Dear Rosy Glow


【九】


あの時はお前の肌が燃えるように熱く感じた。温度を失いつつあった自分の手はさぞ冷たかったことだろう。
指を滑らせる度に跳ねる体と、逝くな、と繰り返される言葉。只、涙が溢れた。いつ死んでもいいと、後悔のない人生を送ってきたつもりだった。それなのに、お前の言葉一つでこうも悔いが産まれるのか。想いを抑えて剣を振り続けた、血の滲むような努力など何の役にも立たなかったのかと絶望的な気分だった。
「万事屋、」
こんな形で再び触れる日が来るとは思わなかった。
青白い肌。額に浮かんだ脂汗。戦慄く唇。まるであの時と互いが逆転したようだ。
軽く肩を叩いて返答を促すと、銀時が弱々しく瞼を持ち上げる。まだ意識は失っていない。安堵して顔を覗き込んだ。
「病院行くぞ。立てるか?」
虚ろだった瞳が揺らめき、掠れた声が僅かに空気を震わせた。
「放っとけよ。少し休んでりゃ治る」
「治るって、お前一体何の、」
「うるせェな。テメーには関係ねェだろ」
ぴしゃりと言い放たれた言葉が鋭利な刃物のように胸を突き刺す。わかっている。これが当然だ。あの夜はもう過ぎた。墓まで持っていくとコイツに言わせたのは俺だ。一度墓標を立てた想いを再び口にすることは二度と無い。これから先、死ぬまでずっとこの痛みを抱えていかなければならない。
「だからって店に迷惑かける訳にはいかねェだろ。救急車呼ばれんのとパトカーで送られんのとどっちがいい?」
店先で警察が一般人を問い詰めている様子を見て、野次馬がちらほらと増え始めている。銀時もそれに気付いたのか、小さく舌打ちをしてゆるゆると顔を上げた。
「……元々病院行く途中だったんだよ」
「だったら送ってもらいな、旦那。早く看てもらった方がいい」
「そうよ銀さん、ウチで休んでもらって勿論構わないけど、悪化したら心配だわ」
団子屋の主人と娘に促されて銀時が俯く。そして少し悔しそうにしながら袂を探り、小さなメモの切れ端を開いた。中にはこの近所と思われる住所が記されていた。
「かかりつけだから、ここまで送ってくれりゃいい、」
「……わかった」
パトカーの後部座席のドアを開けると、二人に体を支えられながら乗り込む。大人しく従う様子に安堵しながらも、胸がざわつくばかりだった。消化できない想いが激しい渦を巻き起こしている。
病気なのか、怪我なのか。俺が入院している間、庭師の手伝いで屯所を訪れた時も嘔吐して倒れたと山崎が言っていた。少し前に街中で眼鏡の少年に会った時は酒の飲み過ぎだと言っていたが、果たして本当にそうなのだろうか。
最後に姿を目にした時よりも頬がこけ、随分とやつれたように見える。固く目を瞑る姿は拒絶の表れにも思えた。
問い質して抱き締めて、傍に居ることができたら――。できないとわかっているのに浅ましく願ってしまう。未練の塊だ。
「着いたぞ、降りれるか?」
バックミラーに映る姿に声をかけるが、銀時はそのまま眠りに落ちているようだった。先ほどまで忙しなかった呼吸も少し落ち着いているように見える。
(……先に医者に確認してきたほうがいいか、)
記された住所は団子屋から車で五分とかからなかった。鰻の寝床のように間口は狭く、奥が深い雑居ビルだった。フロアごとにガールズバーやクラブが陣取っている中、一階の奥にポツンと個人経営の町医者が入居している。入口に小さく診療所と掲げられているだけで、内装はスナックの居抜きそのままのように見えた。重さのある黒いドアを開くとくたびれた革張りのソファーが待合室と思われるスペースに置かれている。受付のカウンターもまるで古いバーのようだ。これでは付近の客が間違えて入ってしまうのではないだろうか。
「おい、誰か居ねえか?」
診察室と思われる奥の部屋に向かって声をかけると、髭を蓄えた老医師がひょっこりと顔を出した。
「おやまあお巡りさんとは珍しいね。二日酔いですかな?」
「いや、俺じゃねえ。市中で具合が悪くなった奴が居るんだが、ここの患者だって言うんで連れてきてる。かぶき町の坂田銀時、間違いないか?」
「ああ、お登勢んとこの若造ね。今日検診だったかな、間違いないよ」
「検診?アイツ一体どこが悪ィんだ?」
激しい風が胸を揺さぶり続ける。心臓が張り裂けんばかりに音を増して、鼓膜までぶち破れそうだ。一体、いつから。俺が寝ている間にアイツの身に何が起こったのか。
老医師を真っ直ぐ見つめて問うが、彼は聞こえていないかのように長い顎鬚を撫でつけていた。
「オイ爺さん聞いてんのか」
再び問い質そうと彼の肩を掴むが、背後から放たれた低い声がそれを止めた。
「てめェには関係ねえって言っただろうが」
地を這うような、殺気すら含んだ声。ぞくりと背筋が思わず寒くなる。振り返ると銀時が射殺さんばかりの視線を俺に向けていた。容体を尋ねただけなのに何故そんな目を向けられるのか。いや、今までの俺たちならそれが普通だっただろうか。思考が乱れ、何も言い返すことができずに唇を噛み締める。
すると、張り詰めた空気の中にのんびりとした声が響いた。
「こちらさんは坂田さんの身内かい?」
「いや、通りすがりのポリ公だけど、」
「ならそんな怖い顔しちゃいけないね。送ってくれたんだからちゃんと御礼言って、」
穏やかに諭すような口調に、銀時は一瞬言葉を詰まらせてからきまり悪そうに頷く。
「その、悪ィ、助かった、」
「……いや、」
不本意ながら一般人を護るのは警察の義務だ。
前は流暢に出てきたその言葉が、今は喉に痞えて音にならない。
「お巡りさん、患者さん保護してくれてありがとうね。けどカルテの内容を第三者に話す訳にはいかないから。どうしても知りたかったら令状でも持ってきてもらわんと、」
「……いや、いい。じゃあ俺はこれで」
「はいはい、どうもありがとう」
俺とコイツの間に、繋がりなど何もないのだ。たまに顔を合わせるだけの顔見知り、腐れ縁。そんな呼び名をつけてみても、結局はただの他人。何かあっても踏み込む権利は無い。

再びパトカーに乗り込み、ハンドルへと突っ伏して呼吸を整える。
もし重い病だったら。何も知らないまま、自分の与り知らぬところでアイツが死んだら。
今までだってその可能性は充分あった。無茶な男だ。妙な事件に首を突っ込んでいるうちに命を落とすかもしれないと何度も思った。覚悟していた筈なのに。

『土方……俺も、同じだ』

内に秘めたあの想いを、今更なかったことにするなど。

「……銀時、」
額を強く押し付けるのに反応してクラクションが激しく鳴る。一瞬響き渡ったその音が、燻る迷いを破裂させた。
懐から携帯電話を取り出し、迷わずボタンを押す。
『おう、トシか。どうした、もう交代したんだろ?』
「ああ、少し早ェが今日は上がる。何かあったら携帯に連絡くれ」
『わかった。こっちは気にしなくていいからよ』
こちらを気遣う口調に思わず苦笑しながら電話を切った。取り繕っているつもりでも、変化する感情はすぐに悟られてしまう。そんなに自分はわかり易いだろうか。
上着を脱いで、スカーフを外す。深呼吸してから車を降りた。迷いは無い。先ほど拒絶された黒いドアを、もう一度開けた。
「おやまあ、忘れ物ですかな?」
「ああ、万事屋は?」
「さっき点滴してね、診察室で寝てるよ。何か?」
カウンターで電卓を叩きながら、老医師が首を傾げる。手を止めて顔を上げるのに合わせて、正面から視線を向けた。
「アイツの容態が詳しく知りてェ」
「あのね、さっきも言ったけど、」
「ああ、俺ァ身内じゃねえけどよ。心配すんのは自由だろうが」
唸るように腹から声を出すと、老医師は作業する手をぴたりと止めた。再び顎鬚に指を絡ませながら、ゆっくりと目を細める。
「……大事かい?」
静かな問いが、体の中で反響する。
そう、あの日、俺は箱を開いてしまった。蓋も無い、底も無い、鍵穴すら塞いだ箱を暴いてしまった。溢れた感情が、壊れた箱に再び納まる訳がない。失ってたまるか。大事に決まっている。気が狂いそうなほどに。
「ああ、このまま引き下がるなんざ御免だ」
目を逸らさず一字一句を噛み締める。すると、老医師は頷いて顎に手を当てた。
「そうかい、でも本人が言わんことをワシの口からは言えんね。その代わり一つ頼んでもいいですかな?」
「頼み?」
「今日みたいなことがあると心配でね、暫く坂田さんの検診の送り迎えしてくれたらありがたいんだけどね」
言葉の意味を咀嚼しながら皺だらけの顔をまじまじと見つめ返す。心はもう、揺るがなかった。

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