Dear Rosy Glow


【十】


非常に拙いことになった。
どこで間違えてしまったのか。偶然の遭遇は仕方ないとしても、お前には関係ないと突っ撥ねたのが返って刺激してしまったのかもしれない。失敗した。あそこはムキにならずにのらりくらりと適当な嘘を言って躱すべきだった。
人間見るなと言われれば見たくなるし、押すなと言われれば思いきり押すのがお約束だ。関係無いと言われれば尚のこと知りたくなってしまうだろう。完全にしくじった。
「あの耄碌ジジイ、余計な事しやがって、」
「あ?何か言ったか?」
「……何でもねえよ」
後部座席で横になりながら、運転席に聞こえないようそっと溜息を吐く。何でこんなことになってしまったのか。医者が言うには嘔吐を繰り返していたことと、急に上がった気温のせいで脱水症状を起こしていたらしい。点滴を受けながら、腹の子には問題ないという言葉に安心して寝入っていたのも束の間、起きたら先ほど出て行った筈の男が待合室でふんぞり返っていた。
「おう、大丈夫か」
「……何で居んの」
「よかったね、坂田さん。これから副長さんが毎回送り迎えしてくれるって」
「はああ?」
寝耳に水とはまさにこの事だ。頷く土方の背後で老医師は親指を立てながら、無理やりのウインクで瞼を痙攣させている。
(……さてはこのジジイ、気付きやがったか。マジかよ、)
非常に拙い。俺の体のことまでは話していないようだったが、このまま関わればバレるのは時間の問題だ。茸の存在はニュースになっている上、沖田にも既に探りを入れられている。何よりこの先腹が目立ってくれば誤魔化しがきかない。
斜め後ろから薄目を開いてそっと運転席を見つめた。土方が感づいているとは思えない。きっと純粋に心配してくれているのだろう。だがそれは警察の仕事の範疇を超えている。
「……なあ、」
「何だ」
二人きりの空間は息が詰まる。ラジオでも流してくれたらいいのに。乗っているのはパトカーだとわかっていてもそんなことを思ってしまう。
「あのジジイに何言われたか知らねェけどよ。送り迎えなんて要らねえからな。大きなお世話だっつーんだよ」
「……構わねえよ。見廻りついでだ。今日みたいなことになったら困るだろ」
「ならねえって。いつもはアイツらも一緒だし、たまたま今日が一人だっただけで」
一息でそう言い切ると、土方は黙ったまま車の速度を落とした。万事屋の看板は数十メートル先に見えている。だが車は何故か手前の角を曲がり、人通りの少ない工事現場の前で止まった。現場は休みなのだろうか。人が出入りしている気配は無い。
「おい、どうし、」
「そんなに通ってんのか、いつからだ」
苛立ちを含んだ声が狭い車内に響く。また舌打ちしそうになるのを堪えてゆっくりと起き上がった。土方はそのまま身を乗り出し、俺の目を真っ直ぐ見つめている。マズい、と本能が警鐘を鳴らす。目を逸らそうとしても逃さないとばかりに射抜いてくる瞳が、逃げ道を奪った。
「そんなの、テメーには、」
「関係ねえとは言わせねェぞ。俺は、」
伸ばされた指が力強く俺の手首を握る。不意打ちの動揺を取り繕うことができない。脈を抑えられて、反応を見られていることが嫌でもわかる。ふざけるなこんなのまるで取り調べだ。
俺の葛藤を余所に、土方は握った手に力を込めて言葉を続けた。
「俺は、ゾンビだ。しつけえぞ」
「は?」
あまりにも脈絡の無い、突拍子もない言葉に眉を寄せる。顔だけは真剣そのものなのが余計に質が悪い。
「墓にも入りきれなかった。戻ってきちまった。もう、無理だ」
「ひじ、」
「墓まで持ってくって言ったな」
「……っ、それは」
「俺もそうするつもりだった。でもやっぱり駄目だ。もう、なかったことになんてできねェ。俺はもう、前には戻れねェんだよ」
熱い手に、そっと引き寄せられる。目を逸らして突き放せばいいのに、頬を撫でる指先の温度が動きを止めた。温かい、夢ではない。生きている。まだ、声が聴ける。
「くたばり損ないなんぞに気ィ使って、お前が背負う必要なんてねえんだ」
黒い瞳が水面のように揺らめいて、俺の姿を映す。ああ、なんて情けない面だ。揺らぐ心に押し流されて、言葉がまるで出てこない。
頬を撫でていた土方の指がするりと唇を辿る。仄かな煙草の香りが届くと同時に後頭部を掴まれて、そっと唇が重なった。
「……っ、」
形を確かめるように表面を何度も啄み、舌先が隙間を突く。溢れ出る感情が声になってしまうのを必死に堪えた。
(……俺だって、ずっと、)
変わらない。あの日から、どこへも行けない。
あの時とは比べ物にならない熱さにジリジリと胸が疼く。絡まる舌から全身が溶けていくようだった。掴まれていた手を外して握り直すと、土方がどこか安心したように力を抜いた。
「……病院行く日は、あのジイさんから聞いてる。迎えに行くから」
「俺、」
「言いたくねえならこれ以上は聞かねェ。けど、心配すんのはこっちの自由だろ、」
名残惜しげに頬に唇を寄せてから、土方が再び車のエンジンをかける。有無を言わせない口調に滲むのは恐れだった。
あの時俺がお前に感じたものと同じかもしれない。俺も、怖かった。お前の居ない世界が風化して、当たり前の日常になるのが怖かった。
(……でも、それとこれとは別の話だ、)
無意識に腹を撫でる。どうやって気付かれずにいられるか。いっそ暫く江戸を離れるべきか。一体何処に?また一から医者を見つけるのはリスクが高い。何よりいきなり姿を消したりすれば、ここまで腹を決めた男が追ってこない訳がない。
「また来る、無理すんなよ」
「……来なくていいって、大袈裟なんだよ」
万事屋の前で車を止め、土方がドアを開ける。背中に痛いほどの視線を受けながら、振り向かずに玄関の戸を閉めた。鼓動が跳ね上がって頭の中にまで響き渡る。先ほど掴まれた腕と触れ合った唇が熱くて火が出そうだ。
「あっ、銀ちゃん帰ってきたアル!」
「おかえりなさい銀さん、大丈夫でしたか?」
「ああ?何が?」
「倒れたって土方さんから電話もらって……さっきはすいませんでした。その、僕ら心配で、」
気まずそうに目を伏せて謝る姿に罪悪感が込み上げる。謝るべきはこっちだ。何も話していないのに、要求だけ通そうとするなんていい年の大人がやることではない。
「いや、俺が悪ィ……その内ちゃんと、話すからよ、」
俺の迷いは見抜いているのだろう。二人は何も言わずにはにかみ、代わりに定春が俺の袖を銜えて部屋の中へと促した。
「それにしても丁度土方さんが居てよかったですね。これから送り迎えまでしてくれるなんて、ほんとフォロ方さんって言っちゃいますよ」
「は?アイツそんなことまで言ってたの?」
「倒れて通報されても迷惑だから見廻りついでって言ってたアル。銀ちゃん何かトッシーの弱みでも握ったアルか?」
さすがフォローの男、土方十四郎。あの短時間で外堀まで埋めてくる強かさ。マズい、これはすぐにバレてしまうのではないだろうか。
「いや、知らねェし……あれ?誰か来てたか?」
なるべく平静を装いながら応接間に目をやると、飲みかけの茶が一つ出しっぱなしになっていた。仕事の依頼でもあったのだろうか。
「ああ、そうだ。さっきまでお房さんと勘七郎くんが来てたんですよ。最近また橋田屋で働き始めたみたいで、また遊びに来るっていってました」
「へえ、元気でやってんのか」
懐かしい名前に思わず頬が緩む。あの時も女手一つで立ち向かっていた。母は強い。
「掴まり立ちできるようになってましたよ。あんなに小さかったのに、本当早いですよね」
「もうミルク以外も食べれるようになってたアル!」
「それで、橋田屋の旦那がシングルマザーの支援事業を始めて、その手伝いをしてるんですって。生活支援と、希望すれば職業訓練も受けられて橋田屋グループで働かせてくれるみたいですよ。あの旦那さんも変わりましたね」
テーブルの上には事業のパンフレットが置かれている。子育て支援や妊娠中のサポート、自分とは遠いと思っていた世界がこんなにも身近に思う時がくるとは。
「シングルマザーに限らず困ったらいつでも連絡してくださいって。何か、思わずパンフレット貰っちゃいました」
「そうだな、腹目立ってきたら頼らせてもらうか。パー子でいけるか?」
「それは……さすがにキツいんじゃないですかね」
諸々の検査が終われば通院も月一回で済むようになる。悪阻が治まりさえすれば、治ったと伝えられる。そうすれば土方ももう心配しない筈だ。
『俺はもう、前には戻れねェんだよ』
戻れない、俺も。
それでも護らなければならないものがある。

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