Dear Rosy Glow


【8】


事実を一度己の中に落とし込んだら、腹を括る以外の選択肢は浮かばなかった。
時は待ってくれない。俺の都合など腹の中の命には関係のないことだ。
大きく深呼吸をしてからそっと腹を撫でる。そのまま気合いを入れる為に両頬を思いきり叩いた。一人ではない。

「あ〜それにしたってしんど、」
楽になったかと思いきや、少し時間が経つとぶり返す。不規則な波のように寄せては引いていく吐き気にげんなりしながら再びソファーの上に横になった。
「銀さん、寝るなら布団の方がいいですよ。靴下も履いてください。冷えちゃいますから」
「銀ちゃん私の毛糸の靴下貸してあげるネ。臭くしないでヨ」
「いらねェよ。入る訳ねェだろ、ったく何なんだ揃いも揃って」
安静に、と医師に告げられてからというもの二人の態度はとにかく過保護の一言に尽きる。
新八はどうやって入手したのか育児雑誌を読み漁り、やれ葉酸を取れだの鉄分を取れだの言いながらサプリメントを揃え出すし、神楽はああでもないこうでもないと赤子の名前候補を書き連ねた半紙を毎日部屋中に撒き散らしている。しかも俺が寝ようとすればぬいぐるみを傍らに置いてジャンプの読み聞かせを始める始末だ。一体俺を何だと思っているのか。鼻垂らした小僧じゃねえんだよ。三十路手前のオッさんだぞ。何だか自分がとてつもなくか弱い生き物になってしまった気分だ。
「大目に見てやりな。心配で仕方ないんだからさ」
「……わぁってるよ。俺じゃなくて赤ん坊が、だろ。つーか何してんだババァ」
向かいのソファーに座るお登勢を一瞥して再び溜息を吐く。何故当然のように毎日居座っているのかという質問はこの際どうでもいい。ここしばらくたまが手伝ってくれるおかげで仕事も順調だ。勿論ありがたく思っている。だが問題はその手元にある物だ。
「見ての通りだよ。靴下編んでんのさ」
細い毛糸を鈎針でせっせと器用に編み込んでいく姿は軽い眩暈を覚えるほどだった。
「だから!気が早ェって言ってんだよ!それ何足目だァァァ!」
ちんまりと手のひらに収まってしまうベビーサイズの靴下は既に十足を超えている。靴下だけではない。手袋だの帽子だのおくるみだの、気付けば箪笥の抽斗を一段埋め尽くす勢いだ。
「何言ってんだい、冬産まれになりそうなんだから無きゃ風邪ひいちまうよ」
「まだ夏もきてねェだろうが!安定期にも入ってねえんだよ!つーかコレ安定すんの?しんど過ぎだろ」
「銀さん落ち着いてください、体に障りますよ」
「オメーは役割を全うしろ!身重にツッコミさせんじゃねーよ!うぇ、また気持ち悪くなってきやがった」
「もう、無理しないで休んでください」
もう一人の体じゃないんですから、なんて使い古された台詞もどう捌いていいかわからずに途方に暮れる。どうしてコイツらはこんなに順応するのが早いのか。だが呆れとは裏腹に、気分が沈むことはなかった。バカの周りにバカが集まってバカな時間が過ぎていく。もし一人だったら、と想像するのも恐ろしかった。一人で居たら気が狂っていたかもしれない。
『じゃあアレだね、産むってことでいいのね?』
『おう』
『はぁ〜こりゃ大変だ。お前さん死ぬかもしれんよ』
『別に産まなくたって人間いつかは死ぬだろ。早いか遅いかなんて誰にもわかんねェんだしよ』
『そりゃそうだね。ワシもここまで老いぼれるとは思ってなかったしなぁ』
老医師が長く伸びた顎髭を撫で付けながら明るく笑う。少し安心して視線を返した。数多の命を救い、そして見送ってきた瞳だ。耄碌したが腕は確かだというのは事実なのだろう。初めは怪しんでいたが、通うごとにそれは確信できた。
(……土方、)
瞼の裏に残る残像にそっと声をかける。あの日が無ければ、俺は一生お前の想いを知ることはなかった。
『……好きだ、』
かつて想いを交わした相手にも告げることなく、一切振り返ることもせずに故郷を後にしたと聞いた。
あの日まで、俺にそんな素振りを見せたことも一度もなかった。ただひたすらに剣を握って前へと進む姿しか知らない。俺も、たまに交錯する時間の中で、少し離れた場所からその姿を見られれば満足だった。同じ想いを抱いていたことなんて知らなかった。
『てんびん座のアナタ、思わぬ贈り物が届くかも?』
欠片すら想像したこともなかった。
『きっと生涯の宝物になりますよ』
例えお前があの時息絶えたとしても、抱き合った僅かな記憶を魂の奥深くに封じ込めて、これから生きていくつもりだったのに。

「銀さん、大丈夫ですか?布団敷いたんでこっちで寝てください」
「おお、悪ィな」
大袈裟かとも思ったが、どうにも力が入らずに頷いた。過保護にされて文句を言っているくせに、それに甘え切っているのは俺の方だと思い知る。すると、立ち上がると同時に玄関のチャイムが鳴った。
「誰だろ、依頼かな?」
襖を閉めて新八が玄関へと向かっていく。しばらくすると何やら神楽の喚き声が聞こえてきた。何か揉めているのだろうか。慌てて起き上がると、今度は思いもしない人物が襖を開けた。
「ああ、本当に臥せってらァ。旦那すいやせんね、うるさくして」
「早く出てくアル!銀ちゃんは病人ネ!」
「うるせえなァ、用が済んだらすぐ出てくって言ってんだろィ」
神楽の攻撃をのらりくらりとかわしながら、沖田が俺の傍らに座り込む。
「何なんだよ。警察に用なんてねーぞ」
「まあ警察としても多少は関係してやすけどねェ、どっちかつーと俺の個人的な興味でさァ」
「ああ?」
確かに今日の沖田の出で立ちは、帯刀しているが半着に武者袴を合わせた私服だ。真選組としてではない、ということはまた面倒事だろうか。煉獄関の一件を思い出して溜息を吐く。
「この通り今は使いもんになんねェんだよ。面倒事なら他当たってくれ」
「そうネ!そもそもお前らの言うことなんて聞かないアル!」
「旦那、コレに見覚えありやすね?」
神楽の言葉を無視して沖田が懐から折り畳まれた数枚の紙を取り出す。訳がわからないまま中を開いて固まった。あの茸の写真と説明が記されている。
「……何コレ、ただのしめじだろ?」
「ところがどっこい、最近この茸で妊娠しやすくなるってことがわかりやして、その効果が強力過ぎるってんで規制する動きが出てきてるんでさァ。どんな副作用があるかわからねェからってね」
「へ〜」
平静を装いながら鼻を穿る。沖田は気にした様子も無く言葉を続けた。
「まあ、前置きはこのくらいで。単刀直入に聞きやす。旦那、妊娠してるんじゃねェですかィ?」
「はあ?何バカ言ってんだ。んな訳ねえだろ。そんなくだらねェことわざわざ聞きに来たのかよ。とっとと帰ってゴリラの世話でもしてろ」
沖田の背後で新八が息を呑む。動揺するなと目配せしてから、なるべく面倒臭そうに装って言い放った。怠いのは事実だ。何のつもりか知らないが、付き合ってやる義理も事実を告げる義務も無い。
「だったらいいんですがね。この茸、地球での取引は快援隊商事が扱ってるって聞きやして。あそこの頭、旦那と旧知の仲らしいじゃねェですか。もし連絡つくようなら送ってもらいてェんでさァ」
「生憎連絡先どころかどこで何してんのかも知らねェよ。ほれ、帰った帰った」
「ま、もしできたらで構わねェんで。頭の片隅に置いといてくだせェ」
犬を追い払うように手を払えば、沖田が素直に立ち上がる。何かを掴んだ訳でも、鎌をかけた訳でもないのだろうか。警戒しながら立ち去ろうとする背を見つめると、沖田は察したように振り返った。
「じゃあ俺はこれで。お大事にしてくだせェよ。旦那この前ウチ来た時からずっと具合悪ィみてえだし、下のロボッ娘が妊娠検査薬買ってたってザキが言ってたんで勘違いしちまいやした。お騒がせしてすいやせん」
「ったくマジでお騒がせだぜ。あとストーカーいい加減にしろって言っとけ」
たまの行動が知られていたことに一瞬ヒヤリとするが、だからといって何の証拠にもならない。表情を変えぬまま再び手を振ると、沖田はにっこりと笑みを返した。
「安心しやした。何でもその茸で妊娠した男で無事だった奴は一人もいねえらしいんで。俺の勘違いで何よりでさァ。じゃあ失礼しやす」
さらりと言い放って去っていく。階段を下りる音と共に気配が遠ざかり、部屋の中に沈黙が訪れる。静寂を破ったのは新八の震え声だった。
「……無事じゃないって、そんな……銀さん、知ってたんですか?」
思わず舌打ちしそうになるのを堪えて息を吐く。あのドS、わざとなのだろうか。せめて俺が一人の時ならまだしも、タイミングが悪いことこの上ない。
「まぁ……それは女だとしても一緒だろ。絶対なんてねえんだからよ」
「そうかもしれませんけど……でも、」
一瞬狼狽えてから、新八が何かを決意するように唇を噛んだ。
「銀さん、僕、銀さんが言いたくないんだと思って聞きませんでした。でもやっぱり聞きます。相手は誰なんですか?銀さんは命懸けなのに!こんなのおかしいです!」
「そうヨ、相手はどういうつもりアルか?」
「だいたいその人、銀さんがこんなことになってるって知ってるんですか?」
握り締めた拳も震えているのに気づいて目を伏せる。
「相手が誰だろうが知っていようがいまいが関係ねェよ。話はシメーだ。検診行ってくる」
「銀さん!」
「銀ちゃん!」
仕事も普段の生活もこれだけ迷惑をかけているのにどの口が言うのかと頭の中で声がする。玄関を出ようとするとお登勢が困ったように溜息を吐いた。
「銀時、」
「……わかってるよ、」
わかっている。突っぱねるなら全部自分でなんとかするべきだ。こんな身勝手な言い分でも、二人は許してくれると甘えきっている。いっそ初めからあちこちで遊んでいたから相手は誰だかわからないとでも言っておけばよかった。そうしたらクズ呼ばわりされてもここまで心配させずに済んだだろう。
平静を装っていたつもりがそんな取り繕いさえ思いつかなかったのだ。あの時は自分が思うよりもずっと衝撃を受けていたのかと今更ながらに思い知る。
(……なんか今日、熱ィな、)
勢いで出てきてしまったことを早くも後悔しながら病院までの道のりを歩いた。吐き気は治まっていたものの、眠気とは別の怠さが段々と襲ってくる。指先から温度が抜けていく感覚は貧血だろうか。気温は高いのに体が冷えていく。
「あ、ちょっとヤベェかも、」
ふらふらと建物に寄りかかりながら少しずつ進む。もう少し歩けば馴染みの団子屋だ。座って休めば良くなるだろう。
「きゃっ銀さんどうしたの、真っ青じゃない!」
「どうした旦那、最後の晩餐にウチの団子食いにきたか?」
見慣れた暖簾が目に入り、何とか店先までたどり着くと同時にへなへなと座り込んでしまう。すると可憐なリアクションとは真逆のビジュアルを持った岩盤娘、もとい看板娘と店主が駆け寄ってきた。甘味王決定戦で大食いした時のことが随分と遠くに感じる。あれ、これ走馬灯?
「救急車呼んだほうがいいかしら、」
「いや大丈夫。悪ィけどこのままちょっと休ませてくれ。あと白湯頼む。団子は持って帰るからよ」
「そりゃ構わねえけど、奥で横になるかい?」
「悪ィな。少し休めば大丈夫だから」
軒先の椅子を借りて腰を下ろすと、一息吐いた途端にぐるぐると景色が回り出した。砂嵐のように視界がざわめき遠くなる。
「銀さん、しっかりして! 」
大丈夫だと言ってるつもりなのに声が出ない。あたふたする親子の背後で、通行人が遠巻きにしてチラチラと視線を送ってくるのがわかる。次第に周囲の音が途切れていくのに従って、そのまま目を閉じようとした。
だが、唐突に現れた黒い影が荒れた視界を遮った。
「どうした、病人か?救急車間に合わねェならこっちで送るからパトカーに、」
あの日はもう、終わりを告げた。時はもう、永遠に動かない筈だった。それなのに。
「……万事屋、」
どうして今、お前が此処に。

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