On the very edge of the love



 初めは、ほんの興味本位だった。

 校内一の問題児。
 彼方此方で暴力沙汰を起こしては停学処分を繰り返し、深夜の繁華街で補導されたことも一度や二度ではない。目障りだった。あんな生徒が堂々と学校生活を送るなんて他の生徒には害悪でしかない。

 真面目な生徒があんな風に適当に生きてもいいのだと模倣し出す可能性も低くない。只でさえ何者にも縛られない、アウトローな存在に憧れを抱く年頃だ。与える負の影響力は計り知れない。彼の存在は悪だ。そう苦々しく思っていた。

 ならば、もう一人の目障りな男とともにこの学校から消してしまえばいい。

 それが彼に近付いた、最初の理由だった。
 彼があの男の事を目で追っているのに気付いた時は何と好都合なことかと思わず口元が吊り上がった。窃盗やカンニングの疑いをかけるよりも、もっと簡単な方法が手に入った、と。
 学校生活の中で世間が最も敏感に眉を顰める問題。教師による未成年の生徒への淫行が知れれば二人ともこの学校にはいられなくなるだろう。それが例え噂だけでも充分な効果を発揮することは想像に難くない。至極分かり易い話だ。

『君が熱心に勉強している数学も看てあげられるよ。』

 鎌をかけるつもりで発した言葉に彼は小さく震えた。それが、最初の誤算だった。
 儚く頼りない、まるで年端もいかない子供のような様子に用意していた罠の出番はまるでなく、すっかり毒気を抜かれてしまった。彼に嘘や策略を巡らす余裕なんて一切無い。ただ、あの男の一挙一動に振り回され、傷付いて涙する。不安定な子供だった。

『先生はスゲーな、』

 それでも、その真っ直ぐな魂は不意に眩い光を持って目の前を過る。
 まるで流星のように瞬いては静かに胸の奥を揺さぶった。

『先生みてぇな人がずっと見ててくれたら、サボれねぇな。後ろめたい気になっちまいそう、』

 誰よりも他人の感情に敏感で、人との縁をとても大事にしていた。時折、酷く寂しそうに微笑みながら。
 自分がどんな表情で言葉を発しているのか、きっと彼は自覚していないのだろう。

みんな先生のこと天才って言ってるけど、努力の人だったんだな。

 そう言って普段だらしなく丸めていた背筋を伸ばして参考書に向き合う姿に、気付けば救われている己が居た。
 そんな筈は無い、と突如生まれた不可解な感情を誤魔化すように彼の裏の顔を探した。手始めに彼が引き起こした暴力事件の裏を一件一件探り、そして再び後悔した。彼はいつも理不尽な目に遭った弱者を守る為に戦っていて、自分の為に喧嘩を起こした事など一度もなかった。深夜の繁華街に居た理由はバイトの掛け持ちで生活費と学費を稼ぐ為。そのせいで授業中寝てしまうことは本末顛倒なので褒められたことではなかったが、彼は何者にも頼らず、たった一人きりで泥塗れになりながら必死に生きていた。手の届く物を全て守って、代わりに傷を受け続けて、ボロボロの姿で足掻き続ける。
 身体の芯から沸き起こる歯痒さに全身が震えた。無理矢理抑え込んでいた激情がうねりを上げて冷静の壁を破ろうとのたうち回る。

 守り続けて、傷付いて。
 ならば、彼自身のことは一体誰が守るというのか。

『ほんとに、してもいーよ。俺、返せる物、何もねーんだ、』

 与えられることに慣れていない、不器用な言葉が暗闇に溶けた。何度そうして自分を切り売りしてきたのだろう。自分には与えられる価値がないから受けた物は必ず返さなければならないという考えを当然の価値観として生きている。

『先生が思ってるような綺麗な人間じゃねぇんだ。』

 綺麗だった。その哀しい光ごと腕の中に抱き締めて、誰にも見えない場所へ隠してしまいたかった。後戻りできない感情に己という存在が乗っ取られている、気付けばそんな錯覚に陥っていた。
 他人へ抱く、初めての感情だった。

 彼が望むなら、幸せになれるなら、と唇を噛み締めて一度はこの身を引いた。
 だか、その結果はどうだ。彼は再び剥き出しの心を深く傷付けられ、糸の切れた凧のように当てを無くして漂っている。嵐に巻き込まれれば簡単に引き裂かれてその姿を失ってしまうだろう。
 これ以上はもう、見ていられなかった。二度と他の人間になど渡す訳にはいかない。

 全てを受け入れる覚悟を持てない愚かな男にも。

 過去の鎖で縛ろうとする卑劣な男にも。




8. Then, cast the worthless emotion into the outer darkness




 燃え上がる炎の中、焼けた岩肌の上を歩いているようだった。
 それなのに合わせた指先は酷く冷えていて、震えがちっとも止まらない。
 ここは現実から逃げた先に現れた、自分が作り出した幻想の中なのだろうか。誰かが名を呼ぶ声がする。誰もいない空間は寂しくて、けれども何故か優しかった。一人は悲しいけれど、それ以上傷つくことは決してない。

 闇雲にただひた走る。
 そのままバラバラに崩れ落ちて、風に溶けてしまいたかった。

「…銀、よかった。」

 薄く曖昧な視界の中、伊東先生が安心したように息を吐くのが見える。

(……え、なんで、)

 目の前の光景が理解できずに混乱する。確か自分は道端ですれ違った男たちに因縁をつけられて、暴行されていたところを高杉に拾われたのではなかったのか。そのまま何処かへ連れ込まれて、朦朧としながら気を失った筈だ。ここはまだ夢の中なのだろうか。それともあの時に現れた高杉が幻だったのだろうか。

「ああ、喋らなくていいよ。辛いだろう?」

 どうやら殴られていたことは夢ではないらしい。視界が妙に狭いのは顔が腫れあがっているせいだった。瞼が重く、口内が酷く熱い。
 白い壁とベッドとカーテン。見慣れない部屋はどこかの病院の個室のようだった。僅かに苦味を感じるのは消毒液のせいだろうか。息を吸う度に胸に激痛が走り、呼吸が自然と浅くなる。視線が定まらずに瞬きを繰り返していると、まるで痛々しい物を見るように傷付いた顔をして伊東先生がシーツの上に投げ出されていた俺の指先に触れた。
「肋骨が二本折れてる。額は四針縫う怪我だ。酷い打撲で内臓も痛めてるかもしれない。熱が下がって検査結果が出るまではここから出さないよ。」
「…んで、せん、せ、が、」
 怪我に響かないようにと躊躇いを纏った手のひらにそっと包まれる。
「警察から連絡が入ったんだよ。君が落とした携帯を僕が受け取りに行ったからね。入院手続きはもう済ませてあるから安心して休むといい。」
「…けど、」
「君が、僕に迷惑をかけていると少しでも思うならなら言う事を聞いてくれないか。怪我が治ったら一発引っ叩かせてもらうよ。」
 眼鏡の奥の瞳が激しい怒りを露わにして俺を射抜く。それでも身体を擦る手のひらは変わらずに優しくて、声を上げて泣いてしまいそうだった。涙が零れないようにと唇を噛み締めると先生の視線が心配そうに揺れる。
「…んせ、」
「どうした、痛むかい?」
「…そこは、グーだろ、先生。」
 重ねられた手をそっと握り返す。冷え切っていた指先にじわじわと分け与えられる熱が苦しい。
 態と軽口を返すと、怒りを湛えていた先生の瞳が僅かに滲んだ。
「…そうだね、痛いだろうから覚悟しておいてくれ。」
「ん、ごめん、」
 俺はこの人を振り回して、傷つけてばかりだ。
 先生はいつも俺の想いを尊重して、自分の感情はひたすらに抑え付けて、静かに見守ってくれていたのに。
「…僕が傍に居るのは嫌かい?」
 静かな問いは独り言のように無機質な部屋に響く。突然の言葉に目を瞠りながら緩やかに首を左右に振ると、先生は再び握った手に力を込めた。
「なら、電話に出なかったのは僕に迷惑をかけたくなかったからだと思っても?」
 眉間に刻まれた皺が緩むのと同時に先生がゆっくりと瞬きする。言葉に詰まった俺の反応を肯定と受け取ったのか、一つ、大きく呼吸が漏れた。僅かに開いた窓の隙間から入り込む風がカーテンを靡かせる。

「君が僕の前から姿を消してしまうことのほうが余程迷惑だよ。」

 優しい口調は子守歌のように淡く弾けては意識の奥底に溶けていく。同時に、その眦から一筋の涙が滑り落ちた。

「ここに着くまでの間、僕がどんな気持ちだったかわかるかい?」

 音も無く、次々と流れ落ちるそれを止めたくて必死に指を伸ばす。

「何よりも自分を呪ったよ、」

 濡れた指先が酷く熱い。

「…僕を、殺さないでくれ、」

 背後から頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。
 こんなにも優しい人を心配させて、傷つけて泣かせて、俺は何をしているんだろう。贅沢は人を駄目にしてしまう。何時しか只そこにある事実を大事に思うことができなくなってしまっていた。何を、求めていたのだろう。妬んで、欲しがるばかりで与えられている物にちっとも気付かなかった。欲しい欲しいと嘆くばかりで、何を与えてあげられたのだろう。

 何も、してあげられなかった。
 この人にも、土方先生にも。

「…せんせい、」

 視界が滲んで輪郭がぼやけていく。ふと、何か蟠りのようなものが溶けていく気がした。

「何だい?」

 溶けて、溢れる。

「…ごめん、」
「うん、」
「ありがと、」
「うん、」
 与えられる温もりはいつも変わらない。けれどそれはこの人が自分の心を削って俺に分け与えてくれているからだ。見返りは要らないと言った。ただ一緒に居るだけでいいと言ってくれた。それがどれほどの決意かなんて知りもせずにわかったようなふりだけをして甘え続けていた。当たり前なんかじゃないのに。
「先生、」
「うん、」
 恋人じゃなくて、家族になりたいと言ってくれた。温かくて、優しくて、決して一人にしないと誓ってくれた。
「ごめん、痛むだろう?後の話は怪我が治ってからにしよう、」
 紡がれる言葉は静かで、優し過ぎて苦しい。喉元で閊えている説明のつかない想いが混ざり合って溺れてしまう。

 なんて我儘を言っていたのだろう。
 何を忘れたがっていたのだろう。
 忘れなくてもいい。そのままでいい。それ以上、何を望む?

 次に学校に行ったら、土方先生にもちゃんと謝ろう。
 子供の癇癪で八つ当たりのように酷いことを言ってしまった。ちゃんと謝って、そしたら。

 そしたら、ちゃんと別れよう。





 もっと早くに気付いていたら。もっと早くに捕まえていれば。

 いくら後悔してもどうしようも無い。
 腫れ上がった顔、頭に巻かれた包帯。見え隠れする体中についた痣が抱き締めたい衝動を押し留める。

(…こんなになって、可哀想に、)

 たかがチンピラに絡まれたくらいでこんな怪我を負うなんて、普段の彼なら赤子の手をひねるように返り討ちにしている筈だ。初めから反撃する気が全く無かったとしか思えない。そして、その原因は、きっと。
 何故、彼ばかりがこれほどまでに傷付かねばならないというのか。止め処無く湧き起こる怒りに身体が震える。
 少しでも熱を分け与えるようにと何度もその肌を擦り続けた。祈りを捧げるように。
「ほら、もう休んで、」
「ん、ありがとな、先生、」
 言葉と同時に触れていた指に僅かな力が込められた。同時に、苦しそうだった呼吸が徐々に治まってくる。少し荒いが規則正しい寝息に変わったのを確認して、握っていた手をそっと外した。額にかかった前髪を優しく払い、起こさないようにと静かに口付ける。これは誓いだ。
 離れ難い気持ちを宥めながらドアへと向かい、後手で音を立てないように扉を閉めた。

 ゆっくりと瞳を閉じる。
 込み上げる獰猛な熱を抑えつけるように、小さく息を吐いた。

 空気の流れが止まるのを察してから、再び瞼を開ける。
 視線の先に待ち受けているものに恐れなど微塵も感じない。

「…さて、」

 守ると決めた。
 例え彼が、それを望んでいなくとも。

 例えそれが、悪魔に魂を売り渡すことになろうとも。

「取引といこうか……高杉君とやら。」

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