ドッペルゲンガー
「すまねえ、」
肌を伝う雫がゆっくりと落ちていく。
玄関の電気のスイッチを点けようとした手を止めて、銀時は静かに顔を上げた。苦しそうに自分を見つめる視線に全てを悟る。
これは最初で最後なのだと。
「……ぎん、とき、」
初めて言葉を覚えた子供のように、土方が一音一音を確かめながら声を漏らした。
掠れた、呻き声にも似ているそれは酷く胸を締め付けていく。そのまま心臓が潰れて二度と息ができなくなればいいと思った。そうできればよかった。
蒼白い光に一瞬だけ映し出された陰影が瞼の裏に焼き付いた。ガラス越しの空を紫色の雲が覆い尽くしている。
何を考えている訳でもない。ただその暗い瞳に吸い寄せられるようにして、銀時は土方の頬に手を伸ばした。
触れるのは、二度目だった。初めて触れた時とはまるで違う肌の温度。ひんやりと冷たく、まるで彫刻のような感触を銀時に伝えてくる。前に触れた時は、酒のせいか火照って熱かった。そんなことを考えていると、土方の瞳が静かに揺らめき、そこに映っている自分の姿が動く。戦慄く唇に小さく名を呼ばれて、そのままゆっくりと瞳を閉じた。
「銀時、」
鼓動が割れんばかりの勢いで胸を叩く。
繰り返し呼ばれる名が特別な意味を持って、己の心臓を動かしているようだと思った。
「……俺ァ、それでも構わねえよ、」
息を吐くつもりで発した自分の声も酷く掠れていて、なんだか可笑しかった。
土砂降りに変わった雨がまるで檻のように感じる。
このまま二人閉じ込められてしまえばいい。そう考えてから、銀時はゆるゆると頭を振って思考を振り払った。
少なくとも、雨が止むまでは、朝を迎えるまではこうしていられる。
「銀時、」
酷く残酷で臆病な男が、今この瞬間は自分だけを見つめている。
嬉しくて堪らなかった。
朝が来るまで、自分はこの男のものになれるのだ、と。
【1】指先
落とした視線の先に現れる名前を見詰めながら土方は一つ息を吐いた。
手にした山崎からの報告書を握り締めてしまいそうになるのを堪えて、己を落ち着かせる為にポケットの中の煙草を探る。
時の流れをこれほど恨んだことはない。
降り積もった感情の残骸はいつまで経っても消化できず、その量だけが増していく。
いつからかなんてことは問う気にもなれなかった。
「副長?どうかしたんですか?」
不意にそう発せられた声を聞いて、土方は目の前に座っていた山崎の存在さえ忘れていたことに気付く。
「……どうかしてんのはてめえの頭だろうが!何だこの報告は、ふざけてんのか?」
いつもの様に怒鳴っていても、握り締めた拳に宿るのは山崎ではなく自分自身への怒りだった。
八つ当たりだ、と思う。本当は報告書の書き方が作文であろうとどうでもいい。
上に提出する物ならいざ知らず、自分が読む物に対して土方が形式を重んじたことはなかった。重要なのは中身だ。疑いがかかっている当人が敵か味方か判断がつけばいい。形はどうあれ、再び提出された山崎の報告書はあの男を疑う必要はないと明確に告げていた。その内容が、あの男が伝説の攘夷志士であったことを記してあっても。ましてや死刑の確定した罪人であったことを示していても。それでも、敵ではない、と。
それなのに苛立つ理由。それに気付いているからこそ、土方はやり場のない感情を持て余していた。
「……もういい。下がれ、」
「す、すいません失礼しまっす!」
溜息交じりに煙草の煙を吐くと、山崎が脱兎のごとく土方の前から逃げ出す。大人気ないとわかっていても態度に出てしまう自分に一層腹が立った。
『一々突っ掛かってくんじゃねえよ。腹立つ野郎だな、』
『そりゃこっちの台詞だ!俺の行く先々現れやがってムカつくんだよテメーは、』
何度も、何度も繰り返される言葉の数々。それが苦しいと気付いたのはいつからだったろうか。
会いたくないと強く念じながら足を進める日々。それなのに外へ一歩でれば意に反してあの銀色の光を探している自分がいた。
胸に巣食った痛みは次第に酷くなっていく。
姿を見れば舌打ちをし、顔を合わせれば罵声を交わす。姿を見なければ見ないで同じように舌打ちをし、次に顔を見るまで胸の痛みが続く。ジリジリと心臓が端から磨り潰されているように感じた。
何か悪い病にかかったのかと誰にも内緒で検査を受けた。
診断を待つ間、土方は悪い結果が出ることをずっと祈っていた。
名のつく病であればどんなにいいだろうか。その方がずっと救われる。説明のつかない感情ほど自分を邪魔するものはない。夜毎胸を焦がしていく痛みなど今の自分はあってはならない。組の為に生きる、それだけが自分の望みである筈なのに。祈りにも、呪いにも似た想いだった。
『よー税金泥棒』
『善良な一般市民にちょっとくらい酒奢ってくれても罰当たんねえと思うけど?』
その日土方が男の言葉に乗ってしまったのは、只の気まぐれだった。既に何処かで飲んできたのだろう、男はほろ酔い状態で土方の肩を軽く叩いた。
『何で税金払ってねえ奴に奢ってやらなきゃならねーんだ』
『失礼な。ちゃんと払ってますぅ、滞納してるだけですぅ』
『払ってねえじゃねえか、』
『うるせえ、俺ァ将来を見据えて言ってんだよ。とにかく酒飲もうぜお前の金で』
子供のように口を尖らせて憎まれ口を叩く。そんなに食い下がるほど、一緒に飲みたいのかと言ってしまいそうになる。期待してしまう。
もううんざりだった。この男の言葉一つ、仕草一つに振り回される自分が嫌で堪らなかった。それなのに身体の奥底ではいつもこの男を求めている。
『……しょうがねえな、』
『え?ほんと、マジ?』
『奢るとはまだ言ってねえよ。俺に勝ったらな、』
『何言ってんだ。じゃあもうお前の奢りで決定だろ』
『言ってろ。すぐ後悔すんぞテメー、』
あちこち気まぐれに跳ねた毛先が嬉しそうにぴょこぴょこ踊る。
勝負なんてとうの昔についている。所詮惚れたほうが負けなのだ。悔しさを誤魔化すように土方は酒を一気に呷った。
『これ美味いな。俺金ないんだけど、こんな高そうなトコいいのかよ』
『ハナからテメーには期待してねェよ』
小鉢の中の巾着を突きながら、酒で惚けた締まりのない顔がさらに綻ぶ。喜ぶその顔が見たかったからだと言ったら、一体どんな顔をするのだろうか。ゆらゆらと揺れる銀色の髪が、夜の闇に浮かぶ月と重なって見えた。だいぶ酒が回っていたのかもしれない。心の中だけに留めておく筈の呟きを口に出してしまっていた。
『……綺麗だな』
しまった、と思った。口にした言葉が音になり、自分の耳に届いてからようやく失態を犯したことに気付く。ハッとして、手のひらで口元を覆う。それがもっと悪かった。誤魔化す術を失った土方の前で、男が目を見開いていく。同時に、男の耳は見る見るうちに真っ赤に染まっていった。
心臓の音が跳ね上がった。
どうしてそんな反応するんだ。
いつものお前なら「何が?」って鼻で笑って、しれっとこの場をやり過ごせる筈だろう。何で赤くなる?
俺の言葉、一つに。
激しい鼓動に苛まれ、土方が動けずにいると男はゆっくりと右手で頭を抱えた。
『おい、』
どうした、と土方が言いかけるのと同時に、ふと右手に熱を感じた。視線を落とすと、猪口を握り締めている土方の右手に、男の左手がそっと重ねられていた。
『やべえ、俺、すげー酔ってる、』
はにかみながら困ったように男が笑う。
夢を見ているのだと思った。ただ熱くて、触れた指先も、向けられる潤んだ瞳も熱を持っていて苦しかった。目の前の男の耳よりも、自分の頬の方が比べ物にならないくらい赤いだろうと確信する。
『土方、』
全身が心臓になってしまったようだった。全てが急所だ。どこを触れられても死ねる。
『……俺もだ、』
重ねられた手をそっと握り返す。一瞬だけ、男の指先が震えた。
『俺も、酔ってる、』
絡めた指先で何度も何度も存在を確かめた。
ダメだ、ダメだと本能が叫ぶ。これ以上は自分が自分でいられなくなるとわかっているのに離せない。
それ以上言葉を交わすこともなく、それ以上触れ合うこともなく、只黙って二人動かずにいた。
帰り道をなくしてしまったと思った。
もう戻れない。魂を捧げるのは真選組でなければならないのに、そこへ帰る方法を忘れてしまった。
散乱する書類を一枚拾い上げて頭を抱える。報告書の中にある「坂田銀時」の文字。
只の文字がこんなにも呼吸を苦しくさせる。
捨てなければ。
今抱えているのは自分が生きるために不要な感情だ。真選組にとって足を引っ張る類のものだ。
捨てなければ。だがどうやって?