On the very edge of the love
蒼褪めた月が空にぼんやりと浮かんでいる。
風景を暈かすように、ゆっくりと紫煙が立ち上っていった。
右手首にはくっきりと掴まれた痕が残っている。
懐かしいような、不思議な痛みだった。
過去の記憶が身体の芯を焦がすように蘇る。
俺にとってその感情は戸惑いに他ならないものだった。そうでなければならなかった。
『またな、銀時、』
どうして、今更。
手首の痕が消えるようにと上からきつく握り締める。自分一人の溜息がやけに部屋の中に響く。
孤独が、不安を煽っていく。傍に居て欲しいと願う時に限って、会えない。
孤独は次第に恐怖へと変わっていった。
1. On the very edge of the love
上履きの踵を潰して、ペタペタと音を立てながら廊下を歩く。
通いなれている筈なのに、日に日に緊張が増してしまう。
柄じゃないと自分を嘲ってみても、鼓動が緩まることは無い。
嗅ぎ慣れた煙草の匂いが鼻先に届いた瞬間、頭の中も惚けてしまう。かといって、動揺していることを悟られてしまうのも悔しかった。たっぷりと息を吐いてから、ワザと緩慢な動作で部屋のドアをノックする。入れ、と低い声が響いた。
「失礼しまーす。うわ、ちったあ換気しろよ、」
「気になるんならテメーでしやがれ、」
「うわ、最悪。とっとと校内禁煙にならねえかな、」
部屋に篭った煙を散らそうと窓を開けて、空気を入れ替える。つい先日職員室が禁煙になってしまったことで、先生の機嫌は頗る悪い。他人の目から逃げるようにこうして数学研究室で煙草を吸うことが多くなった。
(いや、元々吸いまくってたけど。)
目に付いた下敷きを手に取り、からかうように扇いでやるとピクピクと頬が引き攣る。
こう予想通りの反応を返して貰えるとからかい甲斐があるってもんだ。
「忙しい?」
「ああ。どっかの誰かが進路相談すっぽかしまくってるせいでな。」
「だから来てやってんじゃん。」
「だからじゃねーよ、何で上から目線なんだよ。テメーのことだろうが!」
とっとと座れと一喝されて、仕方なくソファに腰掛ける。棚からいくつかのファイルを取り出す後姿を見ながらそっと息を吐く。
じっと視線を外さない俺に気付いて、先生は少し居心地悪そうに咳払いをした。
「何だ、」
「んー、いや、教師なんだなあと思ってよ、」
「何言ってんだ今更、」
「だって教師らしくねーんだもん、」
「んだとコラ、」
込み上げてくるせつなさを、憎まれ口で誤魔化す。
生徒と教師。隣に居ても、埋めようの無い距離が果てしなく続いている。それはきっと、俺が卒業しても、一生縮められないのだろう。そんな気がした。俺がこのままずっと先生のことを好きでいても、先生が俺を好きでいてくれても、変わらない。
「…銀時?」
「ん、何でもねえよ。」
心配そうな声色にハッとして我に帰る。慌ててその場を取り繕っても既に遅かった。
先生が銜えていた煙草をテーブルの上の灰皿に押し付ける。音も無く、ゆっくりと煙が消えていく。そうしてまだ煙草の匂いの残る指先が、そっと近付いてきて俺の頬を撫でた。ぎくりと身体が強張る。向けられる視線はもう教師のものではない。魂の奥まで見透かされてしまいそうな、鋭い視線。漆黒の瞳に自分の姿が映る。それだけで全ての動きが奪われる。
何て無様なんだと自らに言い聞かせたところで無駄だ。
「せんせ、」
唇に押し当てられる柔らかな感触。返事を待たずに押し入ってくる、熱い舌。濡れた音が体中に反響する。舌を痺れさせるような煙草の苦さ。それが舌を深く絡め合っているうちに甘さを帯びてくることを俺はもう知っている。
「…銀時、」
ぞくりと、腰が震えた。
「っ、ん、先生、」
息苦しさに先生の背を叩くと、名残惜しげに唇が離れていく。教室にいる時とは別人のような甘さを含んだ声が、耳元で囁かれた。
「…進路相談、しねえとな、」
「…っ、この、卑怯モン、」
悔しくて堪らない。こんな時も大人の余裕を見せられているような気がする。腹立たしさに舌打ちすると、先生はまた余裕顔で笑った。畜生。
「この前も言ったが、進学する気はねえのか。」
「とてもじゃねえけど後4年も勉強する気にはなんねーよ。」
「就きたい職業は?」
「…あー、特には。まあそん時考えるわ。」
「今がその時だろうが。ったく、しょうがねえな。」
いい加減な返答もある程度予測していたのか、先生はそれほど怒った様子も無い。しょうがねえ奴だと繰り返して、俺の頭を軽く叩く。
「あれ、思ったより怒んねーの。」
「言っても無駄だろうが。」
そうあっさり引き下がられると張り合いが無い。そんなこと考えていると、先生は溜息を吐きながら再び俺へ視線を向けた。
「まあ、テメーは何だかんだ言って器用だからな。どっかしら就職先はあんだろ。決まらなかったら理事長が性根叩き直す為に自分とこで働かせるって言ってんぞ。ありがてえ話じゃねえか。」
「げ、マジでか。」
人使いの荒さを思い出して戦慄する。
何考えてんだあのババア。コレは少し真面目に就職活動したほうがいいかもしれない。
「それと、」
うんうんと唸っていると、先生は何気無く言葉を続けた。
「それと、俺んとこに来る気はねーか。」
窓から入り込んだ緩やかな風が部屋を巡っている。
「…は?」
思わず『何処に?』と聞き返してしまいそうになった。
先生は落ち着かない様子で立ち上がり、窓辺へと歩き出す。
「いや、何でもねえ。こっちの話だ。」
聞き返されたことが恥ずかしかったのか、耳朶が真っ赤に染まっている。
言われた言葉をもう一度思い返し、赤い耳朶と照らし合わせてから漸く何を言われたのか理解した。途端につられるようにして自分の顔に血が集まっていく。
(…な、何言っちまってんのこの人。)
いきなり熱い。頬が熱くて堪らない。
(どうすっか。『何でもねえ』って言ってんだから、俺も聞かなかったことにした方がいいか?いやでもそれもワザとらしいし、)
「なに百面相してんだ。」
いつの間に感情を切り替えたのか、先生は呆れを滲ませた視線を俺に向けてくる。
それでも俺は未だに動揺したままだ。
「な、なあ、俺、」
落ち着かない素振りの俺を見て、先生も気まずそうに自分の頬を掻いている。
「あー、いずれちゃんと話すから気にすんな。どの道今は無理だろ、」
「まあ、そりゃ、」
今は無理。そうだわかってる。俺は、生徒だ。当然のように浮かんでくる想いが、じわりと影を落とす。不安を振り払おうと、できるだけ明るく声を弾ませた。
「そうだよな〜、誰かと暮らす、なんて言ったら俺、伊東先生に泣かれるもんよ、」
「……、」
ぴきり、と何も無い筈の空間に亀裂が入ったのがわかった。
しまった。俺失敗したか?
「……んだと、コラァ、」
鬼人とやらが存在するのならきっとこんな声に違いない。
地を震わすような低い音が聞こえないのに部屋の中を満たしている。
「テメーまだあの野郎の言うこと聞いてやがんのかァ…?」
「い、いや別にそんなワケじゃ、」
怒りで髪の毛逆立てられるじゃないのかと思うほどに、先生の背後には黒いオーラが漂っている。
しまった。コレは拙い。こんなんで俺が伊東先生のマンションに通ってると知れたらどうなることか。いや、後から発覚するよりは自分で言った方がいいのか?
「い、いやー、その、たまに飯食わせてもらってて、」
「偶にだァ?」
「え、えーと週2、3くらい、」
「それは偶にって言わねえんだよ、」
(ひぃぃぃ!)
静かな怒りほど恐ろしいものは無い。こういう時の回避法は何か。ぐるぐると頭の中で色々な手段をシュミレーションしてみるが、どれをとっても怒りを煽ってしまうような気がする。
「…い、」
「い?」
「いいだろうが別に!やましいことなんてねえんだから!」
意を決してそう叫ぶと同時に脱兎のごとく走り出す。
選んだ選択肢はそう、逆ギレだ。埋められない年の差を嘆いているのに、こんな時だけ利用する。
我ながら卑怯だと思う。先生なら許してくれると、甘えているのだ。
(…でも、しょうがねえじゃねえか、)
ふう、と息を吐きながらゆっくりと瞬きをする。
燃えるようなオレンジ色の夕日が目の奥に焼き付けられているようだ。
(…だって、怖ェんだよ、)
わからない。先生は優しいのに。時々、言いようの無い恐怖に襲われる。好きなのに、どうして怖いと感じてしまうのだろう。
それとも、好きだから怖いのだろうか。よくわからない。
『…銀時、』
名を呼ぶ声は、あんなに甘く、優しいのに。
(…先生、)
夜へと墜ちていく空の片隅で、月が静かに翳っていく。