For your eyes only



 手を引いたまま、夜の街を歩く。

 今、手を離したところでコイツは逃げないだろうとわかっている。だが、離すことはできなかった。
 頼り無い存在は手を離した瞬間にネオンの洪水に呑まれてしまうのではないかと思ってしまう。
 自然と力を増した俺の手に応えるように、銀時が手を握り返す。ただそれだけのことに酷く安心している自分が居る。
 騒がしい街中を抜けて、人通りの少ない川縁の土手を歩いた。一つ通りを過ぎただけで眼前に現れた田園風景に、銀時は驚いているようだった。
「…すごいですね。何だか街の中が嘘みたいだ。」
 少し寂しそうに見えるのは、失った記憶と目の前の風景を重ね合わせているのだろうか。
 聞こうとして、口を噤んだ。
「…ああ、もう少し街から離れりゃ夏には蛍も見れるからな、」
 当たり障りの無い言葉を選んで先へと促す。
「本当ですか?なら、夏に、」
 そう言いかけて、銀時はハッとしたように口を閉ざした。
 きっとそれまでに自分がどうなっているのかわからないと不安になったのだろう。光を失くした瞳が、ゆっくりと俯く。
「すみません、何でもな、」
「行くか。」
「え?」
「場所わかんねぇだろ?連れてってやるよ、」
 先のことなんて、誰にもわからない。
 お前は今、この瞬間にも全てを思い出すかもしれないし、このまま一生何も思い出さないかもしれない。けれど、今は何があっても不安を感じさせたくなかった。
 俺の言葉で、ほんのちっぽけな言葉一つで銀時が笑う。ただその為だけに、何かをしてやりたい。どうしてだろうか。
 まるで、大きな子供の面倒を看ているような、不思議な感情。
 その感情は、一体どこから沸いてくるものなのかわからない。俺は以前の万事屋と、今こうして目の前に居る銀時を同一人物として見ているのか、それとも別人として見ているのだろうか。わからない。
 むしろ、そのことを考えまいとしている自分に困惑していた。

 歩いている間、銀時はずっと物珍しそうに辺りを見回していた。煌々と光を放ちながら聳え立っているターミナルが殊更珍しく感じるのか、何度も振り返っては目を細める。あそこから船が飛ぶんだと説明してやると、目をぱちくりと瞬かせた。
「ターミナルはわからねえみてえだが、物の名前とか一般常識は覚えてんだな、」
「あ、はい。そうみたいです。」
「ならまだよかったじゃねえか。重度の記憶障害だと言葉も忘れちまうことだって珍しくねえ。着替えの仕方も食事の仕方も忘れちまって、自分で飯も食えねえ、用も足せねえこともあるらしい。赤ん坊と同じでも力は大人だから看病も容易にはいかねえそうだ。」
「そうなんですか、」
 煩いほどに夜空を照らす建物と逆方向の空を見上げる。
 闇の中を星が駆けていく。
 不思議な光景だった。こうして二人連れ立っている事実も。
 いくつかの路地を抜けて、山茶花の垣根に辿り着く。普段あまり帰ることの無い自分の家は、まるで他人の物のように見えた。
「ここは?」
「俺の家だ、幕府から拝領した。普段は屯所に泊まりっ放しだからほとんど使ってねえ。身の振り方決まるまでここに居りゃあいい。」
 玄関を開けながら中へと促すと、銀時は瞠目しながら首を左右に振った。
「そんな、ご迷惑は掛けられません!」
 手を引いてもそう叫びながら、頑として中へ入ろうとしない。後退りながら俺の手を外そうと後ろに体重をかけるのを見計らってパッと手を離した。すると案の定銀時は勢い余って後ろへよろける。力が抜けてしまった体を抱き寄せて、玄関の内側へと引き込んだ。俺の胸にしがみ付いて体勢を整えようとする間に素早く玄関の戸を閉める。
「…っとに、危ねえな。転ぶとこだったじゃねーか。」
「あ、危ないのはそっちじゃないですか、」
 鼻先を柔らかい髪が擽る。まるで綿菓子のようだ。
「よく聞けよ。こっちだってタダでは泊めねえ。」
「へ?」
 ふわふわと甘い香りまで漂ってきそうな気がする。
「見ての通りココはあんまり使ってねえんだ。一応最低でも月一回は人雇って大雑把に部屋の掃除だけはしてるんだが、庭は荒れ放題だしな。だから細かい手入れをしてもらいてえんだよ、」
 電気を点けながら、部屋の中を確かめる。最近掃除を頼んだばかりだったので中は大丈夫そうだ。布団も新しい物に換えられている。窓を開ければ篭っていた空気も流れていった。
「住み込みのバイト、探してたんだろ?」
「…土方さん、」
「薄給でよければの話だけどな。あ、勿論怪我治すのが先だ。」
「あ、ありがとうございます、」
 握った手に力を込めながら、銀時が何度も頭を下げる。目尻に滲んだ涙を指の腹でそっと拭うと、少し恥ずかしそうにしながらまた頭を下げる。
 抱き締めたくなるのを、必死に抑え込んだ。

 見た目はアイツでも、違う。
 此処に居るのは、家を失った、迷子。剥き出しの魂。
 誰も知らない。一人の人間。

 俺だけの、銀時。





二. 迷い子





 冷蔵庫の中には何も入っていないので、その夜は出前を頼んでのんびりと過ごした。屯所に連絡を入れようとして、明日は夜勤だったことに気付く。目を通していない書類が少し溜まっているのが気になったが、急ぐほどのことではない。今日はこのまま此処に泊まることにして、明日の朝銀時と買い物へ行く約束をした。
 腹が一杯になったからか、それとも眠る場所を得て安心したのか、銀時は食器を片付けるなりくうくうと寝息を立て始めた。
 衝撃的な出来事が続いたせいで精神的にも肉体的にも疲労が激しいのだろう。抱き起こして布団へ移動しても目を覚ます様子は無い。頬にかかった髪をそっと払う。
 護ってやりたいと思うのはどうしてだろうか。自分はやはりこの男と以前の万事屋を比べているのだろうか。あの男の顔をしているのに憎たらしさが無いから、こうして手を差し伸べているのだろうか。
 この感情はどちらへ向かって芽生えたものなのだろうか。
 わからない。ひょっとしたらただの同情なのかもしれない。
 だとしたら自分は思っていたよりもずっとおせっかいな人間だったんだな、と他人事のように考えた。
 体を離そうとすると、銀時が俺のシャツの裾をしっかりと握り締めている。沸き上がる淡い想いに結論を出すのは止めて、そっと額に口付けた。


 翌朝、俺のシャツを握り締めていることに気付いた銀時は真っ赤になりながらしどろもどろに言い訳した。それをからかいながら、買い物に出る。生活に必要な日用品を揃え、食料を買い込んで、帰路に着く。料理はできると思うと言った言葉通り、銀時は怪我人とは思えないほど手際良くこなしていた。
 不思議な感覚が体の中を流れていく。
 黙っていれば今にも俺に向かって悪態を吐きそうに見える男が、素直に俺の言葉に耳を傾けている。
 ふと、アイツが最初からこんな風だったら、と考えた。もしそうだったら、穏やかに言葉を交わす程度の間柄にはなっていたかもしれない。少なくても毎回掴み合いの喧嘩はしていなかっただろう。
 このまま記憶が戻らなければ、あんな喧嘩も二度とすることはないのだろうか。寂しい?いや、俺はともかく子供たちは悲しむのだろう。万事屋でおそらく帰りを待っているであろう子供たちのことを考えて、小さく息を吐く。
「土方さん?」
「ん?どうかしたか?」
「…いえ、何でもないです。」
 そんな俺を見ながら銀時が悲しそうに目を伏せたのを、俺は気付くことができなかった。



「明日の昼までには戻る。何かあったら携帯に連絡しろよ、」
 銀時を一人きりにするのは不安だったが、黙っていても時は過ぎてしまう。ぎりぎりまで留まっていたが、これ以上は夜勤に遅れてしまうと上着を羽織った。少しの現金とカードを預けて家を出る。銀時は戸惑いながらそれらを受け取り、玄関までついてきた。
「あ、あの、土方さん、」
「何だ?」
「…いえ、何でも無いです。本当に、いろいろ、ありがとうございます。」
 言いかけた言葉を聞きたかったのに、銀時はすぐに俯いてしまった。勝手にこんなところへ連れて来て、内心では嫌がっているのかもしれない。それでも、もし、今銀時から嫌だと言われても、今更他の誰かに預けるなんて考えられなかった。
「気にすんな。性分だ。」
 くしゃくしゃと髪を掻き混ぜて、そっと頬に触れる。それでも銀時はまだ何か感情を押し殺しているような顔をして俯いていた。ひょっとして何処か具合でも悪いのかと心配になったが、確かめようとする前に胸ポケットに入れていた携帯が鳴り出してしまう。
「悪ィ、もう行くからよ。もし具合悪くなったら病院行けよ、タクシー呼んで構わねえから、」
「…はい、大丈夫です、」
 頷いて漸く笑みを見せる銀時に安心して玄関の扉を閉める。
 それが、二日目の夜だった。


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