ドッペルゲンガー


 闇の中へ意識が堕ちる。少しずつ、少しずつ周囲の色が薄れていく。
 暗闇の中で持っていた唯一つの石をそっと掌を開いて空気触れさせた。脆く光る銀色のそれは闇に触れた途端に罅割れていく。粉々になって霧散していく姿はまるで散骨のようだと思った。

 そして土方は唐突に理解した。
 ここは、己の墓標なのだと。

 無に帰っていくその石にはもう二度と触れることは無い。もう、二度と。



【4】幸福 



「……トシ、具合はどうだ?」
 静かな問い掛けにゆるゆると瞼を開ける。薄いカーテン越しに柔らかな光が漏れていた。
「ああ、何ともねえな」
「そうか、よかった」
 安心したように一つ大きく伸びをして、近藤が穏やかに笑う。
「しかし陽性の腫瘍でよかったな。あとは二、三日様子見て検査結果に異常がなきゃ退院できるそうだ」
「悪ィな、近藤さん。迷惑かけちまって、」
「なァに、たまには休めって神様が言ってんだろ。気にすんな」
「そう思ってんなら、俺がいない間にサボらねぇようにしてくれよ」
 呆れたように溜息交じりでそう答えれば、近藤はばつが悪そうに苦笑した。だって恋はハリケーンなんだもん、と頬を膨らませている。
「トシ?大丈夫か?」
 ふと目の前が遠くなったような気がして押し黙ると、近藤が心配そうに覗き込んでくる。我に返って土方は息を吐いた。
「ああ、何でもねえよ。心配しないでくれ、」
「そうか?でも心配すんのは当然だろ?頭なんだからよ。変なとこあったらすぐ言えよ」
「大丈夫だって。開頭した訳じゃねえんだし、」
 鼻から挿入した器具で腫瘍を取り除く。土方が医師から受けた説明は簡単なものだった。だが、手術までに至る経緯はどこかぼんやりとしている。まだ体に麻酔が残っているのだろうか。
 年に一回の健康診断で要検査になった。精密検査を受けたところ、脳に腫瘍が発見された。悪性ではなく、陽性である事。発見も早く、今なら簡単な手術で仕事にも影響は無いだろうという事。そう聞かせられれば、手術を受けない理由は無かった。
「ま、とにかく無理すんなよ」
「ああ、」
「俺もう行くから、せっかくだからゆっくり休めよ」
「大丈夫だ。それより屯所に真っ直ぐ帰ってくれよ」
 返した言葉に苦笑いする近藤に呆れを含んだ視線を送る。釘を刺したところで変わらないことはわかっているが、小言がつい口を突いてしまった。また笑みを一つ零して近藤が部屋を後にする。
 窓の外へ視線を向ければ応えるように木立がざわめいている。ふと瞼の裏を朧気な光に焼かれたような気がして、ゆっくりと瞳を閉じた。

 陽炎にも似た淡い熱がゆらゆらと浮かんでいる。
 一瞬、名を呼ばれたように感じたのはきっと気のせいだ。





 軒先の赤い提灯に火が灯り、夜七時も過ぎれば暖簾越しに見える店内はほぼ満席と言って良い状態だ。僅かに残ったカウンター席の一つに手をかけ、静かに椅子を引く。
「よぉ、一杯やらねえか?」
 そう声をかければ隣の男が緩慢な動きで顔を上げる。死んだ魚のような瞳が揺れて、面倒臭そうに溜息が続けられた。
「見りゃわかんだろ、もう間に合ってんの。何でゴリラと飲まなきゃならねェんだ」
「いいじゃねえかたまには。奢るぞ」
 席に着いたばかりなのか、男の目の前に置かれたビールのジョッキにはまだ口を付けた様子は無い。おしぼりを受け取るついでに同じ物をオーダーし、顔を拭いながら隣へ腰掛けた。親父臭ェなと笑う声が聞こえてきたことに安心して、ジョッキに口をつける。店内が混み合っているせいなのか、普段より粗雑に注がれたビールは泡が多く感じた。瓶にすればよかったなと零せばどっちでも同じだろと男がまた笑う。
「日本酒飲むか?刺身頼んだから冷にするか。付き合えよ、」
「……どうしちゃったのお前。お妙の手料理でも食った?」
「お妙さんの料理だったらいくらでも入りますぅ!いいだろ、飲みたい気分なんだよ」
 猪口を差し出しながら、徳利を傾ける。呆れ混じりの吐息が喧騒に混じって弾けていく。沈黙を呑み込むように手にした酒を勢い良く流し込むと、横で静かに息を吐く気配がした。
「……俺に聞きてェことがあるなら先にしな。酔ったら絶対何も言わねえぞ」
 視線は注がれた水面を見つめながら、きっぱりとそう言い放つ姿に確信する。居住まいを正すように酒を置いて、近藤はゆっくりと口を開いた。
「ああ、そういう奴だよな。お前は」
 これは、ただの独り言だ。
「トシがよ、今日手術してな。まあ、異常が無けりゃ二、三日で退院できるんだけどよ、」
 唐突な言葉に相槌を打つこともなく、銀時は静かに猪口を傾けている。やはり、全てわかっているのだろう。
「検査に引っかかって急遽手術。もし、何かあったらそういう体で接してくれ」
「……何でだよ。接することなんてねえよ」
「そうかもな。けどよ、」
 水面が揺れて、波紋を描く。
「アイツが忘れたがってたの、お前だろ、」
 映り込んだ歪んだ景色を全て溶かして呑み込んでしまえたら楽になれるのだろうか。
「悪ィ。何か聞きてェ訳じゃねえんだ。ただ……何だろうな、わかんねえや、」
 言葉と共に勢い良く酒を呑み込めば、その声を封じるように喉が焼ける。それ以上は何も言えなかった。秘められた感情を暴きたかった訳ではない。わかっている。
「……野郎が、死んだ奴を忘れたがるような奴じゃねェから、って?」
 不意に告げられた言葉に視線を向ける。音に乗せた感情は静かなものだったが、深い熱を孕んでいるのが見て取れた。思わず息を呑む。
「いや、詮索するつもりはねェんだ。今言ったことは忘れてくれ」
 振り払うようにそう告げると、銀時が穏やかに微笑んだ。
「……その台詞を俺に言うのかよ」
「ああ、すまねえな」
 忘れてくれ。残酷な言葉だ。記憶は己の意志で操れる物ではない。自分はかつて誰かにその言葉を言われたことはあっただろうか。わからないままに、ただどうしようもない気持ちになる。二人はもう、決めてしまったのだろう。
「……何で求めることを悪とするんだって思っちまうよ。どうしても、」
 思わず口をついて出た言葉に、銀時の瞳が揺れた。何故だと問いかけたところで無駄だ。残酷なことを言っている自覚はある。それでも。
「大事なものはいくらあったっていいじゃねえか。俺は組の奴らとも、お妙さんとも、お前らみてえなバカとも一緒に生きてえよ。全部、諦めたくねえんだ」
 空になった猪口を手のひらで玩んでいると、再び酒を注がれる。一瞬だけ水面に映った赤い瞳がゆっくりと伏せられていく。
「……それができるのがお前で、できないのが奴なんだろ。それだけだ」
「なら、お前はどうなんだ」
 背後のテーブルに座っている客がはしゃいでグラスを倒す音がどこか遠くに聞こえてきた。
「俺は、」
 切り取られた空間に、穏やかな熱が満ちる。
「……もう、何もいらねえ、」
 滲む音には寂しさや哀しみなど微塵も無かった。伏せられていた睫毛が震えて、此処には無い何かを見つめている。誰かを想う、柔らかな声が優しく響いていた。

「全部、持ってるからよ」

 只々、幸せだと。



「オイ、ちゃんと歩けよ。ったく何で俺がゴリラの面倒見なきゃならねえんだ」
「おー感謝するぜ、万事屋!」
 悪態をつきながらも捨て置くことはしない男にヘラヘラと笑いかけながら、覚束無い足取りで夜道を進む。最後の角を曲がり、屯所の門が見えるのと同時に慣れた声が聞こえてきた。山崎だ。
「局長!も〜探したんですよ!旦那、わざわざすいません、」
「ったく、こっちだってやりたくてやってんじゃねえんだよ。しっかり檻に入れとけコノヤロー」
 銀時がそう吐き捨てながら踵を返した瞬間、山崎が躊躇するように言葉を続けた。
「あ、旦那、」
「何だよ、まだ何かあんのか?」
「……いや、その、なんでもないです」
「あっそ、じゃあな」
 冷えた夜風が肌を擽り、柔らかな銀髪がふわりと揺れた。気だるげな姿は次第に遠ざかり、宵闇へと消えていく。差し出された肩に凭れると、山崎が仕切り直すように深呼吸をした。
「珍しいですね。局長が万事屋の旦那と飲むなんて」
「まあ、たまたまな」
 静かに時が流れる。過去は、戻らない。
「さっき、副長の病室行ってきたんですけど、少し様子がおかしくて」
「……なに、」
「いやでも、俺の勘違いかもしれないんで、気にしないでください。身体は大丈夫そうだったし」
「そうか、」
 見上げた夜空は新月なのか月も星も出ていない。不安にも似た心許なさが深い闇色へと広がっていく。隠すことなどできないのはわかっている。それでも少しでもその絶望を引き延ばしたいと思ってしまう。今は、まだ。このまま。
「……俺はよ、お妙さんに惚れてんだ」
「何なんですか、いきなり。もう聞き飽きましたよ」
「生まれ変わってもまた絶対好きになっちゃうよなぁ」
「はいはいそうですか。よかったですね」
 風がまた、時計の針を進めるように吹いていく。

『俺は、』
『……もう、何もいらねえ、』

 蘇る言葉を噛み締めながら、近藤は静かに瞳を閉じた。

(……お前がそう言うなら、俺は何もしねェ。できることもねェ。)
(けど、もし、)

 恐れていることは一つ。違った道の行きつく先。
 その先に、もしも、同じことが繰り返されてしまったら。

(……そしたら、そん時に壊れちまうのは、お前のほうじゃねえのか。)

 光を探して空を仰ぐ。運命という残酷な言葉の意味をこの時はまだ知らなかった。


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