天つ風、燃ゆる陽炎



 同じ夢を、よく見ていた。

 古びた神社の神楽殿で、男が舞を踊っている。
 純白無紋の狩衣、浄衣を纏った姿とその軽やかな動きはまるで巫女舞のようだった。

 男を包んでいる銀色の光が、翻した袖を追って残像を描いている。
 気付けば男の腕を掴んでいた。そして、唇が勝手に動いて何かを男に尋ねる。

 男は目の前にいる筈なのに、その顔が見えない。もどかしさに唇を噛む。
 不躾な言葉に、男が静かに微笑んでこちらを見つめる気配がした。そうして、ゆっくりと己に向かって手を翳す。
 白い指がそっと額に当てられるのをぼんやりと眺めていた。目を逸らすことはできなかった。


「    」


 男が何かを囁く。
 だが、まるで御簾が落とされるように映像はいつもそこで途切れてしまう。


 俺は何をしたいのだろう。何を知りたがっているのだろう。唯々焦燥だけが己を追い立てる。
 何かを、知っているのが果たしてその男なのか、それとも自分なのかもわからない。


 血が沸き立つような衝動が、穏やかな水面に波紋を描く。光に導かれるようにして必死に手を伸ばす。
 俺は、ずっと、その何かを待っていた。



 
一、朱い糸




 愛宕山へと続く丘の上に立ち、土方は小さく息を吐いた。額からは脂汗が浮かんでいる。
 馬を止め、もう一度深呼吸をする。眼下に視線を落とすと都の様子が一望できた。御上の住む大内裏から伸びた朱雀大路を対称に碁盤の目のように広がる左京と右京。平らかで安らかな都、平安京。

「トシ、大丈夫か?」
「ああ、少し疲れただけだ。」
 心配そうな近藤の問い掛けに何でもないと首を振りながらも、己の動悸が治まることはない。一体どうしてしまったというのか。体の不調は数日前から続いていた。どこかが痛む訳ではない。ただ、不意に鉛の岩に押し潰されるような圧迫感と共に激しい動悸に襲われるのだ。
「顔色悪いぞ、少し休もう。」
「東宮様は、」
「とっつあんと総悟がついてる。大丈夫だろ。」
「…そっちのが心配だろうが。」
「まあまあ、別の隊もいるし、」
 再び溜息を吐きながら目を覆う。確かにそこまで目くじらを立てる話でもないことはわかっていた。今日は宮中の催しで鷹狩に出ているだけに過ぎない。自分たちの役割はせいぜい警護を兼ねた盛り上げ役だ。
 袖を翻して額の汗を拭う。近藤がまた心配そうに眉を寄せた。
「最近調子悪そうじゃねえか?どうした、」
 向けられる真っ直ぐな視線にいつものおちゃらけた雰囲気は一切無い。普段はふざけていても、こういう時の近藤は誤魔化しを許さないのだ。彼の懐の深さを噛み締めながら、土方は観念して口を開いた。
「…眠れねえんだ、」
 できるだけ心配させないようにと意識した筈の言葉は、発してみると随分と掠れていた。まるで残り僅かな力を振り絞っているかのように聞こえてしまう。これでは悪戯に心配の種を増やしてしまうだろう。しまった、と苦々しく額を抑えると同時に、近藤が引き結んだ唇をそっと動かす。
「どのくらい、」
「ここ一月くらいか。眠れても一刻ごとに目が覚めちまう。変な夢、見て、」
「夢?」
 そう、夢を見ている。何度も繰り返される夢は悪夢というわけではない。
 舞う人影。光の残像。額に翳された、白い手のひら。
 ぽつりぽつりと土方が言葉を続けると、近藤は顎に手を当てて首を傾げた。
「悪夢なら、トシが泣かせた女の誰かかと思ったんだがな。」
「…近藤さん、」
 嫌な流れになってしまった。思わず苦々しい表情を浮かべると、近藤が取り繕うように首を振る。
「いや、だって言うじゃねえか。宮中でも女の生霊祓ってくれって怯えてる奴は少なくねえしよ。お前だってとっつあんのとこの大君に文貰ってるって聞いたぞ。全然返ってこないって泣いてるらしいって、」
「…知らねーよ、一度は返したぜ。こちとら無教養なモンですまねえ、他の奴に贈ればその価値をわかってくれるだろってな、」
「おま…だから生霊飛ばされてんじゃねえのか、」
「んな訳ねーだろ。アホらしい。」
 苦々しく吐き捨てて手綱を引く。踵を返して踏み出そうとすると、近藤が隣に並んで再び口を開いた。向けられる視線は再び真剣な様子に変化している。
「…なあ、でもよ。夢に出てくるってことはトシに何か伝えたいことがあるってことじゃねえのか?自分に懸想してる奴が出てくるって言うだろ?」
「んな馬鹿な、考え過ぎだろ。」
「でも悪いモンだったら心配じゃねえか。あ、そうだ。最近宮中で話題になってる流れの陰陽師の話知ってるか?」
「はあ?」
 今度は何を言い出すのだろうか。遮るのも面倒なので、馬を進めながら話半分に耳を傾ける。
「神出鬼没でどこの神社にも属してねえみてえんだが、奴に印組んでもらった奴は必ず回復するんだと、」
「…そんなの、眉唾モンだろ、」
 馬鹿らしい。宮中はいつもこの手の話題ばかりだ。誰もが口を開けば自分が口説いた女の話や振った女の生霊や祟りの話が飛び交っている。どれも身から出た錆であろう。恐ろしいのなら大人しくしていればいいのだ。
 いい加減うんざりしていた。政事でさえ、女が引く糸に操られている。娘を何人どこへ嫁がせたかで己の身分が決まるなど、裏を返せば誰がやってもいいのだ。悪政かどうかは後の時代が決めることで、今を生きる者は皆自分が良ければそれでいいのだ。苦しんでいるのが自分以外ならば関係無い。そして、本当に苦しんでいる者は変化を求めて立ち上がる気力も無いまま流されている。
「トシ?」
 それでも、自分がここに立っているのはこの男が居るからだ。
 近藤勲。近衛府の長官、近衛大将。この男だけが、土方が宮中に勤める理由だった。政治の中枢に存在しながら、他の貴族とは正反対の、自分のことを最後に考える男。都が飢饉に陥れば自身の屋敷を解放し、身分の貴賤を問わないどころか犯罪者さえも招き入れてしまう。
 御上に媚びうる偽善者か、本物の馬鹿のどちらだろうかと考えたこともあったが、ある意味近藤は後者であった。困っている者を迎え入れて盗みを働かれたことも一度や二度ではない。それでも、近藤が人を恨むことはなかった。
 盗みの手口を検分して、「いやぁ、鮮やかだなあ。アイツはスゴい。」と感嘆することさえ珍しくない。
 そんな彼が未だに独身であることに対して「お主の北の方は乞食どもであろう」と他の貴族に揶揄われた時も、「そりゃ上手い一本取られた」とカラカラと笑っていた。しかも当人は貴族ではなく、町娘一人に入れ込んでフラれてはしつこく後を追い、その都度殴られ毎日頬を腫らしている。

(…なんて阿呆だ、)

 呆れながらも、長い間、貴族として生きることに対しての苛立ちと、胸の中に巣食っていた厚い雲が静かに晴れていくのを感じていた。この大馬鹿な男がやりたいことをやれる社会を一緒に作ってやりたいと思ったのだ。その為なら、清廉な彼の代わりに自分が汚れ役になろうと。
 そして、同じような想いを抱いたのは己一人ではない。彼を慕って集まってきたはぐれ者の貴族たちはアクは強いが一芸に秀でた者ばかりで、いつの間にか宮中の派閥の一つに数えられるまでに成長している。

「ああ、聞いてる。そんな得体のしれねえもんによく縋ろうと思えるもんだな。」
「まあな、どこから来るのかもわからねえ。けど、困ってる奴の前にふらりと現れては魔を祓って、病を治して礼も受け取らず去ってくんだと。逆にいくら金積まれても相手が気に入らねえ奴なら言うことなんて一切聞かねえ。気持ちの良い奴じゃねえか。会ってみてえな。」
 一緒に酒が飲みたい、と続ける姿に苦笑する。どれほどの力を持つ者が目の前に現れようとそれを利用することなど一切思いつかない真っ直ぐな魂。眩しさに、目を細めた。
「ったく、アンタとなら気が合うかもな。」
「だろ?しかもよ、そいつが珍しい風貌してるらしくて、」
 近藤が人差し指を掲げてそう言葉を続けようとすると、ガサガサと繁みが揺れる。反射的に身構え、腰の太刀に手をかけると中から雉が一羽顔を出した。ただの動物かと土方が手を離すのと同時に、今度は背後から声がかかる。
「おーい、兄ちゃん危ないよ、」
 間延びした声に緩慢に振り向いた瞬間、鋭い矢が一本頬を掠めていく。鏃は雉の傍らの松の木に突き刺さり、衝撃に驚いた鳥はそのまま真っ先に羽を広げて飛び立った。
「あーしくじった、今日の晩飯が…」
 声の主は残念そうに頭の後ろをバリバリと掻いている。矢が擦った頬がジンジンと痛んで血が滲んでいるのを感じて、土方は思わず声を荒げた。
「なっ、しくじったじゃねえ!てめえ人を殺すつもりか!」
「ちゃんと危ないって言っただろうが。そんなとこにボーっとしてやがって邪魔なんだよ。」
「あんな口調でわかるか!もっと切羽詰まった感じで言えや!」
「うるせーな。んな事まで他人に駄目出しされる覚えはねえよ。」
「んだとコラァ!」
 括袴に脛布を履いた直垂姿にほっかむり。着ている着物の布の質とその出で立ちからみると貴族ではなさそうだ。土方がその胸倉を掴んで揺さぶると、頭に巻いてあった手拭いがはらりと落ちる。
 現れた姿に思わず息を飲んだ。視界を埋め尽くす銀色の光。ふわふわと柔らかそうな銀髪が太陽の光を浴び、眼前で揺れている。そして、眠たげに開かれた紅い瞳がいかにも面倒臭いといったように此方を見つめていた。
 動きを止めた土方の代わりに、あっと声を上げたのは近藤のほうだった。
「お前…もしかして、噂の陰陽師か?」
「は?」
 突拍子もない言葉に視線を向けると、近藤は顎に手を当てて首を傾げている。
「いやな、さっき珍しい風貌してるって言っただろ?それが、雲みてえな銀髪に血の色した瞳だって、」
「そりゃうねってるってことか?喧嘩売ってんのかコノヤロー、」
「喧嘩売ってきたのはそもそもテメーだろうが!まず謝れ!」
「あーはいはいすんませんでした〜」
「っの野郎!」
 誰に向かって言っているんだと叫びそうになり、慌てて口を噤む。身分を持ち出すという自分が最も嫌う行為を無意識にしようとしていたことに気付いて舌打ちした。しかし、後少し矢がずれていたら己の頭が打ち抜かれていたというのにこの態度はあまりに酷い。
 苛立ちのあまり掴み上げた拳に力を入れると、急に男の様子が変化した。先ほどまでの飄々とした表情は鳴りを潜め、冷たく色を変えた瞳がすっと細められる。殺気にも似た空気を醸し始めた姿に身構えると、男は右手を掲げ、人差し指と中指を立てると土方の肩上辺りの空を切った。
「…良くねえな、お前、」
「なに、」
「そんなに仰山くっつけて、体辛ェだろ。難儀な色してんな、」
 独り言のようにそう呟き、袂から取り出した朱色の組紐を己の胸倉を掴んでいる手首に結ぶ。何を、と言いかけた瞬間、男の腕がそっと背中に回された。
「ちょいと我慢しろよ、」
「え、」
 何度目かの疑問を口にする前に、そのまま体を引き寄せられる。唇に触れる、温かい感触。柔らかく湿った舌が薄く開いた隙間から入り込み、まるで別の生き物のように土方の舌先に触れた。僅かに甘さを感じる濡れた体温に、電流を流されたような衝撃が全身を奔る。己の置かれている状況を理解した途端、弾かれたように目の前の体を突き飛ばした。
「っ、何しやがる!!」
 口元を拭いながら睨み付けると、先ほど見せた真剣な表情は既に消え失せている。今度は捉え処の無い、静かな視線が土方に向けられていた。
「怪我させちまった詫び。これで今晩からちゃんと寝れんぞ、」
「…え、」
 ぞくりと肌が粟立つ。何故、自分が眠れていないことをこの男が知っているのか。
 絶句する土方の代わりに再び近藤が声を上げる。
「やっぱり、お前がその陰陽師?」
「そんな大層なモンじゃねえよ。ただの万事屋だ。」
 よろずや、と一音一音鸚鵡返しに唱える。男は土方に向き直ると一つ溜息を吐いた。
「お前さんみたいなの、憑かれやすいんだよ。欲の無い不器用な堅物って奴が一番な。しかもそんな色纏ってよ、」
「色?」
「まあ、それはこっちの話。その組紐、俺の毛編み込んで念入れてるから大抵のモンは祓える。」
 促されて手首に巻かれた組紐をじっと見つめる。確かに編まれた朱色の紐の中にチラチラと銀色の糸のようなものが光っている。だが、土方はある事実に気付いて眉間に皺を寄せた。
「…オイ、なんかこれ、縮れ毛飛び出てんだけど、テメーどこの毛使ってんだァ!」
 若い女子のように叫び出しそうになりながら紐を引き千切ろうとするが、ビクともしない。結び目を解こうとしてもそれは頑として動かなかった。
「何だよ、どこの毛だっていいだろーが、」
「よくねェェェ!!気分悪ィ!!」
「うるせーな。はい、じゃあこっち。髪の毛ね、」
 渋々といった様子で別の組紐を結び直す。自分が解こうとしても全く敵わなかったのに、一体どうなっているのだろうか。
「ったく、贅沢言うんじゃねえよ。言っとくけど、ほんとはそれが一番強力なんだからな、」
「はあ?」
「人間に一番生きる気力を与えるのは欲なんだよ。今までテメーが無事でいられたのはそこの大猩々(ゴリラ)のおかげだぞ。コイツが年がら年中ムラムラしてるからお前に憑きかけてた餓鬼も下等な奴は中てられて逃げてたんだろ、」
「えっそうなの?」
 今度は近藤が目を瞠る。
「頭ん中惚れた女のことばっかだな。ついでに木目だの大根の割れ目だのにもムラムラしてそうだし、こんだけデケエ魂もなかなかねえ。」
「褒められてんだか貶されてんだかよくわかんねえけど、トシが無事なら、まあいいか!」
 告げられる事実に土方が言葉を探していると、男はほっかむりを被り直してまた小さく笑った。
 どきりと鼓動が跳ね上がる。不思議な微笑みだった。まるで悪戯っ子のように見えれば、穏やかに子を見守る親のようにも見える。けれど、それだけではない。男の顔は何故か、どことなく世の無常を受け入れて諦めているようにも見えた。
 気付けば手を伸ばそうとしている衝動に気付いて土方は慌てて頭を振った。一体己は何を考えているのだろうか。どうかしている。出会ったばかりで無礼を働かれた者に対して抱く感情ではない。
「その御守は俺が健在なうちは外れねえ。それで手に負えねぇのとか、何かあったらこの麓の神社に来な。俺今そこで間借りしてるから、」
「おい、」
「万事屋の銀時って言えばわかるからよ。じゃあな、」
 土方の呼びかけには応えないまま、弓を担ぎ直して軽やかに谷を駆け降りる。振り向くこともなく遠ざかり、その姿は一気に見えなくなった。
「…できれば今すぐ外してえんだけど、」
「トシ、いいじゃねえか。お前自分の顔見てみろよ。さっきとは別人だ。すげえ顔色良くなってるぞ!」
 やっぱり噂は本当だったと興奮したように近藤が拳を握る。確かにあの何かに押し潰される圧迫感と嫌な動機は消え失せていた。体が軽い。だが、
「つーか、何なんだアイツ、あんな…口吸い、まで、」
 思い出した瞬間に顔が沸騰したように熱くなる。唇同士を重ねて舌を吸い合うなど、そんな行為、男女の仲でもする者など滅多にいない。
(…そんな祓い方、当然聞いたことねえ、)
 体が熱い。まるであの瞬間に、命を吹き込まれたような錯覚に陥る。永い眠りから目覚めて、徐々に血が通い出していくようだった。

 銀色の光が揺らめく。
 錆びついていた筈の時計の針が今、鈍い音を立てて動き出したのだ。


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