仮初十六夜問答


【9】

 鉄之助の朝は早い。何故なら主人である土方が夜明けと共に動き出すからだ。
 水桶と手拭いを準備し、膳の準備を指示してから、いつ用事を申し付けられても良いように側に控える。寝坊でもしようものなら切腹だ。昨晩は宴会があったおかげで普段よりも朝が辛い。振舞われた酒が体に残っているようだ。起き出した家人の中には鉄之助と同じようにこめかみを抑えている者も少なくなかった。
 いつもより僅かに遅れて土方が休んでいる客間へと急ぐ。遅いと怒鳴りつけられるだろうと覚悟していたが、鉄之助が声をかけても中から返事は返ってこなかった。
「あの、土方さん?」
 戦の後に土方が人払いをすることは多い。今後やるべき事を整理しているのだろう。土地の資料を集めて篭ることも珍しくなかった。土方が書院に篭ると、鉄之助は部屋の入口で何かあった時の為に控えているのだが、昨夜は違った。城の主である近藤と土方自身にも宴会に出ることを進められ、土方の側には銀時が呼ばれたこともあり、従ったのだ。だが、己の判断は軽率だったのかもしれない。勝ったとはいえ兵力の差を思えば残党が居ないとも限らない状況だ。二人の疲れが溜まっていることも明らかであった。
「し、失礼します!」
 焦る気持ちに押し出されるようにして、鉄之助は部屋の中へと足を踏み入れた。
「あれ?」
 中を見渡すが、土方の姿は何処にもない。そのまま足を進めると銀色の髪がふわふわと揺れているのが見えた。
「坂田さんだけスか?」
 まだ眠りこけている男へ独り言のように声をかける。眠っている銀時の体には土方の着物が被せられている。土方がここに居た事は間違い無いだろう。
「いや〜それにしてもお盛んっスね〜」
 今まで正室も側室も持たず、近藤の右腕であることだけに注力して生きてきた男が、会って間もない人間にこうも入れ込むとは。
(寺の稚児趣味とかも嫌がってたから、元々男好きって訳でもないんだろうし、)
 涎を垂らして鼾を掻いている銀時を見つめながら思いを巡らす。土方が居ないのなら、探しついでに銀時の着替えと湯を持ってこよう。そう決めて入口へ振り返ると、同時に思わぬ影がかかった。
「何してんだ、」
「あ、土方さん!じゃなくてお館様!こっちの台詞ですよ。どこに居らしてたんスか」
「少し湯をな、」
 言葉を受けて手元を見れば、土方の手には湯桶と着物が握られている。
「あっ、すみません!仰ってくれたらよかったのに……!」
 鉄之助が慌てて駆け寄ると、土方はその動きを制して静かに頷いた。
「いい。テツ、今日は休ませてもらうからよ、このまま部屋借りるって近藤さんに伝えておいてくれ。お前も疲れてるだろ、下がっていい」
「土方さん……」
 驚きに思わずポカンと口を開ける。常に生き急いでいるように見えた男がそんな言葉を発するとは。
「どうした?」
「い、いや〜その、」
 穏やかな表情に混乱しながら、鉄之助は喉元まで出かかった言葉を呑み込んだ。だが、何を考えているのかなど聡いこの主人にはすぐに見破られてしまう。
「……また俺が締まりの無い顔してるか?」
 確かにその通りなのだが、ついこの前とはどこか違う。
 前に見た締まりの無い顔は銀時の変化であったことなど知る由もないまま、鉄之助は曖昧に首を傾げた。



「……匂いますね」
「匂うアル。プンプンするネ」
「ヒヒーン!」
 屋敷に戻るなり、拒否する間もなく取り囲まれる。逃げ場を失って銀時は諦めたように項垂れた。鼻を鳴らす二人と一匹から只管目を逸らし続けることしかできない。
「こんなに深く人間の匂いがうつるもんなんですね。知らなかった」
「本当アルな。どこもかしこもトッシーの匂いが染み付いてるヨ」
「ヒヒーン!」
 穴があったら入りたい。無くても自ら掘って埋まりたい。気まずさと恥ずかしさのせいで憤死しそうだ。
「うるせえ!ほっとけ!!何なんだテメーらは!つーか神楽何だその格好!何で大陸のオッさんなんだよ!口調と見た目が全く合ってねーんだよ!」
「あ、銀さんそれもう僕が突っ込んどきましたんで、それ以上はいいです」
「うるせー!あと何で定春も馬になってんだ!」
「定春じゃないネ。赤兎馬春アル」
「知るかァァァ!!」
 こうなってしまった以上、その内言わねばとは思っていたが、こんなに早くバレるとは予想外だった。何故か神楽が屈強な兵士に変化していることはこの際置いておく。だが、まさか己についた匂いで露見するとは思わなかった。行水もして体は清めた筈なのに、あの男が残っている。突き付けられた事実のせいでまた顔が熱くなっていく。この体の中に、土方が。
「確かにこの前の銀ちゃんは未通女だったアルな。こんなにトッシーの匂いしてなかったネ。誤解してゴメンネ銀ちゃん」
「そうですね。僕も妾になったとか言っちゃってすみませんでした、早とちりでしたね」
「あーそうですか、そりゃどうも」
「顔真っ赤ですよ。大丈夫ですか?」
「うるせー!ほっとけって言ってんだろ!」
 今更この前の誤解が解けたところで何だというのだ。上書きされた事実の上には全く意味を持たないだろう。遠い目をしながら意識を遠くへ飛ばしていると、新八が場を切り替えるように一つ咳払いをした。
「いやまあ、それはともかくとして。僕らとしては正体バレなきゃどっちでもいいですけどね」
 銀さんの意志が第一ですから。そう言って笑いながら部屋の掃除を再開する。何よりもまず銀時の想いを尊重する姿にじわりと胸が温まる。だが、改めて言葉の意味を反芻して銀時は固まった。冷や汗を流しながら目を泳がせる姿に、新八もまた怪訝な顔をする。
「え……どうしたんですか銀さん、まさか、」
 神楽も眼光を鋭くして一気に詰め寄った。
「貴様、よもやあの男に古より秘めし身の上まで曝け出したのではあるまいな。なんと愚鈍な……!」
「ちょ、神楽ちゃんわかり難いからもう変化解いて、解かないならせめて黙ってて、」
 半分呆れと半分穏やかさが混じっていた部屋の空気が、ビリビリと破けるように一変する。
「えええええ!!!バレちゃったの?正体?土方さんに?」
 零れんばかりに目を見開きながら、新八が銀時の両腕を掴む。そのままガクガクと揺さぶられて、意識が遠のく。恥部を暴かれ責め立てられて、何でこんな目に遭わなければならないのかと恨み言の一つも零したい。だが、全ては自業自得であるので何も言える筈は無かった。銀時は黙ったままそっぽを向き、こくりと小さく頷いた。
「うっ嘘ですよね?何考えて、いや、むしろ土方さんが何考えてんだあの人!」
「他人には不可解なこともあろう。だがそれを支えることこそ互いを理解せしめるのだ……曹操、お前のように、」
「ヒヒーン!」
「もー!訳わかんないから黙っててって言ってんでしょーが!」
 幸か不幸か新八の混乱が神楽に向かい始めたのを確認して、銀時はそろりと後退った。混乱しているのはこちらも同じだ。自分でもまだ呑み込むことは到底できない。

『……教えてくれ、』

 先ほど城を出る前に、耳元で囁かれた言葉が蘇る。
「てめェを娶るには、どうしたらいい?」
「はあ?」
 熱く耳を擽る言葉は全く現実感が無い。この男は一体何を言っているのだろう。九尾狐が人間と?気が触れたとしか思えなかった。
「いやいやいや何言ってんだ。そんなのできる訳ねェだろ」
「できるできないを聞いてるんじゃねェんだよ。俺ァ、決めた」
 項を吸われて、ちり、と熱が生まれる。そこにまた所有の印をつけられているのだ。そうと思うと脳が痺れて思考すら奪われていくようだった。
「っ……んなこと、言ったって、」
「できなくねェんだろ。ほら、葛の葉だったか?陰陽師の安倍晴明の母方は狐じゃねェか」
「いやそんな伝説紛いのこと引き合いに出されてもよ、」
「それを言うならお前だって伝説みてェなもんだろ、」
 困ったように振り向けば、待っていたと言わんばかりに唇が重なった。
「……傍に置いときてェんだ」

 苦くて、甘い。

『何つーか、お前の傍に置いといてくれれば、それでいいから、』
『……わかった。俺ァ、今はまだ何も言えねェ。だがきっと、応えるようにする、』

 銀時の言葉を一つ一つ拾い集めて、その手に抱いてくれるというのだろうか。

(……変な奴、)

 胸が苦しいのは、今だけだとわかっているからだ。幸福をいくら紡いでも永遠にはならない。ならばせめて、土方の思う通りにすればいいと理解できているのに、頷くこともできないのはどうしてだろう。

「銀ちゃん?」
「……何だよ」
 ひとしきり騒いで飽きたのだろうか。いつの間にか変化を解いた神楽が、丸い目を瞬かせて銀時を覗き込んだ。どこか迷いを見透かしているようにも思えた。
「トッシーは、優しいアルか?」
 静かな問いだった。虚を衝かれて思わず押し黙る。想いを一つ一つ整理することは見ないふりをしている感情にも目を向けなければならない。恐れも、望みも。
「……そうだな、」
 そう、相手は人間だ。


 二人が喧嘩をしつつも仲睦まじく過ごしていることは、すぐに周囲にも知れることとなった。
 銀時はただの護衛だと濁していたが、土方は頻繁に銀時を寝所に呼び、戦場では互いに背中を預け合う。初めは雑兵が色目を使ったと嫌味を吐く者もいたが、その剣の腕と場馴れした圧倒的な強さに文句を唱える者は居なくなった。
 鉄之助も二人が寄り添うように酒を飲む姿を見ては、どこか安堵するような想いを抱いていた。土方が家人に心を許していない訳ではない。だがその厳しさからどこか近寄り難さを感じている者もいる。近藤や沖田が一緒の時はその限りではなく、土方は彼らに上手く喜怒哀楽を引き出されているようにも見えた。それでも自らを律する禁欲的な姿は、それができない者にとっては責められているように感じてしまうこともある。
(……あと、単純に見目が良いから黙ってると怖いんだよな〜沖田さんもだけど、)
 銀時が来てから土方の表情は豊かだ。ムキになって喧嘩をしたり、かと思えば穏やかに酒を酌み交わしたり。鉄之助が追加の酒を持てば一緒に飲むかと誘い、ある時は土方の膝を枕にして眠りこけている銀時の頬を抓っていたりする。
「失礼します。羽織を、」
「おう、すまねェな。掛けてやってくれ、」
 今も書を認めている傍らで銀時が眠っている。体を丸めて寝息を立てている姿はまるで動物のようだ。思わず鉄之助が吹き出すと、土方も「だらしねェだろ」と呆れたように口元を吊り上げた。
「……なんか、良かったっスね」
「何がだよ」
「怒らないでくださいよ。自分、正直土方さんは誰ともこういう風にはならないと思ってたっスから」
 全てを捧げる近藤は御旗だ。それを護る為に彼は一人で最期まで振り向かずに走り続ける人生を選ぶと思っていた。憧れでもあると同時に、そこまで背負い込まなくてもと思う気持ちがなかったと言えば嘘になる。だが、荷物を分けて欲しいと思っても自分たちはその背中を追いかけることで精一杯だった。歯がゆさを覚えると同時に、彼が振り返ることは無くとも、隣を走ってくれる者が居たらと思っていたのだ。
「……そうか、」
 土方は怒ることなく、静かに筆を置いた。鉄之助も眠る銀時に羽織をかけた。
「煙草をお持ちしますか?」
「いや、いい。白湯を持ってきてくれ」
「はい!」
 秋も終わり、戸を開ければ冷えた空気が流れ込んでくる。少しずつ葉を落とし始めた木々を見つめながら、鉄之助は立ち上がった。冬の気配はすぐそこだ。だが部屋を出ようとすると、こちらに向かってくる家人がいた。何やら急いだ様子で耳打ちされ、鉄之助は慌てて土方へと向き直った。
「伊東さんが来られてるそうです。しかも人払いを頼むと仰ってて……何スかね?」
「何だ。俺の首でも取りに来たか」
「ちょ、洒落になって無いっスよ。縁起でも無い」
「まあいい。奥の間に通してくれ」
 土方と伊東の仲の悪さは周知の事実だ。だが、国と近藤を護ろうとする想いは同じだった。きっと似た部分で衝突しているところもあるのだろう。不穏な軽口を返す土方を思わず窘めながらも、その点において鉄之助は心配していなかった。


「戦場において鬼と恐れられる男が房術の真似事とは恐れ入ったよ」
「……どういう意味だ」
 張り詰めた空気に言葉が棘をかける。土方を一瞥して、伊東は小さく息を吐いた。
「忠告しにきただけさ。君が良くても、この国にとってはそうでない場合がある」
「……主語を言えよ。場合に寄っちゃたたっ斬るけどな」
「少なくとも今は勘弁して欲しいね。先ほど中の間で刀を預けてしまってるんだ」
 出された酒に口をつけ、伊東が懐を探る。懐紙に包まれた何かを差し出し、それを開くように視線で促した。
「……彼が現れた時期とこのところ起こった出来事を重ねたまでだ。けれど僕は確信があるよ」
現れたのは銀色の毛だ。誰の物かは問うまでもなかった。
「彼は、狐だ」
 行燈に灯した炎が揺らめく。映し出された影は不安定に光を塗り潰した。空間に穴が開いたように闇が手招く。
「だったら、どうした」
「まあ、関係無いと言いたいところだがそうもいかない。もう一度言う。君が良くても、国にとってはそうでない場合がある。制御できない力はいずれ身を滅ぼす。妲己、玉藻前……九尾狐は傾国を成す生き物だ」
「只の言い伝えに拘るなんざ馬鹿げてるな。てめェらしくもねェ。それで?だったら奴を退治でもするか?」
 土方が盃を置いて睨み付ける。だが、伊東は視線を往なすようにして再び懐紙を懐に仕舞い込んだ。
「驚いたね。まさか、本気で彼に懸想してるとでも?僕はてっきり君が九尾の力を利用する為に彼を離さないのかと思っていたよ」
 意外そうに首を竦めて再び土方に問い直す。苛立ちに眉を寄せた。
「それこそテメーに関係ねェだろうが、」
「ああ、そうだ。だから今日は提案をしに来た」
「提案?」
 思いもよらない言葉に益々眉間の皺が深くなる。伊東は涼しい顔を崩さぬまま、組んでいた腕を外して顎を擦るようにしてから口を開いた。
「彼を、調伏したらどうか」
「何?」
「退治するという意味じゃない。言ったろう、過ぎた力は災いを呼ぶ。玉藻前は討伐から逃れて殺生石と化し、その周囲一帯に近づく者全てを憑り殺した。僕が恐れているのはそういうことだよ。そうならないように彼を制して、使役するんだ」
「……世迷い言を、アイツは、」
「そんなことをする筈は無い、と?今はそうかもしれない。だがそもそも彼は何故君の元に大人しく仕えてるんだろうね?」
 ただ傍に置いて欲しい、と言った。求めれば戸惑いながら土方へと手を伸ばした。その、理由は。
 土方は宝玉を銀時に返しただけだ。恩を返すというならもう充分過ぎる。
 途端に足元が崩れていくような錯覚に襲われた。もし傍に置いて欲しいという言葉が土方の気が済むまでという意味だとしたら、縛っているのは己の方ではないか。
「まあ、君がやらないなら僕がしよう」
「……んだと、」
「名のある祈祷僧と陰陽師を手配してある。これも国の為だ」
 ざわざわと胸が騒ぐ。思考が上手く働かない。順序立てて考えるべきだと思うのに、目の前が暗くなる。
「勝手なこと言ってんじゃねェよ」
「それは君の都合だろう。災いの種は早めに摘む。君はいつもそう動いている筈だ。それとも、もう立派な狐憑きかい?」
「ふっざけんな!」
 足を踏み出し、その胸倉を掴み上げる。冷静な瞳は揺らぐことなく、静かに土方を見詰め返した。そして、一音一句まるで子供に言い聞かせるように放たれた言葉に、土方の動きは固まった。
「それに……君も、九尾の力を利用していないと言い切れるか?」
 ゆっくりと傷口を弄られているようだった。
「彼が九尾でなかったら、傍に置いたかい?」
 迷いがうねり、渦のように己を巻き込んでいく。
 伊東は胸倉を掴む土方の手を払うと、言いたいことはそれだけだと言わんばかりに立ち上がった。そして、踵を返して部屋を出る瞬間に振り向き、また小さく息を吐いた。
「……恋しくば尋ね来て見よ、和泉なる信太の森のうらみ葛の葉、」
「何だ、」
「安倍晴明の母、葛の葉が狐であることを知られてしまった時に残した歌だよ。君も知っているだろう」
 正体を知られてしまったからには、これ以上一緒にはいられない。そう嘆き、子を置いて泣く泣く姿を消した白狐。
「人と妖の運命だ」


 伊東が去ってからどのくらいそうしていたのだろうか。灯りの油が切れかけ、その火が小さくなっても土方は奥の間に座ったまま動けずにいた。
 宝玉を返した時、銀時は土方のことを護ると言った。三人がすぐに屋敷に馳せ参じたのはそれを果たす為だったのだろう。そこまでは理解していた。だが、体を開いたこともそれに準じたものだったとしたら。本心では土方を求めていないのだとしたら。妖の倫理観などわからない。それでも、もし抗えなかっただけだとしたら、そこに銀時の想いは無い。
 夜の闇はまるで海のようだ。次々と迫りくる黒い波が足元の砂を崩していく。ジリ、と音を立てて燈台の炎が消えると同時に部屋の外に人影が見えた。
「……土方?」
「どうした」
「いや、目ェ覚めたらいねェから、」
 遠慮がちに部屋を覗きながら銀時が足を踏み入れる。
「どうした?客は帰ったんだろ?」
「……いや、大したことじゃねェ」
 傍らに座る体を抱き寄せ、その肩口に顔を埋めた。銀時はいつも太陽のような匂いがする。そして、その存在は月だろうか。幾重にも形を変えながら優しく足元を照らす。
「何だよ、珍しい。随分甘えたじゃねェか」
 己を落ち着かせる為に、一つ深呼吸をした。柔らかな香りが胸の奥の柔らかい部分をつつく。
「……銀時、」
「ん?」
 初めて出会った時の秋萩はとうに花を落として枯れた。もう繋がれる理由は無い筈だ。
「……この屋敷を出て行ってくれ」
 応えるように土方の背を撫でていた手が止まる。
「土方、」
 銀時は頬を摺り寄せながら、子供をあやすように土方の背を軽く叩いた。
「言葉足らずは誤解を生むって言ったろ。ちゃんと言えよ。俺の正体、バレちまったんだな?」
「……聞いてたのか、」
「全部じゃねェけど途中から。お前の気が乱れ出したから、ごめんな」
 触れ合う肌から体温が溶け出す。思考を見透かされているのは、銀時が長く生きているせいなのか。それとも土方が己を取り繕うことができなくなったせいなのか。わからないまま、抱き締める腕に力を籠めた。
「てめェを、他の奴に利用されたくねえ」
 暗闇の中、互いの息遣いと衣擦れの音が響く。
「アイツの言うことは尤もだ。俺もずっと、人に紛れた妖を見つける度に、奴らの世界に返してきた。なのに、てめェを手離すことをしないのは矛盾してる。何も言い返せねえ」

『彼が九尾でなかったら、傍に置いたかい?』

 突き付けられた事実を、一蹴することができないのは図星を刺されたからに他ならなかった。
「そんなつもりじゃなかったのによ……いや、それだって言い訳かもしれねェ。俺はてめェを利用してた」
 打算が無かったとは言い切れない。特別な力を持つ者に自分は選ばれたのだと奢る気持ちもあった。娶ると決めた時も、それが銀時に犠牲を払わせる可能性など思いもしなかった。
 もし逆の立場ならどうか。国を捨てろと迫られれば土方にはできない。
「すまねェ、」
 喉奥が痺れて息が詰まる。この世に二人きり、なんて夢物語だ。
 顔を伏せたまま絞るように吐き出すと、銀時は静かに笑って息を漏らした。
「だから、背負い込むなって、」
「……銀時、」
「俺だって、初めは流されるまま此処に来ただけだ。てめェは悪くねェよ」
 絡めた支線を逸らさずに、鼻先を擦り合わせる。
「……なら、俺に逆らえねェから、てめェは身を任せたんじゃねェのか?」
 足元から這い上がってくる不安を言葉という形にすれば、より現実味が増していく。否定されることを願うのは何処か滑稽なようにも思えた。傷つきたくないと思いながら、止めを刺して欲しいと願っている。どちらの祈りが強いかもわからず只救いを求めているのかもしれない。
「正直わからねェ。けど、もしそうなら、俺は最初から存在してないんだろうよ」
 目の前が滲んで、風景が歪んだ。その言葉が意味するものと、その重み。つまらない自尊心を射抜かれたようだった。そして、それを言わせてしまったことを心から恥じた。
「会えて、良かった、」
 銀時は一旦体を離して土方を見つめ、再び両手を伸ばした。髪に触れ、頬、鼻筋、顎、首筋、肩、腕、とその形を一つ一つ確かめるように触れた。無言のまま肌を辿り、最後に土方の眼帯を外して閉じた瞳に口付ける。
「……っ、」
 すると、途端に目の奥が熱を持ち始めた。塞がっていた筈の瞼が持ち上がり、暗闇の中に光が差す。
「餞別だ。普通の人間にはキツいだろうけどよ。こんだけ一緒に居たし、てめェなら、大丈夫だろ」
 銀時の言葉と同時に失った視界が蘇る。
「銀時、」
 明瞭になった視界にその姿を焼きつけたいのに、込み上げる想いが邪魔をする。目頭を押さえてもう片方の手をきつく握り込んだ。
 窓の外に浮かぶ月はいつもより大きく、灯りの消えた部屋を優しく包み始めている。月光を集めるように手を翳しながら、銀時がゆるりと首を傾げた。
「なあ、女に変化したら、その、お前の子種宿せっかな?さっきの、葛の葉みてェに」
 揶揄いなのか本気なのか判断しかねる調子だった。悪戯っ子のようにも思える笑顔は儚く、どこか遠い。
 真意を問うことなく、土方は銀時の両手に己の手を重ねた。
「……変化なんてしなくていい」
 この男の全てを包み込んでしまえたらいいのにと願った。
「……土方、」
「仮初の姿なんて要らねェ。俺はお前がいい」
 例え互いに残す物があっても、思い出にするのもされるのも御免だった。
「俺は、お前がいい」
 きっぱりと目を見据えてそう言い切るのと同時に、銀時の表情が強張る。握った手に再び力を籠めると、その瞳が揺らいだ。それまで事態を予測していたように平静だった表情が、みるみる内に歪んでいく。
「……なんで、」
 仮面が崩れて溢れ出した雫が、次々と土方の手の甲を濡らしていった。
「勝手をしてるだろ、俺は。てめェを離せなかったくせに、他の奴に利用されそうになった途端に自由になって欲しいなんてよ」
 滲む目元を拭って、濡れた頬に口付ける。
「それにこの後に及んで、てめェを諦めたくねェんだ」
 月光が映し出す深い影は柔らかく優しかった。
「……わかってる」
「銀時、」
「つーかバレたのは俺が迂闊だったからなんだし気にすんなよ。またすぐ会える」
 口付けを一つ落として銀時が立ち上がる。月を背に微笑む姿はまるで竹取の御伽噺のようだ。
「ったく、湿っぽいのは止めにしようぜ」
「銀時、」
「恋しくば、たずね来て見よ、か。そうしてくれ、会いにきてくれよ。な?」
 月の光に溶けていくように、その姿が薄れていく。
 土方が名を呼ぶと、その唇が何かを紡いだ。音にならない声が直接脳内に響く。届いた言葉の意味を理解した瞬間、驚きに目を見開く。だが、同時に銀時の姿とその気配は屋敷から消えていた。
「……何で、」
 手を伸ばしても、触れる物は何も無い。

『会いにきてくれよ。また、春に』

 残り香のように繰り返される言葉が頭の中に棲み付くだけだ。

『春になって何度も山に行ってソイツと過ごした。まだ屋敷に居場所は無かったしな』
 あの、冬山での出会い。そうだ。同族に出会ったことは無いと銀時は言っていた。幼い土方を助けたあの狐が、この辺りの土地を司る九尾だとしたら、それはもう一人しかいない。
「……クソッたれが、」
 そして、その事実を明かしたということは、土方とはもう会わないつもりなのだろう。

『心配だったんだと思うぜ。狐憑きって言われて、お前が酷い目に遭うんじゃねェかって、』
『きっと、こうしてお前が立派になったって知りゃあ喜ぶだろうよ』

 何も知ること無く、また護られて、救われて。
 それなのに、どんなに恋焦がれても、熱を分け合っても、一緒に生きることは叶わない。

『人と妖の運命だ』

 ならば何故、出会ってしまったのか。

「……だったら、俺はお前に何ができる、」

 問答を重ねてみても、答えを返す者は居ない。
 十六夜月は翳り、僅かに残った温もりも消えていく。


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