ドッペルゲンガー


「なあ、トシは知ってるか?」
「あ?」
 不意に声をかけられて、土方は自分がまたしても思考を奪われていたことに気が付いた。慌てて脳裏を過った男の姿を掻き消す。
 もう耐えられそうにない。これ以上は狂ってしまいそうだ。限界だと己の胸を掻き毟りたくなった。
 なんて様だ。このままでは自分の大事なものなど守れる筈がない。魂を捧げるものが揺らいではならないのに。
「トシ?」
「いや、」
 視線を向ければ、近藤が心配そうに首を傾げている。けれど己の葛藤をぶちまける訳にはいかなかった。
「何でもねえ。どうしたって?」
「ああ、それがよ、今天人の新しい医療技術が話題になってるんだと」
 懐から取り出した一部のパンフレットを土方に差し出し、近藤は腕を組んで軽くため息を吐いた。見るからに胡散臭そうなポップな絵柄が紙の中で踊っている。
「『メモリーチョイス』?何だこりゃ、」
「思い出を選べるんだと、」
「はあ?」
 顎髭を人差し指で掻きながら苦笑する姿は、どうも要領を得ない。だが軽く続けられた言葉に、土方の体は雷に撃たれたような衝撃を受けた。
「その施術を受けりゃ、自分に不要な記憶を忘れられるんだと」
「……なに、」
「今日警護で会ったお偉いさんいるだろ?」
「ああ、」
「受けたいらしいんだが脳味噌弄るような真似は怖いって言っててよ。真選組で誰か実験台になれって言い出してな、」
 口に咥えた煙草を落としそうになる。慌てて灰皿へと押し付けた。
「勿論断ったんだが、奴さんエラく食い下がってきてな。もしかすっとトシにも直接言ってくるかもしれねえから先に伝えとこうと思ってよ。薬飲んでMRIみてえな機械通るだけらしいんだけど、だからってなあ?」
 脳裏を過ぎる男の姿が淡く滲んでいく。
「ったく冗談じゃねえ。大事な仲間にそんなことさせられるか」
「あ、ああ。そうだな」
 明らかに動揺している声を誤魔化すことさえできなかった。口の中が酷く乾いている。
「……それ、受けたいって言ったらどうすんだ」
「トシ?」
 不審そうに眉を寄せる近藤を無視して一気に言葉を紡ぐ。口にしてしまえば止めることはできなかった。決意は後から追ってくることにも、もう気付いていた。
「なあ、近藤さん、俺に受けさせてくれねえか。頼む」
「何言ってんだ。安全だって保障はねえんだぞ」
 予想外だったのだろう。近藤はあからさまにうろたえている。
「トシ、もし組の立場を気にしてんなら、」
「違う。そうじゃねえ、俺の個人的な希望だ」
 そう、今の自分は組の為を思って手を挙げるのではないのだ。
 情けなくて、土方はきつく唇を噛み締めた。組を想って、ではない。自分が苦しみから逃れる為だけに藁にも縋る思いで手を伸ばしている。
「……頼む、」
 深々と頭を下げた土方に視線を送りながら、近藤が深い溜息を吐いた。
「トシ、俺は人生に不要なモンは何一つねえって思ってる。今まで感じてきたこと全部が今の俺を作ってんだ。そうだろ?」
 言いたいことは痛いほどにわかっている。だが、今の自分は銀時に出会ったことによって己を失ってしまった。
「……わかってる、」
 真っ直ぐな近藤の視線から逃げないように、土方は一つ呼吸をして向き直った。
「けど、忘れてえんだ。どうしても、」
「……何を、」
 言葉を発した自らが驚いてしまうほど、悲痛に満ちた声が静かな部屋に響く。
「……頼む、近藤さん、何も聞かないでくれ」
「トシ、お前、」
 握り締めた拳が震える。指先にはまだあの日の銀時の体温が残っているような気がした。
 瞳を閉じれば、あの銀色の髪が瞼の裏で揺れている。
 消えてしまう前に、せめてもう一度。ひと目だけでもあの姿を魂に焼き付けたかった。



【2】忘却



「あれ?副長、お出かけですか?」
「ああ、」
 ラケットを背中に隠しながら、山崎が顔色を窺うように首を傾げる。怒る気にはならなかった。
 西の空が暗く、雨雲を連れてくる。
「これから天気荒れるみたいですから気をつけてくださいね」
「ああ、そうだな、」
 曖昧に頷いて屯所を後にする。山崎の予告通り、空はみるみる内に厚い雲を増していった。ぽつり、ぽつりと肌を叩く冷たい感触に、道行く人々が慌てて走り出す。走る町人と肩がぶつかっても、土方の目には何も映らなかった。何も、聞こえなかった。
『土方、』
 自分を呼んだ声を、鮮明に覚えている。
『土方くん、』
 どうしてこんなに弱くなってしまったのだろう。たった一人の男の存在が、全てを変えてしまった。
 雨は次第に強さを増していく。ゆっくりと顔を上げると、見慣れた看板が目に入った。一段一段、踏み締めるように階段を上がる。
 何をしたいのかと己に問い掛けても、答えは何も出ない。考えがまとまらないうちに、短い階段は終わり、玄関に着いてしまう。当然呼び鈴を押せるわけもなく、土方はその場に立ち尽くしていた。遠くから雷鳴が轟く。前髪から零れる雫が、次々に肌を濡らしていった。
 どれくらいの時間そうしていただろうか。
一つの気配が玄関へと近付いてくるのを感じて、土方は顔を上げた。子供の物ではない、緩やかな足音。思わず逃げ出してしまいそうになるのを堪えて、唇を噛み締める。影が手をかけるのと同時に、カラカラと軽い音を立てて戸が開いた。
「人ん家の前で突っ立って何の用ですかーって、アレ?何してんのお前」
「…………あ、」
 紅い瞳に映る自分の姿は酷く頼りない。言い訳の一つも用意していないことに今更気付いて、土方は言葉を詰まらせる。
「その、悪ィ、」
「いやだから何してんのって、」
 不思議そうに首を傾げる銀時に返す言葉が見つからず、視線を彷徨わせる。抑えていた感情が溢れ出して、言葉に変換することができない。
「つーかびしょ濡れじゃねえか、上がれよ」
 心配そうに顔を覗き込みながら、銀時が手招きする。
「タオル持ってくっから、ちょっと待ってろ、」
 そう言って部屋に戻ろうとする後姿に思わず手を伸ばす。冷えた指先に柔らかな温度が触れる。あの夜と同じように、指先を絡めると、銀時の背中がビクリと震えた。堪らなくて、指先に力を籠める。
 振り返った銀時の目には、戸惑いと僅かな怯えが映っていた。
「……タオル、」
「後でいい」
「風邪ひいちまう、」
「構わねえ、」
 繋いだ手を決して離すことはしない。今だけだと言い聞かせて込み上げる想いを吐き出す。重すぎて、痞えてしまう。
 落ち着くために、強く握り締めていた手から少し力を抜くと、銀時が何かを覚悟したように瞳を閉じた。
「……土方、」
「何で、そんな顔してんだよ、」
 今にも消え入りそうなか細い声で、呟く。
「明日打ち首にでもなんのか?」
「ああ、」
しかも自らそれを選んだのに、不幸ぶってこんなところまで来てしまった。紛れもない罪人だ。
「……すまねえ、」
 何て卑怯なのだろう。一方的に想いだけを押し付けて、自分は去る。投げ捨てた罪を全て、この男に背負わせるのだ。
「何がすまねえんだよ、」
「……そんな顔すんじゃねえよ」
「いつもみてえに目ェ吊り上げて俺のこと睨んでこいよ」
「ガキみてぇに喧嘩吹っかけてこいよ、」
「俺は、」
 ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、銀時の声は弱々しく揺れ始める。けれどもその瞳は真っ直ぐに土方を射抜いていた。
「俺は、そういうテメーに惚れたんだよ」
 眦が滲んでいることに気付いて、堪らずに目の前の身体を掻き抱く。自分がずぶ濡れだということもとうに忘れていた。
 銀の髪を探って、首筋に鼻先を埋める。暖かい、柔らかな陽の匂いが届く。苦しかった。どれだけ自分が焦がれていたのかを思い知らされる。
 欲しくて、欲しくて堪らなかった。ずっとこの手に抱くのを待ち望んでいた。
 この手も、この髪も、視線も、肌も、声も全て。全て自分のものにしたくて堪らなかった。誰もお前の代わりになれないことを知った時の絶望を胸の奥に仕舞いこんで、気が狂いそうだった。いや、もうとっくに狂っていたのだ。
「……ひじかた、」
 名を呼ばれる度に、甘い疼きが獰猛な熱に変わる。
「すまねえ、好きだ、」
「……うん、」
 このまま抱き締めている腕に思い切り力を籠めて、殺してしまいたいとさえ思う。そうしたら永遠になるのに。
 白い首筋にそっと唇を這わせる。雨ですっかり冷えてしまった唇は冷たいだろうに、銀時は逃れようとはしなかった。それどころか土方に応えるように、伸ばした手で濡れた隊服の背中にしがみ付く。
「……一生、言わねえし、聞くこともねえだろうって思ってた、」
 途切れ途切れに銀時が言葉を漏らした。
「なんで、来たんだよ、」
 苦しげな言葉が胸を深々と貫く。
 涙が溢れそうになるのを誤魔化す為に、土方はきつく瞼を閉じた。込み上げる嗚咽を堪えるのに必死だった。
 どうしてこんなに惹かれてしまったのかと、何度同じ問いを繰り返しただろう。その度に答えは出ず、行き場の無い苛立ちと後悔に苛まれていた。
「銀時、銀時、」
 何度名を呼ぼうとも想いが薄れることはない。息苦しさも消えない。
 今だけだから、許してくれ。
 そう絞り出すように発した言葉に、銀時の動きが止まった。
「なに、」
 胸に開いた傷口がじくじくと傷む。同じ傷を、今、この男につけようとしている。それも綺麗な傷ではない。痕を残す為に抉り出す。
「……明日になったら、テメーのこと、忘れることにした、」
 目は逸らさずに、伝える。それでも声が震えた。
「天人の技術で、記憶、弄れんだと、」
 このままでは自分を見失う。
 組よりもお前が大事になってしまう。
 それは自分の士道に反する。
 声に出すと、勝手過ぎて呆れてしまう。そう思うのなら、万事屋に来るべきではない。想いを伝えて一番苦しむのは銀時ではないか。
 わかっているのに来てしまった。心の何処かで、惚れた人間が、自分のことで苦しむ姿を見たいと思っているのだ。浅ましい、薄汚れた独占欲に塗れている。
「……ぇ、」
 不意に響いた掠れ声に、我に帰る。視線を戻せば、銀時が柔らかな表情をしながら、頬に触れた。
「……俺ァ、構わねえよ、」
「銀時、」
 指先が、何かを確かめるように何度も頬を撫でる。
「だったら、」
「だったら俺が二度と忘れねえように刻み込めよ」
「俺にテメーを覚え込ませろよ。一生、覚えててやるから、」
「……銀時、」
「想い出があれば生きてけるなんてしみったれたこと言う訳じゃねえよ、」
「……けど、そしたら、俺はテメーが選んだ道、ずっと見てられるじゃねえか、」
 音も無く零れる感情。眦から流れ落ちるそれを隠すこともせずに、銀時が絡めた指先に口付ける。震える身体を再び抱き締めて、そっと唇を塞いだ。
 決して強い男ではないと知ってしまった。
 それなのに、一番柔らかい部分を曝け出して、そこに傷をつけられることを厭わない。平気な筈はないのに。
「ひじかた、」
 濡れた服を脱ぎ捨てて、溺れるように肌を重ねる。
「朝まで、俺のな、」
 そう言って、銀時が笑う。
 溢れそうになる涙を堪えて、肩口に噛み付いた。痕をつけて、噛んで傷を作る。痛えよ、と不満を漏らしながら、それでも嬉しそうに笑う姿が、何度も滲んだ。

 明日が来れば。
 この男を忘れる。この腕の中の熱が、存在が全て消える。

 もう一人の自分を、作り出す為に。


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