ドッペルゲンガー


 なんて残酷な男だろう。

 何も言わず、このまま時が流れていくのだと思っていた。
 俺達の間には甘ったるい睦言など必要ない。そんな物は反吐が出る。そう思っていた。

 何も失わせたくない。

 なあ、土方。
 大事なモンの傍らで剣振り回してくたばれよ。いつか来るその時、その隣に居るのは俺じゃない、そうだろう?



【3】夢路



「銀時、」
 名を呼ばれる度に、胸の中で卑怯者、と繰り返した。なんて勝手な奴なんだろう。でもそんな奴でなければきっと、想いを寄せることもなかった。
「銀時、すまねえ、」
 土方が謝罪の言葉を口にする度、それを咎めるように唇を重ねる。謝るくらいなら、何故ここへ来たんだという想いを込めて。
 濡れた舌がゆっくりと熱を送り込んでくる。息の仕方を忘れてしまったように苦しい。上顎を擽られるのがもどかしくて、濡れた隊服を握り締めた。
「銀時、」
「……朝まで俺のなんだろ?なあ、抱けよ」
 スカーフを解いて放り投げる。濡れて重みを増した布が音を立てて床に落ちた。古い木製の床が滲んで明日にはシミになってしまうかもしれない。そのくらいの痕跡は残させて欲しかった。
 隊服の上着とシャツを脱ぎ捨て、銀時の帯や着流しを剥ぎ取りながら土方が廊下を進む。
 足を縺れさせながら寄りかかり、その肩に身を預けて、銀時は玄関までの光景をぼんやりと見た。朝になって、これを拾いながら玄関に着いたら全て元通り。きっと何事も無かったかのように。まるで逆再生だとどうでもいいことを思った。
 今ここに神楽がいるのかどうかさえ聞かれなかった。居ても関係ないということなのだろうか。それともそれにすら、気を回せないほど焦燥に駆られているのか。
 今日はお妙とお泊り女子会をするからと出かけていった姿を思い出す。このタイミングで留守にしている事実さえ、不思議な感覚だった。そのまま敷きっ放しの布団に押し倒されても、どこか、画面越しの世界に飛び込んでしまったような錯覚があった。
「ぎんとき、」
 差し入れた両手で銀時の髪を撫で回しながら、土方が感極まったように呟く。また、唇が重なる。酸素を求めて口を開けば、すぐに舌を差し入れられる。再び呼吸を奪われて、熱が上がると同時に甘い痺れが身体の中心に溜まっていく。
(……お前が好きだ、)
 いつからなんて考えたこともなかった。気付いたら、それはただの事実として己の胸の定位置に巣食っていた。自分にとってはそれだけのことだ。
(……大丈夫。お前みたいに、俺は苦しまねぇから、)
 隠しているつもりもなかった。その感情を捨てようとも思わなかった。
 それ以上は何も、望んでいなかったから。
『……綺麗だな』
 あの言葉だけで、あの絡めた指先の温度だけで、充分過ぎた。あの夜を反芻するだけで、これから先も生きていけると思っていた。でもきっと、あの出来事が逆にこの男をここまで追い詰めてしまったのだろう。
「土方、」
 キスをしながら何も纏っていない上半身をぴたりと合わせているだけで、身体の芯が溶けていくようだった。上がっていく鼓動と急いた吐息が比例する。
「……っ、銀時、銀時、好きだ、」
「俺も、」
 所有の痕をつけながら首筋を下りていた唇がある一点で動きを止める。そこに舌を這わされた瞬間、電流を流されたかのような痺れが奔りビクビクと全身が跳ねた。
「……っ、あ、そこ、ダメ、だ」
「っは、すげえな、」
 感嘆の息を漏らして土方が上擦った声を上げる。左肩、他の皮膚より少し薄くなっているその場所。身体が火照った時にだけ、ほんのり赤く現れる、刀傷の痕。
「や、やだ、土方、」
「何でだよ。これ、俺のだろ……なぁ、前に、俺がつけた、」
「……っ、ん、ダメ、だめだって、っ」
 下着越しにお互いの熱くなった部分を擦り合わせて腰を揺すりながら、土方がその傷跡を執拗に舐る。堪らなかった。直接性器を刺激されるよりも、その光景は銀時を狂わせた。己の魂に、直に触れられているようだった。
「ひじかた、やめ、お願い、」
 わかっている。本当に嫌なら撥ね退ければいいだけのことだ。体の中を這い回る獰猛な衝動に抗えず、下着を取り払い互いの熱を重ねて握り込んだ。その間も土方は銀時の傷跡に歯を立て、尖らせた舌でその輪郭を辿っていく。部屋に響く水音に比例して、狂ったように頭を振って銀時は泣き叫んだ。
「あ、もう、イっちまう、も、だめ、」
「……っ、銀時、銀時、クソ、たまんねえ、テメーを食っちまいてえよ、」
「や、ひじかた、ひじかたっ、」
 ああ、と一際大きく喘ぎながら果てる。
 本当に食べてくれればいいのにと思った。お前の血肉になって共に生きられたらと、決して叶わない願いを胸の中で唱えた。なんて馬鹿な願いだろう。叶わないことなんて知っている。だから、せめて乱暴にして欲しかった。肉を引き裂いて、血を啜って、その存在を刻み込んで欲しかった。体中に爪跡を残して欲しかったのに、それすら叶えられることはなかった。
 土方は乱暴な口調とは裏腹にゆっくりと身体を暴いていく。愛おしそうに舌を這わせ、銀時が震えるとその場所ばかりを執拗に弄り、熱の籠った低い声で、声を聞かせろと耳朶を食む。
 愛撫という言葉を一つ一つ教えるように、優しく壊れ物を扱うように、銀時の身体を深く愛しながら熱を高めていく。穏やかな微温湯の中を揺蕩うように体の芯をぐずぐずに溶かして、また傷跡に舌を這わせながら甘い快感を導き、気が狂うほどの快楽を何度も何度も与え続けた。
 土方の熱が肉を割り開いて押し入ってきた瞬間、銀時はそれだけで再び達していた。
 熱を納めた途端に激しく揺さぶられて必死にしがみつきながら、込み上げる感情を誤魔化してただ泣いた。
 夢中で互いを求めて獣のように交わったかと思えば、次に与えられたのはゆったりと熱を交換するような行為だった。胡坐を掻いた膝の上に乗せられ、向き合いながらキスを交わす。猫のように肌を摺り寄せ合いながら、再び土方の熱が徐々に侵入してくるのと同時に熱い吐息が耳元を擽った。
 気持ち良さそうに寄せられた眉間の皺が愛おしくて、銀時は何度もそこへ口付けを落とす。時折緩やかに腰を揺すって、唇を啄み、戯れるように抱き合った。
 静かに高められる熱は、互いの魂を、命を辿っていく。

「っん、お前、誕生日は?」
「何だよ急に。五月五日だ」
「へへ、子供の日じゃねーか、」
「うるせえ、笑うな。てめえはどうなんだよ」
「俺?俺は十月十日。たぶんだけど、」
「……似たようなモンじゃねえか。体育の日か、道理で頭空っぽな訳だ」
「うるせーもう体育の日は違ェんだよ。今の若ぇモンは知らねーぞ」

 何度も身体を繋げて一つに重なりながら、色んな話をした。
 今まで辿って来た道。出会った人達。己のパンドラに封じ込めていた、膿んだ苦い記憶まで。
 夜が更けても二人一睡もせず、瞬きで互いの姿が遮られることすら厭った。

「もう、二度と言わねえ。誰にも、」

「十四郎、」

 最初で、最後だから、全てを。

「愛してるから。ずっと。お前が、俺を忘れても」

 迫りくる朝の気配を認めたくなくて、きつく目を瞑りながら、お互いの存在を確かめ合う。だが、目を閉じても、遠くで夜明けを告げる鳥の声は澄んだ空気を伝って容赦無く響いた。
 目を開けたくなかった。気付かない振りをしながら、抱き締める腕に力を込めた。胸に顔を摺り寄せると、旋毛に優しい感触が何度も押し当てられる。匂いを覚えるようにもう一度深く息を吸って顔を上げた。
「……もう、行くのか、」
「ああ、」
 脱ぎ捨てた服を一枚一枚拾いながら、玄関へと辿り着く。初めに想像したのと全く同じ光景だった。全てがリセットされる。
 土方は靴を履いて立ち上がると、もう一度目を細めて銀時を抱き寄せた。そうして一つ深呼吸してから、静かに身体を離す。最後に頬を一撫でして、その動きを止めた。
 まるで目の前の光景を切り取ろうとするように、己の瞼でシャッターを切るように、ゆっくりと瞬きを繰り返す。そして、懐を探りながら小さく呟いた。
「……これを、」
 小さな濃紺の縮緬でできた守り袋が手のひらに乗せられる。視線に促されて中を開けると、革紐に天眼石が数粒ついた付いた御守が現れた。
 黒檀のような深い色の中に光の筋のような模様が入っている。まるで目の前の男の瞳のようだと思った。
「武州を出る時、俺たち三人がアイツから貰ったもんだ。元は数珠だったんだが、紐が切れちまってもうこれしか残ってねえ」
 土方の言う「アイツ」が誰を指すかなど、聞くまでもなかった。瞼の裏に淡く儚いシルエットが浮かぶ。
 きっと彼女も一人取り残される事実より、何よりも彼らの身を案じたのだろう。
 天眼石は魔除けの石だ。悪事や災難を撥ね返し、己の意志を強める力を持つと言われている。毎日無事で頑張って欲しいと、地に足をつけて前へ進んで欲しいと、この石に願いを込めたのだろう。
「お前が持っててくれねえか、銀時」
 石に触れた途端、凛とした彼女の魂に抱き締められたような気がした。己の意志とは裏腹に込み上げる嗚咽を、耐えることができなかった。言葉の代わりに溢れた感情が頬を伝う。
「……銀時、」
 濡れた頬に唇を寄せて、土方が何度も銀時の名前を呼ぶ。熱い想いが喉を焼いて、声を出すこともできなかった。どうせならこの身すら、燃やし尽くしてくれればいいのに。
『ありがとう、万事屋さん』
 ふと、あの優しい柔らかな微笑みが甦る。最後の瞬間まで、彼ら三人のことを誇りだと、出会えた自分は幸せだと笑っていた。そう言って、彼女の弟が一度だけ銀時の前で静かに涙を溢したことを思い出す。誰よりも強く、美しい魂を持っていた彼女。
 笑って見送ろうと決めていた。泣けばお互い苦しくなるから最後は決して涙は見せまいと思っていた。今この瞬間まで、上手くいっていたのに、どうして。
「ここ出るまでの俺は、全部てめえのモンだ。全部、全部てめえに預けてく」
「……っ、かやろ、」
「好きだ。もう、お前だけだ。『俺』を、お前が持っててくれ、」
 返事の代わりに視線を合わせてもう一度唇を重ねた。

「……ああ、大事にする、」

 苦くて塩辛い、決別の味。

「土方、」

 これが、最後のキスになることもわかっていた。

「元気でやれよ」

 好きだよ。お前が好きだ。
 お前だけを愛している。これからもずっと。

 俺が失った物を持っているお前。
 酷く不器用で、真面目で危ういお前。
 幸せは手放すものだと思っているお前。
 全ての想いと真摯に向き合い、全て背負うとするから押し潰されてしまう。ちょっとずつ摘んでみせるくらいの器用さがあればもっと生きやすいだろうに。

 でも、だから俺はそういうお前を好きになった。

 土方、

 お前に何も失わせない。

 土方十四郎、

 さようなら、
 俺の、宝物。


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