろ。いいよ」
 意外にも軽く両手を上げて肩を竦め、馬券を土方へと押し返す。ちゃらんぽらんな印象とは違った姿に戸惑いを隠せなかった。きっとちゃっかり自分の物にしてしまうだろうと思っていたのに。
「だったら、テメーにじゃねェ。ガキに美味いもんでも食わしてやれ」
 胸の奥から何か言いようのない感覚が漏れてくる。ざわざわとさざ波のように寄せては返して魂を揺さぶられる。けれど、その波は捕まえられない。
「社長なんだろ?給料どころか生活の心配までさせんなよ」
 どうしてかわからない。またこの感覚だ。まるで泣きたいような衝動が全身を襲っている。
 有無を言わさず馬券を握らせると、男は眉を下げてへらりと笑った。初めて見る、優しい表情だった。きっと子供二人のことを思い出しているのだろう。
「お前って案外子供好き?」
 続けられた不意打ちの言葉には答えられなかった。それはお前の方だろうという言いかけて言葉を呑み込む。本当に泣いてしまいそうだ。
 理由などわかりやしないのに掴まれた心臓を絶え間なく揺さぶられている。
 自分のことを全て忘れられて、何故笑う。
 思考の渦に嵌りそうになって、再び煙草に火をつける。考えてはいけないような気がした。
「あ、ちょっと電話してくるわ」
「おう、」
 そう言って公衆電話に向かう背中は心なしか弾んで見える。暫くすると、「外で食べてくる」「冷蔵庫におかず作ってあるから米は自分で炊けよ」そんな言葉が漏れ聞こえてきた。
(……大事にしてんだな。)
 電話の相手は万事屋の少女だろうか。来訪した時には近所の友達と遊びに行ったと不在にしていたことを思い出す。その後、居酒屋に入ってからも、男は気に入ったつまみをつついては「今度アイツらにも作ってやろう」と店主に簡単なレシピを聞いて真剣に頷いていた。
「料理すんのか?」
「ああ、ウチ当番制にしてんだけどよ。新八はともかく神楽が卵かけご飯しか作んねェの。余裕ある時はちゃんとしたもん作ってやろうと思って」
「へえ、」
 まるで親のようだ。目を細めて語る姿は子供たちの喜ぶ顔が見たいのだと言っているようで、さっきまで痛んでいた胸が今度はじんわりと温まっていく。己の体ながらなんて忙しない。
「前にちょっといい割烹みたいな感じのとこで食べた巾着が美味くてよ。中が鶏とえのきと白滝なんだけどなんかトロトロしてんの。家でそれに近いもん作ろうとしたら鳥団子みてェになっちまって、それはそれで美味かったんだけど何入ってんのか聞いときゃよかったって思ってな。片栗粉じゃねぇのかな、葛だったのかな、それとも量少なかったのかなってな」
「また行った時に聞けばいいじゃねェか」
 そう言い返せば、男の目が一瞬泳いだ。どこか、言葉に詰まったようにも見えた。
「いや、俺じゃ行けるようなトコじゃねェから、もう行くこともあるめェ」
 なら、一緒に行けばいい、思わずそう言い出しそうになって慌てて口を噤む。
(……何で、また俺はそんなことを、)
 痛みを纏った蟠りが少しずつ大きさを増していく。それに反して己の魂のような物が少しずつ削ぎ落されていく。
「なんて店だ?」
「さあ、酔ってたし忘れちまったな。それよりそっちは食堂あんだろ?いいよな。羨ましいぜ、福利厚生」
「まあな。でも曜日で出る物決まってるから飽きるぜ」
「へっ、どうせ犬のエサにしちまうのに何言ってんだか」
「んだとコノヤロー、」
 柔らかな呆れ混じりの微笑み。
 定食屋で隣になった奴の顔なんて一々覚えていない、それと一緒だとそう言った。本当にそんな間柄だったのか。
 互いの間に流れている空気は想像よりも酷く穏やかで、目の前の男から忘れられた悲壮感など微塵も感じない。それは男にとって土方がその程度の人間だからなのだろう。偶然定食屋で隣になった奴と競馬場で再会した、その程度の存在。だったらそれで良い筈なのに、どうしてこんなにも胸が締め付けられるような痛みを感じなければならないのだろうか。
「今日はいいけどよ。マヨネーズ追加する?遠慮すんなよ、テメーの金なんだし、」
 なら、どうして定食屋で隣になっただけの奴の嗜好をお前は覚えているんだ。
 猪口を握った指先が震える。用意してきた嘘も言い訳も全て役に立たない。ならば、いっそ、
「どした?具合でも悪ィ?」
 心配そうな視線はまるで全身を揺さぶられているかのようだ。奥深くまで沁み込んで澱を引き摺り出そうと掴まれる。
「……どういうつもりで近藤さんに近付いたんだ、」
「はあ?」
「本当は今日、それを確かめようとした。テメーが真選組にとって敵かどうか知りたかった」
「……そんなん、言っていいのかよ」
 握っていた猪口を置いて目を瞑る。息苦しさは依然として止まない。
「無駄だろ。それに……世話になってるみてェだな」
「世話なんてした覚えはねェよ。気持ち悪ィな。それにわかんねェぜ?そうやって油断させててめえらの懐に入るつもりかも、」
 続けられた言葉に確信する。もし、真選組を利用しようとしているのならこんな物言いはしない。今まで、色んな事件を手掛けてきた。その度に、俺がお前たちを助けてやったんだと恩を着せて、付きまとわれることも少なくなかったからだ。
「なら、そん時斬りゃいい話だ」
「そーかよ。ま、やれるもんならどうぞ」
「言ったな、後悔すんぞテメー、」
「じゃあまずはこっちでやるか?」
「おう、上等だコノヤロー、」
 言いながら男の猪口に酒を注ぐ。アルコールが喉を焼き、思考はふわふわと舞い上がる。杯を重ねる度に重苦しい胸の痛みは薄れていくような気がした。考えてみれば、真選組以外の人間と仕事以外で酒を飲むのは初めてだ。
 煩わしい気遣いも、気負いも要らない。立場など関係ない、ただの男同士の酒盛り。
「チョコレートつまみにするたァ、頭おかしいんじゃねぇかテメー、」
「言ったなコノヤロー、騙されたと思ってちょっと試してみなさいよ。合うから」
「あっ、コラ何すんだ……ん?」
「な?合うだろ?チョコレートボンボン売ってるくらいなんだからよ」
「……甘ェ、マヨネーズくれ」
「てめえこの味覚障害!」
「うるせーこっちのセリフだ!」
 奇妙な感覚だった。単純に、楽しかった。
 記憶を失う前は仲が悪かったというのなら、このままでいいのではないだろうか。
「なあ、」
 火照った肌を冷たい夜風が滑っていく。街の喧騒は変わらずネオンと共に夜の空気を包んでいた。目の前の銀髪が今度はピンク色のライトに照らされている。何にでも染まるように見えて、きっと何者にも染まらない。
「何?」
「また、飲み誘ってもいいか?」
 伸ばしかけた手を止めてそう問うと、男は静かに息を吐いた。
「そういうのは改めて聞くもんじゃねェだろ。なんか恥ずかしい奴だなお前。さては友達いねえな?」
「何でだよ。余計なお世話だ」
「飲みたくなったら言えばいいだろ。だいたい家に居るから」
「そこは仕事してろよ」
「うるせえな。依頼があったらやりますって」
 ひょっとしたら男も同じ気持ちなのだろうか。喧嘩する間柄に戻るよりも、このまま穏やかな関係を築いていくことを選びたいのかもしれない。


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