天つ風、燃ゆる陽炎



 久しぶりの穏やかな眠りだった。
 あの夢はもう見なかった。代わりに、何かを抱いて空を飛び回る夢を見た。温かく、柔らかい、何か大事な物を抱えていた。きっとこれが幸せなのだろうと朧気に感じながら。




二、木菟引き




「いよォ、近藤、トシ、元気そうじゃねえか、」
 舌を巻き付けるような口調で目の前の男が楽し気に扇子を叩く。嫌な予感に土方は眉を寄せた。
「栗子がよォ、泣いちゃって仕方ねえのよ。トシ、とりあえずお前死ね。」
 言葉と同時に彼の傍に控えている従者が土方に向かって一斉に矢を放つ。振り翳した太刀でそれらの矢を一掃しながら、土方は深く溜息を吐いた。こんなやり取りでさえ、お馴染みの光景だ。
「勘弁してくれよ、俺になんて真っ平だって言ったのはそっちだろうが。そもそも俺は誰とも婚姻結ぶ気はねえんだよ。」
 頭を掻きながら苦々しく吐き捨てる横で、避け損ねた矢が着物のあちこちに刺さり、近藤が壁に磔になっている。
「とっつあん、ちょ、これ、外して、」
「まあいい。今日はそんな話しに来たんじゃねえのよ。」
「…また厄介事かよ、」
「ねえ、ちょっとお二人さん?無視しないで、」
 見兼ねた彼の従者が近藤の矢を外してやると、改めて二人は男の前に座り直した。深々と礼をしてからゆっくりと向き直る。目の前にいるふざけた男は長官・左大臣、松平片栗虎。太政官における実質上の最高責任者だ。
「噂の神出鬼没の陰陽師、オメーら会ったっていったな?」
 放たれた予想だにしない言葉に二人同時に首を傾げる。
「あ、ああ。この前の鷹狩りの時にトシのこと助けてくれたんだよ。」
「どんな奴だった?居所は?」
「どんなって、飄々として掴みどころのねえ奴だったな。今は麓の神社に留まってるみてえだけど、それが?」
 顎に手を当てて記憶を反芻しながら近藤が静かに答える。助けられる前に殺されかけてんだが、と土方は腕に括られたままの組紐に視線を落とした。同時にぱしん、と扇子を打ち鳴らす音が響く。
「ヤツのことをな、将ちゃんが調べて欲しいんだと、」
「東宮様が?」
 思いもしない人物の名に二人は目を丸くする。松平は何故か変な愛称で呼んでいるが、彼が指しているのはれっきとした皇太子だ。彼の叔父にあたる現在の帝には世継ぎがいない。何事も無ければこのまま彼が次の帝となるだろう。何故東宮が一介の、しかも流れの陰陽師などを調べようとしているのか。
「しかもよォ、どうも帝の意向みてえなのよ。神祇官も一枚噛んでる。」
「「はあ?」」
「昨今の日照りには皆頭悩ませててな。雨乞の儀をって話になったんだよ。けどなあ、頼みの綱の結野衆は物忌みだ。他に適任はねえのかってところにソイツの噂よ、」
 確かに普段こういった儀式を取り仕切っているのは帝のお抱えで宮中でも力を持つ結野衆の仕事だ。だが、そんな彼らも最近身内に不幸があったらしく、公的な場面に出ることを控えている。珍しい事ではない。方角が悪いというだけで数日間引き篭もることも当たり前だ。
「だからって氏素性もわからねえ奴をそんなところに引っ張り出そうってのか。御所でやるんだろ?」
 街中の祭ならまだしも、御所での催事となれば話は違う。そもそも身分が五位以下の者でなければ宮中に参ずることもままならないのだ。そのしきたりを差し置いて帝が庶民に会うなどと聞いたことがない。
 土方が抱いた疑問を予想していたのだろう。松平は察したように頷いて膝を叩いた。
「そう、おかしいんだよなァ。」
「…結野衆云々より、そっちが本命か、」
 独り言のように呟くと、嫌そうな視線が向けられる。
「ったく、てめえは話は早ェが、嫌な野郎だなァ、トシ、」
「えっ、えっ、何なの二人とも!」
「これは俺の憶測に過ぎねェんだけどよ、」
「ちょっとォォォ!また俺無視!?」
 喚く近藤を無視して松平が言葉を続ける。こういったことは近藤には向いていないことは百も承知だ。内容がきな臭いことであればあるほど、この真っ直ぐな男にはできれば聞かせたくない。けれどそう土方が察するよりも近藤の器量を買っているのだろう。松平は近藤を抜いて土方にそういった話をすることは一切無い。回りくどくてもその態度は信用できた。
「どう思う?」
「仮に、奴の力のある無し関わらず帝が気にしてんだとしたら…奴が庶民じゃねえ、とか。」
 無言のまま頷く姿を見つめながら言葉を続ける。
「例えば…どこぞのやんごとなき御方の御落胤、とかな。」
 きっぱりと答えると、小さな溜息が聞こえてきた。
「やっぱそうだよなァ…お前らだから言っちゃうけどよ。もしかしたら、そいつは帝のってことも無いとは言い切れねえ、」
「何?」
「帝が会いたがって自ら人に調べさせるなんてよ。いくら力があったって、そんぐらいでもねえと有り得ねえだろ。もしくはそれに値する何かがねえとな。」
 言いながら、手にした扇子を閉じては開くという動きを繰り返す。
「確かに昔から女遊びが激しかったとは聞いてたからな、どこぞの女御に隠し子産ませてても不思議じゃねえが…」
「だろう?でもそれじゃあ俺としちゃあ困る訳よ。次の帝は将ちゃんでいって欲しいからよォ、」
「それで俺たちに調べろってのか、」
「万事屋名乗ってる割には金積まれても貴族の頼みなんて聞かねえ奴がトシ助けたって言うじゃねえか、この機会逃す訳にはいかねえ。頼んだぜ。」
「…もし、アイツが本当にそうだったらどうすんだ、」
「出家して都から出てもらうか、もしくは、」
「消せって?」
「オイオイ物騒なこと言うんじゃねぇよ。謀反人になっちまうぞ。」
 つまり、そうならないように、ということだ。
「まあ当の将ちゃんはそんなこと思っちゃいねえからな。純粋に人を救う術を見てみたいそうだ。」
「とりあえずはソイツに雨乞いを引き受けさせればいい。」
 これは本当に面倒なことになった。
 瞳を閉じればあの時のことが昨日のことのように思い返される。浮かぶのはあの掴み所の無い姿。
 現在の帝、定定とは似ても似つかない風貌だった。帝は如何にも腹に一物抱えた古狸といった風体である。だが、アレはあの狸爺とは違った気だるげな優男。しかもおそらく脅しなどが通用する類の人間ではない。

 だいぶ骨が折れそうな仕事だ。



 沢に沿って続いている道をゆっくりと進む。
 傍らで何かを考え込んでいた近藤が、意を決したように口を開いた。
「トシ、さっきの話だけどよ。」
 言いたいことはわかっている。
「心配しなくても出会い頭に斬ったりしねえよ。とにかくアイツが何者かわからねえことには始まらねえだろ。」
「…俺はアイツ、悪い感じはしねえからよ、」
「ああ、わかってる。」
 わかっている。男が良い奴か悪い奴かは問題ではない。だからこそ近藤は気が進まないのだろう。
「それより、何でテメーがついてきてんだよ。総悟、」
 半分寝ているようなやる気のない表情で便乗しようとする男に思わず眉を寄せる。土方の視線を感じて、男がゆっくりと顔を向けた。
「なんか面白そうになってるみてェなんで。二人とも聞きやしたかィ?」
 得意げに人差し指を立ち上げて屈託なく笑う姿は少年そのものだが、その胎が真っ黒である事は身に染みて理解している。
「何だ。」
「実はその雨乞いの話、既に本人に依頼しに行った奴がいるんでさァ、」
「えっ、そうなの?」
 近藤が身を乗り出して声を上げた。
「ま、術もなく断られたらしくて、そいつが強引に連れて行こうとしたら一瞬で倒されたらしいですぜ。」
「何、」
「素手の喧嘩も剣の腕も恐ろしく強かったって。そんな話聞いたら手合わせしてもらいてェと思うのは当然でさァ、」
 剣の腕。そう聞いて血が湧きたつ。そんなことが目当てではないのに、期待するように鼓動が跳ね上がった。
 形の美しさばかりを競うつまらない試合にはいい加減飽きていたところだ。
 だが、疑惑は益々深まる。喧嘩の腕はともかく、剣に長けているということはそれなりの稽古を受けられる身分だということだ。考え込んでいると、古びた鳥居が見えてきた。あの時の言葉通りなら、男はあそこで寝泊まりしている筈だ。

「失礼、万事屋を、」
 鳥居の前で一礼してから足を踏み入れる。柔らかな風が吹いて、銀杏の枝が揺れた。
「おーい、兄ちゃん危ないよ、」
 既視感を思う間もなく、今度は頭上から鑿が降ってくる。
「テッメェェェ!!人になんか恨みでもあんのか!!!」
 間一髪で避けながら、地面を踏み鳴らして屋根の上を睨んだ。男が頭を掻きながら首を傾げている。
「あ、何だお前か。調子どう?」
「最っ悪だ!たった今殺されそうになってんだよ!」
 前言撤回だ。こんなのが落胤なんぞであって堪るか。
「なかなかできるお人じゃねェですか。惜しいなァ、もうちょっとだったのに。旦那ァ、もう一発お願いしやーす!」
「テメーは黙ってろ!」
「悪ィな。屋根直してたんだけどよ。手ェ滑っちまって、」
 ひらりと屋根から舞い降りて、土方の肩を叩く。軽やかな身のこなしはやはり武術の嗜みがあるのだろう。
「…てめえ、ワザとやってねえか、」
「まあまあ、トシ、その辺にしてくれ。万事屋、まずは礼を言う。トシ助けてくれてありがとな。」
「二回殺されかけてるけどな。」
「ほんと余計な事してくれましたねェ、せっかく息の根止める機会を、」
「オメーは黙ってろって言ってんだろ!」
「やーいやーい死ね土方〜!」
 揶揄するようにそう囃し立てながら、沖田の瞳の色が変わる。土方がそれに気付くと同時に、沖田は腰の太刀を抜いて足を踏み出した。振り翳した刃が男の頭上に振り下ろされる。
「総悟!」
 動きを止めようとする前に、男が口元を吊り上げた。
「危ねえぞ、刃物プラプラさせてんじゃねえよ、」
 切先をかわして袂から取り出した扇子で刀身の腹を往なす。宮中で一番かもしれないと謳われる、男の刃を。
「…成程、こりゃアンタに執着する奴の気もわかりまさァ。旦那、次は邪魔者無しの、サシでやり合ってくだせェ、」
「何言ってんだか。やなこった。」
 やる気の無い表情は、不敵と称するに値するものだった。
「おい、総悟。話が進まねえからちょっとこっち来い。トシ、頼んだぞ。」
 目配せして沖田の肩を掴み、近藤がその場から離れていく。そのまま林に近い空き地に出ると、二人は剣を抜いて向き合った。どうやら稽古をつけてやるから大人しくしていろということなのだろう。
「お前の家族?」
 背後の柱に寄りかかりながら、男が呟いた。先ほどとは違う、穏やかな微笑みに思わず息を呑む。視線の先には楽しそうに剣を振るう二人がいた。
「いや、上司と部下だ。まあ、若ェほうは歳は離れてるが同じ乳母で育ったからよ。乳兄弟みてえなもんだ。」
「そっか、なんかいいな。そういうの。」
 静かに風が吹く。男の前髪が舞い上がり、伏せていた銀色の睫毛が震えた。
「顔色良さそうじゃねえか。それ、効いてるみてぇでよかった。」
「ああ、」
 朱色の組紐が銀色を交えながら揺れている。
「…正直、助かった。ずっと体が重くて眠れなかったからよ。お前が祓ってくれてなきゃ、ヤバかったかもしれねえ。」
 口に出してから、あの時のことを思い出して頬が熱くなる。重ねられた柔らかな唇。甘さを含んだ濡れた舌。温かな吐息。
 振り払うように頭を振って、土方は手にしていた包みを差し出した。
「改めて礼はする。一先ずこんなもんで悪ィが、」
「いいって、何だよコレ、」
 包みを外して箱を手渡す。蓋を開けると甘い香りが広がった。
「唐菓子だ。何かお前、甘い物好きそうに見えたからよ、」
 米粉に甘葛の汁を加えて油で揚げた菓子。その甘さを土方は苦手にしていたが、この男は好きなのではないかと思ったのだ。男の柔らかな銀髪が氷菓子を連想させたからかもしれない。
 だが、男は菓子を見ると目を見開いてその動きを止めた。
「どうした、」
 沈黙が間を満たす。まるで時が止まってしまったのかと錯覚する。そして、戸惑いながら土方がそう声をかけた瞬間、再び空気が揺れた。思わず、息を呑む。

 音もなく、その瞳から一粒の涙が滑り落ちていった。

「万事屋?」
 もう一度声をかけると、今度はハッとしたように顔を上げる。
「…何でもねえ、」
「嫌いだったか?」
「いや、悪ィ。そうじゃねえよ。甘味なんて久しぶりで感動しちまった。」
「そうか、ならいいんだけどよ。」
「…うん、すげー好きなんだ。甘いの。」
 噛み締めるようにそう呟いて、愛おしそうに何度も箱の蓋を撫でる。
「そうか、」
 何故かそれ以上は何も言えなかった。
 心から嬉しいというように笑っている筈の顔。だが、その表情は何処か儚く風景に溶け込んでしまいそうに見えた。この間と同じ、何かを諦めているような瞳が今にも泣き出しそうにも見えて、胸が押し潰されそうになる。
「…都に来る前は、何処に居たんだ。」
 騒ぐ胸を無視して話題を変えた。そもそもの目的を果たさねばならない。
「俺のこと、調べてこいって言われた?」
「ああ、お前に雨乞いを了承させろとよ。」
「あ〜この前来た奴らもそんなこと言ってたな。嫌なこった。」
「だろうな。」
 既に此処へ来た者がいるのなら察して当然だろう。隠しても無駄だ。
「前は摂津に居た。ひと月くらいな。けど、旅して回ってるから一か所に長居はしねえよ。都もすぐに出るつもりだ。」
「一人で旅してるのか。家族は?」
「さぁな。いたことねえ、」
 核心だった。本当のことを言っているとは限らないが、少なくとも此処には彼以外の気配は無い。旅をするのに従者も連れずになど有り得ないことだ。ならやはり松平の危惧は取り越し苦労だったのだろうか。だが、それならば帝が執着する理由は何だというのか。
 首を傾げていると、男は独り言のように呟いた。
「…人を、探してんだ、」
「人?」
「ずっと前に、生き別れた、」
 どこか遠くを見つめながら、静かに糸を手繰るように。
 寂しげな横顔と諦めたような笑顔の理由はこれだったのだろうか。また、胸が抉られるような痛みが奔る。これは何の感情なのだろう。腕に括られた組紐から、男の感情が流れ込んでいるのだろうか。
 気付けば、その腕を引き寄せていた。
「なに、」
「わからねえ、」
 男の顔が強張る。本当にわからなかった。ただ、体が衝動に突き動かされて勝手に動いてしまう。背中を掻き抱き、柔らかな髪に頬を摺り寄せた。何だ、どうしたと戸惑いながらも彼は抵抗しなかった。
「あったけえな、お前。だから変なモンが寄ってきちまうんだよ、」
 腕の中でそう笑う姿が、また泣いているように見えた。
「…なあ、前にどっかで会ったことねえか?」
 咄嗟に出た言葉の意味は自分でも理解していない。ただ、胸が苦しくて堪らなかった。
 何の根拠も無いのにあの夢と関係しているのではないかと思ってしまった。
あの夢の中で見た、顔の見えない男はお前なのではないのかと願ってしまう。出会ってから、あの夢を見なくなった。それはお前が会いに来たからではないのかと思いたいのだ。
「何だそれ、口説いてんの?」
「わからねえ、」
「さっきからそればっかだな。わかんねえなら女に言ってやれ、テメーなら引く手数多だろ。」
「うるせえ、余計なお世話だ。」
 出会ったばかりなのに、男相手なのに、そんな言葉が次々と浮かんでくるのに手を離すことができない。
 わからない。わかりたくない。
 足元にぽっかりと穴が開いて、落ちていく。底が無い。

 木菟引きが木菟に引かれるなど、わかっていても何の役にも立たないのだ。


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