Dear Rosy Glow


【十四】


 窓を開けると湿気を含んだ風が外の暑さから逃げるように部屋を巡る。季節が過ぎていくに従い、変化していく体。戸惑いながらも前を向くしかない。
 ベッドに横たわり、差し込んでくる陽の光に向かって両手を翳す。
(……何で、ジミーがここに、)
 土方が個人的な事情に監察を使うとは思えない。橋田屋の主人の過去を考えれば此処を調べていてもおかしくないだろう。只の偶然だろうか。
 どちらにしても見つかってしまうのは避けたい。すぐにでも別の施設に移れるか相談した方が良さそうだ。そう結論付けてお房へ連絡しようとした瞬間、部屋のドアがノックされた。検診の時間だ。
「どうぞ、開いてるぜ」
「はいこんにちは、体調は良さそうだね」
 いつもの老医師が長い顎鬚を撫でつけながら部屋に入ってきた。続いて荷物を持った看護師が後ろからついてくる。
「あれ? いつものバーさんじゃねェの?」
 普段助手として付き添っているのはお登勢と同じ位の歳の看護師だったが、今日は随分と若そうに見えた。
 一纏めにした長い黒髪にスレンダーな長身。厚めの黒縁眼鏡とマスクで顔が隠れているが、切れ長の瞳とマスクの上からでもわかる鼻筋のラインは相当な美人だ。
「婆さんは今日別件が入ってて来られなくてね。これワシの姪っ子。美人じゃろ?」
「ああ、どこぞのモデルさんかと思ったぜ。爺さんに似なくて良かったな」
 自分が妊娠している身でおかしなことだが、ナース好きとしてはテンションが上がる。
(……にしてもデカいな。身長俺と同じくらいあるんじゃねェの? まあ俺としてはもうちょっとむっちりしてる方が好みだけど、この気ィ強そうな目はいいな。お、パンツ見えねェかな、)
 屈んでカバンから医療器具を取り出している彼女をちらちらと横目で窺いながらソファーに座る。すると同時に老医師の携帯電話が鳴った。
「はいはい、ああ久しぶり。今来てるよ、診察終わったら伺おうかと思ってたんだけど……何? 今?」
 何か急用だろうかと首を傾げていると、老医師は溜息を吐きながら電話を切った。
「坂田さんすいませんね。ワシここの病院長と旧知でね、この後会う予定だったんだけれども、急用が入っちゃったから今来てくれって言われちゃって。少し外してもいいかい?」
「おう、構わねえよ」
「すまないね。その間彼女に体温とか血圧とかいつもの感じで測定しててもらうから」
 そう言って老医師が彼女を指差すと、彼女は俺に視線を向けてぺこりと頭を下げる。美人と二人きりならむしろ大歓迎だ。
(……たまには潤い欲しがったって罰当たんねェだろ。どうせこんなナリじゃどうにかなる訳でもねェし、)
 我に返ると負けそうになる。考えてみれば妊娠した男が女装してナースに鼻の下を伸ばしているという地獄絵図だ。彼女にとっては災難でしかないだろう。
「何か悪ィな、爺さんから俺のことは聞いてんだろ?」
「……はい、決して口外しません」
 控えめなハスキーボイスが淡々と発せられる。俺を見ても動じていないところを見ると信用できそうだ。
「だと助かるわ。気持ち悪ィかもしれねえけど勘弁な?」
「そんなこと、ない、です」
 ぎこちない返答に苦笑いして、差し出された体温計を受け取った。俺のこの状態は女の目にはどう映るのだろう。
 時計の秒針が進む音が静かな部屋の中に響く。体温計を脇に挟んで微睡んでいると、ちらちらとこちらを窺うような視線が飛んできた。思わず見つめ返すと、彼女は何か言いたげに迷っているように見えた。
「……あの、」
「ん?」
「どうして独りで産もうと?」
 真っ直ぐな瞳には好奇の色は感じられない。真剣な面持ちに俺もつられるようにして姿勢を正した。
「……いや、独りじゃねェよ。なんつーか、家族みてぇな奴らも居るし、うるせえババアもいるし」
「でも相手の方には言ってないって聞きました」
「げ、あのジジィそんなことまで言ってんのか」
「どうして伝えないんですか。その人、自分の知らない所で自分の子供が生まれてたって後で知ったら、」
 クールビューティな見た目とは裏腹に、彼女は一度口を開いた途端に畳み掛けてくる。思ったより熱いタイプなのだろうか。
「そうさなァ、恨まれるかもな」
「だったら……その人のことは本気じゃないんですか、」
「さあな、そんなこと考えたこともねェよ」
 赤の他人だからだろうか。責められているようには感じなかった。何の事情も知らない相手というのは俺にとっても気が楽だ。少し気持ちが整理できる。
 だが、問い掛ける視線はどこかあの瞳と同じ色を含んでいるようにも感じた。いつも瞼の裏に浮かぶ、蒼い炎にも似た、あの、鋭く燃え上がる黒曜石の瞳。
「……俺ァ只、腹括っただけだ」
 最後に託されたものが思わぬ形を持った。
「……アイツがもし知ったら、きっと後悔する」
 ならば俺も、命を懸けて護らねばならない。
「さすがに堕ろせとは言わねェだろうけどな、アイツどうせ自分の我儘で俺に背負わせたって気に病んじまうからよ。受け入れたのは、俺が望んだことなのにな。だからって、お前は悪くない、なんて言いたかねェんだよ。そんなこと言ったら腹のコイツが悪みてェじゃねェか」
 あの日の事を悔やむことは、生まれてくる命さえも否定することになる。それだけは嫌だった。
「俺ァくたばるつもりはこれっぽっちもねェ。けど、絶対はねェんだ。何かあったらアイツは一生苦しむ。せっかく拾った命なのによ、てめェのガキを呪うかもしれねェ」
 求め合ったことを、絶対に後悔なんてしない。
 そっと腹に手を当てる。
「俺が勝手に孕んだんだ。父親も母親も俺だ。勝手なのは承知してるけどよ、コイツが生まれたら、ただ手放しで喜んで祝ってやりてえ」
 独りではない。生きることを諦めない。
「いつか伝える日が来るかもしれねェし、そん時に万が一まだ縁がありゃどうとでもなるだろ」
 積み重ねた想いはきっとまた繫がっていく。碌でもない日々を一緒に笑い明かして。
「ま、こんな格好して何言ってんだってな。心配してくれてありがとよ。まあ大丈夫だから、」
 話題を切り替えるように体温計の音が鳴る。へらへらと笑いながらそれを渡すと、彼女は何故か体温計ではなく、俺の手首を掴んだ。
「へ? あ、あの〜何デスカ?」
 もしかしてワンチャンあったりする?などと不埒な想いが一瞬脳裏を過るが、さすがにこの状況では考えにくい。
 俯いている彼女の顔を混乱しながら恐る恐る覗き込む。その瞬間、目に飛び込んできた光景に息を呑んだ。
 何故か彼女の瞳には深い悲しみと静かな怒りが綯い交ぜになったような色が浮かんでいた。思わず目を瞠ると、その眦からはらりと一筋の涙が零れ落ちていく。
「え? ええ? 何?」
 訳がわからないまま狼狽していると、俺の手首を握っている力が益々強くなる。そして、地を這うような唸り声が部屋の空気を震わせた。
「……だから、こんなとこに居んのか。それで結局てめえが全部背負ってりゃ世話無ぇよな」
「は?」
「俺は何にも知らないまま、他人の立ち位置のままで護ってやってる気になってよ、情けねえったらねェよ」
「え? 俺って?ええ?」
 ゆっくり眼鏡とマスクが外され、夜会巻きのように一つに結い上げてあった髪がナースキャップごと床に落とされる。変化した口調は聞き慣れた低音に変わり、瞳孔の開いた鋭い瞳が俺を射貫いた。そこに居るのは、紛れもなく。
「お前、ひじ、っ」
「こんな新宿のど真ん中でマグロが釣れるたァ知らなかったなオイ。何が遠洋漁業だ。随分とまあ浅瀬に隠れてやがって、テメーは潮干狩りのアサリかこの野郎」
「それはっ、いや、何でお前、え? さっきの声は?」
 動揺のあまりどうでもいい疑問が真っ先に口を突いて出る。土方は忌々しそうに付け睫毛を外して紅のついた口元を乱暴に拭った。
「マスク型変声機だ。源外が作った」
「オイ違う話になってるじゃねェか、この迷探偵! ここは米花町じゃねえぞ! えっ、ちょ、侵入者ァァ!」
「うるせェ黙れ」
 やはり山崎が居たのは偶然ではなかったのか。
 一体どうして此処がわかったのか。考えるまでもない。誰が手引きしたなんて一目瞭然だ。
(クソ、ふざけやがってあのジジイ、医者の守秘義務はどうなってんだ。いや待て、源外のジーさんまで関わってるってことはババアもグルか!)
 だらだらと冷や汗が流れていく。咄嗟に逃げ出そうとするが掴まれたままの手首がそれを阻んだ。
「……っ、んだな、」
「え?」
「俺の、なんだな?」
 腹の底から絞り出すように、漸く音になった言葉は脆く、今にも消え入りそうだった。
「腹のガキは、俺も、親なんだろ?」
 一言一句をそう噛み締めて、再び土方の瞳から涙が溢れ出す。感情を抑えていた堤が決壊するように、止めどなく。
「ひじかた、」
「頼む」
 小さな祈りが雫となって、俺の肌を濡らしていった。
「そうだって、言ってくれ」
 ああ、だから。知られたくなかったのに。
 最悪の展開だ。さっきの俺の言葉を聞いたせいでお前はもう、自分を責めることもできなくなった。
 濡れた頬にそっと手を伸ばす。目尻を拭ってやると土方は静かに俺を抱き寄せた。
「そうじゃねェって言っても、俺が親だ。誰にも渡さねェ」
「……何だそれ、意味ねェじゃねえか」
 押し当てられた胸元から鼓動が伝わる。
 生きている。ここには三つ。
「俺がそう易々と他の奴にも許すと思うのかよ」
「……体だけならあるかもしれねェだろ」
「んだとてめェコノヤロー」
 背中に回した腕に力を籠めて、緩やかに憎まれ口を叩く。すると土方は俺の頭を軽く小突いて呆れたように溜息を吐いた。
「ああ? 無いって言い切れんのかよ。テメーさっきあわよくば俺のパンツ見ようとしただろうが」
「それは……言うなよ。滅茶苦茶ショック受けてんだぞ。てめェのせいでもうナース物観れねェじゃねえか」
「そりゃ何よりだ。こんなアホな格好した甲斐があったな」
 本当にそうだ。あの泣く子も黙る鬼の副長が女装までして、こんなところに侵入するなんて。山崎を寄越したのならそのまま彼に探らせることも容易かった筈なのに。
「何お前下着どうなってんの」
「ああ? 普通に男物だ。決まってんだろ」
「はあ〜? なってねェな。Tで出直せ」
「ふざけんなテメーで穿け」
「へっ、舐めてもらっちゃ困るんだよ。今は冷えないようにババアパンツだけどな、パー子の時はいつも紐パンだ」
「何の自慢だ変態かてめェ!」
 馬鹿な会話を続けながらも、労わるように体を擦る手の優しさに泣きたくなる。自分の足で乗り込んだのは、何よりも俺の無事を確かめたかったのだと、ひしひしと伝わる想いが胸を焼いた。
 喉の奥が熱い。込み上げる想いが溢れてしまわないようにきつく目を閉じることしかできなかった。

「……そうか、俺ァまた、家族を持てんのか、」

 独り言のように土方がそう呟いて唇を寄せた。
 以前伝え聞いた遠い過去の記憶。手放したように見えても、ずっと続いていた兄弟の優しい縁。手繰り寄せた先はきっとまた繋がっている。
 無言のまま頷いた。口を開けば声が涙に変わってしまいそうだったから。

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