仮初十六夜問答


【10】

 遠い昔の物語。始まりも終わりもいつだって唐突だった。
 辺り一面に降り積もった雪は全てを無にするかのように、その景色を塗り潰している。
「失礼します。酒をお持ちしました」
「ああ、悪いな」
 まるで夢から醒めたように、土方の生活は元に戻っている。銀時が姿を消したその瞬間から、誰もがその存在を忘れてしまった。あの胡散臭い三人組は初めから居なかったように、その話をする者も誰も居ない。夢だったのだと言われれば覆す証拠は何処にも無かった。銀時が先陣を切って勝利したあの戦いも、敵陣に雷が落ちて天が味方したのだと語られている。
「今日も冷えますね、今火鉢を用意してますんで」
「ああ、頼む」
 傍らに膝をついて、鉄之助が銚子を差し出す。だが、持ってきた盆を覗き込んで首を傾げた。
「あれ?」
「どうした、」
「あ、いや、間違って盃を二つ持ってきちゃって……自分呆けてるみたいっスね」
 醒めた夢の名残が、時折こうして土方の胸を揺さぶる。お前は確かに此処に居たのだと、叫ぶ心を諫めることはできなかった。城でも、屋敷でもただ一人、土方だけがあの十六夜に捕らえられたままだ。
「構わねェよ。そのまま置いておいてくれ」
「え?は、はい」
 不思議そうに頷く姿にも構わずに、そっと二つの盃に酒を注ぐ。思い出すのは、些細なことばかりだ。
 書き物をする土方の膝に顔を埋めて寝入り、着物の裾を涎で汚されたこともあった。酔い潰れた姿に魅入って、全身を舐め回すように抱いたこともあった。眠りに落ちかけた時にそっと口付けられたことも鮮明に思い出す。今でも傍らに重みを感じたような気がすると、つい飛び起きてしまうのだ。
(……銀時、)
 治された瞳が疼く。土方が右目を失っていたことを覚えている者も誰もいない。

(……俺は、)


「お、今日はトシも来てくれたか!いや〜こうやって飲むのも久しぶりだな!」
「全く、いつ行っても書院に篭りっぱなしで、危うく一服盛るとこでしたぜ」
 注がれた酒を一息で飲み干しながら、近藤が豪快に笑う。傍らでは沖田が膳を突きながら土方に向かって溜息を吐いた。座敷に集まった面々はにこやかに酒を酌み交わしている。
「いやあ、皆のおかげでこの通り国も落ち着いてきた。ありがとう!」
 あれからこの国を狙っていた近隣諸国は自国で内乱を繰り返し、弱体化したところを松平に平定された。近藤も領地を広げ、国力は益々増している。だが彼は天下を取りたいのではない。手の届く範囲を護りたい、そう言って野心を持つ事もない為か、国にも穏やかな空気が漂っている。
「今年は天気にも恵まれて豊作だ、何よりだな。皆も家人を充分に労ってやってくれ」
 声を合図に再び全員が盃を掲げる。土方は静かに盃を傾けながら、そっと窓の外を見つめた。降り積もった雪のせいか宵の口とはいえ随分と明るい。松明に照らされた雪の奥に朧げな月の光が映し出される。

 柔らかな銀色に、この国は護られているのだ。

「ところで、このところ随分熱心だったようだが調べ物は済んだのかい?」
「ああ、」
 土方の盃に酒を注ぎ足しながら、伊東が呆れたように息を漏らす。小さく頷いてから土方は顔を上げた。
「それと……てめェらにも、話がある」
 何ができるのか、何をしたいのか。ずっと探し続けていた答えはまだ見つからない。
「近藤さん、」
 それでも前に進む覚悟だけは持ち続けていたかった。
 土方は盃を置くと、しっかりと近藤を見据えて口を開いた。
「おう、今日は何かそんな気がしてたんだよ」
 近藤もまた小さく頷き、酒を飲んでいた手を止めた。
 風も無いのに燈台の炎がざわめくように揺れる。まるで、誰かが土方の決意を咎めているようだったが、構わず言葉を続けた。

「……入山しようと思ってる」

 固唾を呑んでやり取りを見守っていた周囲からどよめきの声が漏れる。
「まさか、君が……正気かい?」
「こりゃ驚いた。土方さんがねェ」
「え、そんな!御家は?御屋敷はどうするつもりですか?」
 伊東は眉を顰め、沖田は面白そうに身を乗り出す。山崎と鉄之助は慌てふためき立ち上がった。
「家督は総悟に譲る。元々そのつもりだったしな」
 銀時に出会う前も、身軽でいたのはその為だった。自分が嫡子ではないことも合わせて、いつかはと思っていた。時期が早まっただけのことだ。
「やりてェことがある」
「……そうか」
「ちょ、近藤さんまで!」
 ざわめく座敷を余所に近藤だけが静かに頷いていた。
「もう、決めたんだな。トシ、」
「ああ」
「なら今日はますます盛大にしないとな!みんな飲めよ!」
 城を照らしていた銀色の光が揺れる。銀時が居なければきっと、今此処に座っていたのかもわからない。ならば生きる。己の意志の赴くままに。

 夜も更け、起きている者もまばらになった頃、土方は静かに城を後にした。
 音なく降り積もる雪が光を集めていく。気配を感じて顔を上げると、目の前の松が揺れる。重みを増した枝が、何かを訴えるように雪を落として土方を呼んだ。
「何だ、」
 独り言のように答えれば、丑寅の方角が淡く色を変える。
「……土方さん、」
 現れたのは、二人の子供だった。
「よう、久しぶりだな」
 銀時の姿は無い。元気かと問えば、二人の顔が少し悲しそうに歪んだ。
「さっき、入山すると聞きました。本気ですか?」
「ああ、」
 土方が頷くと、二人は唇を噛み締めてその場に立ちはだかる。この先の道、行く手を塞ぐように。
「……それは、銀ちゃんの為アルか?」
「答える義理はねェな。文句があるなら直接来いってアイツに言ってくれ」
 言い難そうに表情を殺して、躊躇いながら眼鏡の少年が言葉を続ける。
「銀さんは、来れません。今は何処にも居ないんです」
「……何だと」
「いえ、何処にでも居ると言った方が正しいかもしれません。貴方とこの国を護る為に、形を保っていないんです。だから、僕たちが来たんです」
 告げられた事実は、予想していたものだった。それでも湧き上がる悔しさに唇を噛む。
「僕らは、貴方を止める為に来ました」
「……余計なお世話だ。仮にアイツが来たとしても止める権利はねェよ」
 視線を逸らさずに言うと、新八は握った拳を震わせて何かを決意したように息を吸った。
「土方さん、あなたには元々僕らのような者を見極める力があります。入山して修行を積めば常人には無い力を持つことも可能でしょう。でも、それが衆生の救済の為でなく、銀さんの為なら……貴方は道を外れることになる」
 冷えた空気が現実を示すように肌を辿る。温度の差を感じる度に、土方は己の思考が冷静になっていくのを感じていた。妖である二人は、わかっているのだ。
「修験道を極めて験力を得た山伏が、道を外せばどうなるか。これから入山しようとする者なら知らない筈無いですよね」
 捲し立てる新八の口調は土方を責めるように聞こえたが、同時に懇願するようにも響いた。

「土方さん……貴方は、自ら天狗道に堕ちるつもりですか?」

 祈りにも似た、悲鳴だった。
 土方が否定しないことに焦れたのか、新八はさらに窘めるように首を振る。

「やめてください。銀さんはそんなこと望んでない。貴方は人間です、僕らとは違う」
 放たれた言葉を全身で受け止めるようにして、土方はもう一度息を吐いた。決意は何も、揺るがなかった。

「……違わねェだろ。俺とてめェらと何が違うってんだ」

 ただ一つの想いが、この体を、この魂を生かしている。

「てめェらだって同じだろ。アイツの側に居たくて、アイツを独りにしたくなくて……それで化けちまったんじゃねェのか?そうだろ?」

 二人が息を呑んで動きを止める。それは土方の言葉を肯定していることに他ならない。

「アイツは望まない?反対する?知ったことかよ。俺はてめェで決めた道進むだけだ。アイツの意志なんざ関係ねェ」
「……っ、でも、」
「じゃあいつ会えるんだ。明日かも何十年後かもわからねェ、ましてや今生の別れなんざ俺は御免だ。アイツが傍にいても見えなきゃ何も意味がねェんだよ!」
 内に秘めていた感情が爆発する。勝手だ。なんて残酷な奴だ。勝手に助けて、救っておいて、心を全て奪っていった。文句の一つも言えないまま生涯を終えるなど耐えきれる筈もない。お前を諦めないとそう誓った、その言葉の意味に恐れ戦けばいい。この身を捨ててでも食らいついてやると決めたのだ。

「……天狗になれば輪廻からも外れるアル」

 それまで黙っていた少女が、真っ直ぐに土方を見つめて問う。

「もしこの先、銀ちゃんが先に逝ったとしてもトッシーは生まれ変わることもできないネ。それでも銀ちゃんを待つアルか?」
「ああ、願ったりだ」
「……なら、もう何も言うことは無いネ。新八、行くアル」

 酷く優しい響きだった。少女の言葉を受けて少年がゆっくりと目を伏せる。

「わかりました。なら、僕らも待ちます。貴方たちを」

 雪が止み、視界が晴れる。何が正しいのか、間違っているかなどわからない。答えはきっと何処にも無い。
 それでも願いはただ一つ。
 傍に居たい。共に、生きていきたい。それだけだ。





 秋萩の香りがした。それはいつかの物語。
 響く錫杖の音に、銀時は想い瞼をゆるゆると持ち上げた。見慣れた社の天井が真っ先に目に飛び込んでくる。
 新八と神楽の呆れたような笑い声。定春が甘えるように頬に鼻先を擦り寄せてくる。そして、ふわりと瞼を擽る感触があった。

 目の前に一つ、黒い羽根が落ちる。

「ったく、だらしねェな。いつまで寝てんだ」

 秋萩の上に、霞みが棚引く。窓の外に覗く月があの夜を繰り返しているのだと、すぐに理解した。
「な……で、お前、夢?」
「さあな、てめェで確かめてみろよ」
 黒い烏が口元を吊り上げる。溢れる涙は拭う間もなく、寄せられた唇に吸われていった。
「……お前、俺が見えてんの?」
「てめェしか見えてねェよ」
 土方の言葉が列なって印を結ぶ。全てを悟り、銀時は薄く開いた唇を戦慄かせた。会いたかったと繰り返される度に、己の体に新たな命を宿されているようだった。
一つの出会いが互いの運命を変えてしまった。知らないままではいられなかった。
「馬鹿野郎……っ、」
 銀時の唇を吸いながら土方が静かに笑う。背中に生えた黒い羽根が銀時を護るように包み込んだ。

「ああ、お互い様だろ?」

 仮初の問答を繰り返しながら、
 物語はまだ、終わらない。



【終】

inserted by FC2 system