On the very edge of the love



「それで逃げ帰ってきたのかい?」
「逃げ帰ってきたっていうか…、」
 言葉にされるとまるで自分が負け犬のような気がしてしまう。別に勝負してるわけじゃねえんだけど。
 歯切れの悪い俺の言葉に伊東先生は何かを含むように笑った。オーブンから流れ出た甘い匂いが部屋の中に漂っている。
「さっさと見切りをつけて僕のとこにきたらどうだい?」
「…いや、つーかその格好で言われても、」
 先生は慣れた手つきで生クリームを泡立てている。
 この人に冗談は通じないらしい。俺がふざけてプレゼントした白いフリルのエプロンが生クリームと同じくらい眩しい。困るかと思って渡したのに、先生は嬉々として受け取ってくれたばかりか、お返しだよと言って俺にピンクのエプロンをくれた。(心なしかレースの量が三割り増しのように見えた。)もしかしたら彼なりの皮肉を交えた仕返しだったのかもしれない。いずれにしても大の男二人が色違いのフリルのエプロンを着てキッチンに並んでる姿は我ながらシュールというか何というか。

「君たちが上手くいこうとそうでなかろうと僕にとっては不愉快そのものだからね。」
 さらりと続けられる言葉に思わず口篭ってしまう。
 やっぱり俺はズルいよな。優しくされるのをいい事にあちこちへと甘えてばかりだ。
「…冗談だよ。そんな顔しないでくれ。」
「先生、」
 伸ばされた指先からは砂糖菓子の甘い香りがする。
「僕は君のことが好きだけど、そういう気はないんだよ。」
「でもよ、俺すげえ卑怯じゃね?」
「そうかな。僕はむしろ君が罪悪感を感じて一緒に居てくれるのを期待してるんだ。そっちの方が卑怯じゃないかい?」
 反論を防ぐようにチョコレートを俺の口に押し込みながら、先生が得意げに笑う。そうやって悪者のフリをする卑怯者なんかいねえよ、と言ってやりたい。口の中に広がるのは溶けるような甘さばかりで切なくなる。
「ここを自分の家だと思って欲しいんだ。養子の件も僕は諦めてないよ。」
「へ?」
 思いがけない言葉に目を見開く。あんぐりと口も開けてしまった。
「そうしたら事によってはあの男が君を貰いに僕に頭を下げにくるんだ。こんな愉快なことは無いね。」
 真面目な口調は返ってどこまで本気なのかわからない。つい甘えてしまいたくなる。他人に対して必ず壁を作る人が、自分に対してはこんなにも温かい。そういえば、学校に住みついた野良猫も伊東先生には懐いていたっけ。動物に対して優しい人なのかもしれない。あれ、俺動物扱い?
「…先生も大概だよな、」
「君に言われるなら嬉しいよ、」
 何を言ったらいいのかわからなくて、つい憎まれ口を叩いても、先生は余裕で受け流す。
 何だか擽ったい。これが大人ってことか。
「今日は泊まっていかないのかい?」
「あー、明日バイト早えから。」
「そうか、なら送っていこう。残りは持っていったらいい。」
 生クリームを添えたシフォンケーキを包みながら、先生が微笑む。
 その姿に安心してしまう自分が嫌になる。やっぱり俺はズルい。




2. Float like a butterfly




「…今何時だと思ってんだ。」

 アパートの階段を上りきったのと同時に聞き慣れた声が上から降ってきた。
 苛立った口調と漂う煙草の匂いに恐る恐る顔を上げる。待っていてくれたのかと思うと、冷や汗を流しながらも鼓動が高鳴っていく。
土方先生は銜えていた煙草を携帯灰皿へ押し込んだ。だが、灰皿の中には随分吸殻が溜まっているらしく、ぎゅうぎゅうと無理矢理な動きに変わっている。
「んだよ、来るなら言ってくれればいいのに。そしたら俺だってもっと早く帰ってきたっつーの。」
「テメーよくそんな口が聞けるな、」
 先生は本気で怒っている様子は無く、腕を組んで呆れたように溜息を繰り返した。
 ホッとして部屋の鍵を開ける。学校以外で会えるのは素直に嬉しい。先生もそう思ってくれているのだろうか。そうだったら、いいのに。
 ドアを開けると後ろから先生が大きく息を吐いたのがわかった。
「…聞き覚えのある車の音だったな。」
「そ、そうか?」
 独り言のように呟かれた言葉に背筋が強張る。どうやら俺が伊東先生のところに居たこともわかっているらしい。へらへらと誤魔化しても先生の表情は「騙されないからな」と宣言しているかのようだった。諦めて靴を脱ぎ、部屋の中に入る。また怒られるのかと中途半端に覚悟をしていると、突然後ろから抱きすくめられた。
「…っんとに、テメーは、」
「先生、」
 広がる、煙草の香り。首筋に先生の唇が当たっている。何か言葉を続ける度に震えた空気が肌に触れる。そのまま項に口付けを繰り返されて、ビクビクと身体が跳ねた。
「テメーは、そんなに嫉妬させてーのか。」
「…っ、別に、そんなワケじゃ、」
 濡れた舌に耳朶を弄られて力が抜けてしまう。手に持っているケーキを落とさないように、持ち手に必死に力を入れた。
「っ、せんせ、」
 シャツを引っ張られ、隙間から先生の手が入り込んでくる。
「…それ、離せよ、」
 耳元で響く低い声と水音に眩暈がする。
 先生はゆっくりと俺の手を開かせて荷物を取り、テーブルの上に載せた。邪魔するものが居なくなったと言わんばかりに口元を吊り上げて、先生が再び口付けてくる。脇腹をそっとなぞられて、擽ったさに身を捩る。
「ちょ、っ、擽ってえ、」
「我慢しろよ、」
 すぐによくなる、といやらしく囁かれて、体の中心に熱が集まる。
 体中を駆け巡る痺れに耐え切れず、へなへなとその場に座り込んだ。力の抜けた体を引かれて先生の膝の上に乗せられる。後ろから抱かれたままシャツのボタンを外されて、肌寒さにふるりと震えた。
 先生の指が俺の胸元を探っているのが全部見えてしまう。色付いた部分をくにくにと弄られ、そこが次第に芯を持って立ち上がっていくのを目の当たりにしてしまい、羞恥に震える。
「…っふ、ぅ、」
「男でも気持ちいいか?」
 からかうような口調と共に熱を持った吐息を首筋に吹きかけられる。カアッと目の前が赤く染まるのがわかった。
 男なのに、こんなになって。俺は。
「っ、ん、んん、」
 恥ずかしさに身を捩ると、太股の辺りに先生が熱を押し付けてくる。
 あまりの熱さに思わず腰を引いてしまう。戸惑いと、恥ずかしさと、嬉しさと。様々な感情が綯い交ぜになって、状況を理解することができない。ぼうっと惚けた頭で断片的な感情が浮かんでは消えていく。

 
あれ、このまますんのかな。欲しがってもらえるのは嬉しいけど、何か急過ぎるような。
 そもそも何でこんな流れになったんだっけ。

 お互い好きだと伝えてから、何度もキスしたり、じゃれ合ったりということはあった。けれど、お互いの部屋に行って泊まることがあっても、先生はそれ以上は一切しようとしなかった。俺は少し、肩透かしをくらったような寂しさも感じたけれど、それも仕方ないかと思った。俺は生徒で、未成年で、自分で責任がとれる年じゃない。何かあれば先生に迷惑がかかってしまう。

『あの男は頭が固いからね。君の卒業を待ってるんじゃないか?』

 何かの拍子に愚痴を零してしまった時、伊東先生はそう言っていた。だから俺もそうポジティブに考えるようにした。先生は俺と長く付き合いたいと思ってくれてるんだと、思いたかった。
「…っぁ、や、」
 俺が勝手にそう思っていただけなのだろうか。
 何でこんなに突然?
「銀時、っ、」
「っ、ぅ、ぅ、や…だ、」
 俺の両足の間に後ろから膝を入れて、先生が俺の足を無理矢理開かせる。弄られ続けた乳首は赤く腫れ上がってシャツが擦れるだけで痛い。ズボンのファスナーを下ろそうと先生の手がそこに触れた瞬間、思わず逃れようと手足をバタつかせた。
「上だけでこんなにして、恥ずかしいか?」
「ぅ、やめ、ろ、って、」
 違う、こんなの望んでいない。
 俺は、もっと。ちゃんと。
「…銀時?」
 戸惑いがちな声が急に上から降ってくる。響く声から熱っぽさが消えた。俺を押さえつけていた手が緩んでいく。恐る恐る目を開けると、先生が青褪めた顔で心配そうに俺を見つめていた。
「悪ィ、銀時、大丈夫か、」
「……え、?」
「すまねえ。こんなつもりじゃ…本当にすまねえ、」
「なに、」
 何度も何度も頭を下げながら、先生が俺の頬にそっと手を伸ばす。指の腹で優しく頬を撫でられて、漸く俺は自分が涙を流していることに気が付いた。それも量が半端じゃない。目尻からも目頭からも溢れだした涙で顔中がぐしゃぐしゃだった。子供のような情けない泣き顔に慌てて顔を拭おうとするが、手が上手く動かない。ガタガタと全身が震えている。
「…あ、俺、何で、」
「悪かった。テメーがあんまり妬かせるから、からかうだけのつもりだったんだ、」
 言葉を続けようとしても唇が震えるだけだ。背を向けて立ち去ろうとする先生を早く引き留めたいのに。
「せん、」
「悪ィ、頭冷やすからよ。今日は帰る、」
「待っ、」
 伸ばした手をやんわりと振り払って、先生は玄関のドアを開けた。行ってしまう。
「待てよ!先生!」
 声を張り上げても、先生は一度も振り向かずにドアを閉めた。
 震える体を叱咤して何とか立ち上がり、後を追う。階段を降りて、大通りに面した交差点へと走るが、先生の姿は人混みに紛れてもう見えなくなっていた。

「…何でだよ、」

 どうしていつも、勝手に自分で結論付けて終わらせてしまうのだろう。
 どうしていつも、自分ばかりを責めるのだろう。俺のせいか。

 どうして、いつも、俺を一人にするのだろう。

 通りに立ち尽くす俺を、行き交う人々が邪魔そうにしながら避けていく。
 空っぽになる。自分がただの抜け殻になってしまったようだ。

「あ、すいません、」

 すれ違った人を避け損ねて、勢い良く肩がぶつかってしまう。いつまで突っ立っているんだと我に帰り、相手に向かって軽く頭を下げた。
「いえ、大丈夫です。」
 相手の男は大して気にした素振りも見せず、目深にしていた帽子の唾を整えている。影で顔はよく見えない。
「それより、コレ、落としましたよ、」
 続けられた意外な言葉に顔を上げると、男は一冊の古びた文庫本を俺の手に押し付けた。
「え、何コレ、」
「それじゃあ、」
「へ?ちょっと待て、俺んじゃねえ、」

「…いや、テメーのだ。」

 変化した声色に目を見開く。
 記憶を無理矢理呼び起こそうとするような音。

 その声は、間違い無く、

 まるで縫い止められたかのように、一切の動きを奪われる。
 渡された文庫本が手から滑り落ちた。時が止まったかのような錯覚を覚える。
 夢から目覚めようと目の前の光景を探るが、二、三度瞬きしているうちに、男の姿は見えなくなった。

(…そんな、筈、ねえ、)

 人混みを縫うように鋭い風が抜ける。
 足元に落ちた本のページがパラパラと捲れて行く。

『またな、銀時、』

 風に身を任せていたページが動きを止める。
 風を抑える重い栞。そこに描かれている蝶が妖しく舞い始めた。


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