On the very edge of the love



「…俺が怖ぇか、」

 ガタガタと窓ガラスが揺れる。嵐が来る。大きなうねりと共に。
 有無を言わせない口調とは逆に、触れる手は酷く優しかった。後ろから回された手は、まるで縋るように俺のシャツを掴んでいる。ふと、初めて会った時のことを思い出した。
 前もそうだった。乱暴な口調、蔑みの言葉。なのに、コイツの腕はいつも同じ様に俺を抱いていた。
 いつも、いつも、何かを探すように。

「俺はテメーが嫌がろうが傷つこうが関係ねえ。テメーを手に入れる為にここにいる。何でかわかるか?」

 渦を巻いて風が通り過ぎていくのがわかる。薄暗い空は今にも泣き出しそうだ。
 後ろから俺を抱く高杉の顔は見えない。朧げなオレンジ色の照明の中、鏡張りの天井に映るのは戸惑う俺の姿だけだ。
 高杉が俺の髪に頬を摺り寄せる。掠める吐息は懐かしい煙草の香りがした。あの人とは違う、煙草の。

「…わかんねーよ、」

 言葉は勝手に口を突いて出た。

「もう、とっくに終わったことじゃねーか。」

 ぽつりと鉛色の空から雫が落ちて、窓を叩く。振り払おうとした腕は封じられ、湿った壁に背を押し付けられる。そのまま荒々しく唇を塞がれた。冷たいと思っていた唇は、あの日最後に触れた時と同じように酷く熱かった。

「…っ、ん、」
「わかんねえか?」

 殴られた時にできた傷が熱を持ってじくじく痛む。
 まるで傷を広げようとするかのように、高杉の舌が何度もそこを往復した。

「…全部、お前が望んでるからだ。」

 次第にうねり出す風の音に掻き消されそうな囁きが、酷く悲しく耳元を擽った。
 ぽつり、ぽつりと落ちてくる水滴が肌を濡らす。
 これ以上何も考えたくなかった。何も感じたくなかった。

 全てを忘れることができたのなら、楽になれるのだろうか。

 俺は忘れたいのだろうか。




7. The waters of forgetfulness




 わかっていたつもりだった。
 乗り越えたつもりだった。

 すべては、所詮「つもり」だったのだと思い知らされただけだった。

 窓ガラスに打ち付ける雨粒に責め立てられるように拳を握る。
 躊躇いが全てを壊した。いや、壊したのではない。それは紛れも無く俺自身の選択に他ならなかった。
 彼でなければダメなのだと結論を出した筈なのに、何故躊躇うのか。お互いの立場か、過去の足枷か。過去を足枷にするのならば余りに卑怯だ。死者を冒涜している。アイツに対して俺が出来るのはその存在を忘れることなく冥福を祈るだけだ。アイツの時は止まった。俺の時は動いている。そんなことはもう何年も前に理解していた。
けれど、彼には伝わらない。俺が臆病なせいだ。

 握った拳を白い壁に打ち付ける。痛みを感じることさえ贅沢だと思う。充分すぎるほどに傷つけてしまった。アイツを幸せにしようとする人間がいるのならば、ソイツに任せたほうがいいのではないか。そんな想いにさえ駆られてしまう。

『……悪い虫がつく前に、僕が貰う。』

 なのにいざその可能性を目の当たりにすれば、それを許せない。

 壁に打ちつけようと振り被った手を止める。
 ギリギリと握る拳から血が滲む。

 言える訳がない。
 堂々と迎えに行けるまで待っていて欲しい、などと。



 次の日、銀時は学校に来なかった。
 空席が目に入った途端、あからさまに安堵する自分を嫌悪しながら出席を取る。大人のほうが子供よりよっぽど卑怯だ。真っ直ぐぶつかることから逃げることばかり上手くなってしまっている。
「オイ、坂田はどうした。休みか?」
「あ、いえ、聞いてないです。」
 志村が落ち着かない様子で、心配そうに返事をする。一方で、寝坊じゃないですか、と暢気な声を上げる者もいた。
 具合でも悪いのだろうか。それとも俺と顔を合わせたくないのだろうか。どちらにしても一人暮らしの身で何かあったら、そう考えて時間割を振り返る。一限目は空いている。様子を見に行ったほうがいいかもしれない。
 HRを終えて数学研究室に戻ると、苦々しい顔をしながら伊東が入り口を塞いでいた。
「何の用だ。」
「僕としては、できれば君とは言葉を交わしたくないんだが、そうもいかないようだ。」
 いつものように向けられる侮蔑の視線。だが、今日はそれに別の色が混じっていた。明らかな焦りを含んだ瞳に、嫌な予感がざわざわと押し迫ってくる。伊東は不快そうに俺を睨み付けた後、右手に握り締めていた携帯電話を差し出した。
「僕が坂田くんに持たせていた携帯だ。昨夜新宿の交番に届けられていた。役所通りの路地に落ちていたそうだ。」
「何、」
「アパートに帰った様子も無い。誰か友人のところへ行った形跡も無い。もちろん、君のところにもね、」
 苛立ちを抑えることもせずに、伊東は苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てた。
「行き場所はわからなくても、君は原因に心当たりがあるだろう?」
「んだと、」
「あの子は滅多に携帯を使わないんだ。それに、失くしたら僕に迷惑がかかるからとバッグの中のファスナーがついたポケットに入れていたんだよ。携帯だけを落とすとは考えにくい。」
 焦りを吐き出そうとしているのか、次第に口調が速まっていく。
 一度沸いた悪い予感は、爪先から身体を侵食するように競り上がってきた。
「…前にも言ったが、あの子に何かあったら僕は君を殺すよ。土方君、」
 冷えた氷が体中に突き刺さる。
「オイ!伊東!!」
「これ以上時間を無駄にしたくないんでね。早く出ないと、」
「出るって、テメーはアイツがどこに居んのかわかってんのか!」
 何の感情も映さない瞳には、俺を含めた今の光景が何色に映っているのだろう。
「…当たれば最悪の想定だよ。」
 もしかしたら、銀時以外に色は付いていないのかもしれない。
「伊東!」
 これ以上言葉を交わすことが無駄だと言わんばかりに、伊東は無言のまま足早に立ち去っていく。
 放たれた言葉を一字一句思い返し、拳を壁に打ち付けた。伊東が先走っているだけならいい。けれど、本当にアイツに何かあったのなら。ぐるぐると巡る想いを消化しきれずに、車のキーを手にして走り出す。行く当てなど何も無い。俺はアイツのことを何も知らない。玄関を飛び出して駐車場へ向かうと、一つの影が目に入った。

「なんだいそんなに慌てて、教師がサボりかい?」

 偶然出会えた最後の可能性に、藁にも縋る思いで視線を返す。理事長は吸っていた煙草を懐から取り出した携帯灰皿に押し込むと、小さく首を傾げたが、俺が発した言葉によって動きを止めた。
「坂田が昨夜からアパートに帰ってないそうです。」
「ああ、伊東先生から聞いたよ。そうかい、アンタがアイツの、か。」
 腕を組んで溜息を吐く姿は、保護者というよりも親という言葉がぴったりだと思った。
「…やっかいなことになってるかもしれないね、」
「心当たりがあるんですか、」
 祈るような気持ちだった。俺は、アイツのことを知ろうともしなかった。
 きっと俺より伊東のほうがアイツのことを知っているだろう。銀時の時折零す何かを諦めたような笑みと、伊東の他者に向ける呆れたような笑み。種類は全く違うのに、何処か似た匂いを感じずにはいられない。苛立ちが増すのは、嫉妬だ。
 自らを落ち着かせるように胸ポケットに手をかけた。指先に当たった煙草はそれだけで吸わなくても日常を感じさせられる。一つ息を吐くと、理事長が苦々しい顔つきで口を開いた。
「あの子のことは、いや、アイツがかぶき町で暮らしてたことはアンタも知ってるんだろう?」
「…ええ、」
 何を言わんとしているのかはわかったつもりでいた。
「アンタも知っての通り、あそこは無法者の集う街だ。女だろうが子供だろうが容赦しない。食いモノにされんのがオチさ。」
 思わず息を飲み込む。胸がざわつくのを意識しないようにまた息を吐いた。
「たかだか15かそこらのガキが生きられる場所じゃないんだよ。腕っぷしの問題じゃない。それなのに聞けばアイツは一人で生きてきたっていうじゃないか。」
 静かに風が巡る。まるで日常から切り取られたような空間のように感じた。理事長が話すことが俺の想像の及ぶ範囲ではないと薄々感じ取っていたからなのかもしれない。
「私はずっとあの街に住んでるからねえ、」
 遠い日を思い出しているのか、理事長はここではない何処かを見つめるようにしながら静かに目を伏せた。
「…独りで、なんて無茶なんだよ、」
 視線の先にある情景を知りたくなくて視線を逸らす。知りたくない答え持っていることに気がついていても、耳を塞ぐことはできなかった。
「目を見りゃ嘘を吐いていないことなんてすぐにわかったよ。…でもね、アイツには悪いけど、一応こっちも身元を保証しようって決心したからには責任ってもんが生まれる。だから最低限だけのことは調べたんだよ。万が一、アイツの親が捜しているとも限らないしね。」

「それで、アイツが言ったことは事実だってわかった。」

 耳を塞いでいれば良かったのだろうか。
 理事長は小さく溜息を吐きながら一旦言葉を区切る。

「…それと、」

「アイツはきっと知らなかったんだろうさ。今もきっと知らないだろうね。」

 少しずつ、目を背けていた事実に無理矢理視点を合わされる。
 これはきっと、罰だ。

「…アイツはずっと、ある男に守られてたんだよ。一人でもあの街で暮らしていけるように、」


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