深海のフォボス 2



 それからも、銀時は眠り続けることが増えていった。

 とはいっても、土方は四六時中傍に居るわけではない。むしろ、会えるのはごく限られた時間だ。夜中や早朝に会いに行くことも多かったので、初めのうちはさほど気にしていなかった。
 だが暫くした頃、銀時は依頼があるからという理由で頻繁に電話だけを寄越すようになった。顔だけでも見れればという土方の言葉にも銀時は「お前も忙しいんだから」と嗜めるように言って断る。頑なとも言える態度に、もしや心変わりしたのではないかと小さな不信感が芽生え始めた時、眼鏡の少年が屯所を訪れた。
「副長、新八くんが、」
 少し戸惑っているような様子で山崎が部屋の扉を叩く。
 庭の木は大分葉を落とし、疎らに残った葉も乾燥して風に靡いていた。乾燥した冷たい空気が隙間から入り込む。色濃くなった冬の風景に、土方は小さく息を吐いた。
「すいません、お忙しいのに、」
「いや、構わねえよ、」
 眼鏡の少年はすまなさそうに頭を下げながら土方の部屋に足を踏み入れる。思わず後に続く人物が居るのではないかと視線を向けるが、どうやら少年は一人で訪れたようだった。座布団を用意すると、山崎がテーブルの上に湯飲みを置いた。
「じゃあ、ごゆっくり、」
「あ、ありがとうございます。」
 襖が閉まるとゆっくり沈黙が降りてくる。土方は火のついていた煙草を灰皿へと押し付けた。
「いいです。僕に構わないで吸って下さい。」
「いや、丁度喉が渇いてな、」
「あ、ありがとうございます。」
 はにかむような笑顔が照れ臭い。だが、明るい表情の裏に隠されたものを感じ取って、土方は息を呑んだ。
「…今日は一人か、」
「はい、」
「どうした、」
 ざわめく胸の内に気付かないフリをしながら言葉を繋ぐ。
 暫くして少年の口から飛び出した予想通りの言葉に、土方は天を仰いだ。
「…その、銀さんのことで、」
「何だ、」

「土方さんは、銀さんと付き合ってるんですよね?」

 付き合っていることを、知らせるような素振りは一切していない。
 それでも、僅かに残る痕跡で子供たちが気付く可能性があることも予想していた。銀時も「アイツら、気付いてると思う、」とぽつりと呟いたことがあった。知っていて気付かないフリをしてくれているんだと、嬉しそうに、そして少し寂しそうに笑っていたことを覚えている。
 だが、少年は今、それを暴く必要があると判断したのだ。何らかの事態が発生した為に。
「…いいんです。それは前から何となく気付いてました。僕らは二人のことにどうこう言うつもりはありません。今までも、これからも言うつもりはありませんでした。けど、」
「…何かあったのか。」
 否定せずに土方が静かに問い返すと、少年は膝の上で握り締めていた拳を震わせながら頷いた。
「ここんとこ、おかしいと思いませんか?」
 そう問われて首を傾げる。強いて言うならばあの時のことくらいだろう。
「寝過ぎ、か?」
 まさかそんなことではないだろうと思いながら発した土方の言葉に、少年の瞳が、泣き出しそうに歪む。
「…ずっと寝てるんです。初めはただ怠けてるんだと思って放っておいたんですけど、最近、みるみる内に痩せてって、」
「んだと、」
 掴んだ湯飲みの熱さが肌へと染み込む。最後に会ったのはいつだっただろうか。記憶を辿ると、万事屋の玄関先でのんびりと手を振る姿が蘇る。カレンダーに目を向けると、とうに二ヶ月が過ぎようとしていた。それほど顔を見ていなかった事実に愕然とする。
「会ってないんですか?」
「ああ、電話なら三日前にしたが…お前ら依頼で忙しかったんだろ?」
 銀時から具合のことなど何も聞いていない。わざわざ体の不調を訴える男ではないのは承知している。それでも生じる戸惑いを抑えながら、土方は確認の意味も込めて問い返した。
「…え、」
 希望を打ち砕くように、少年が眉を顰める。
「銀さんが、そう言ったんですか?」
「違うのか?」
 目の前の風景が、少しずつ光を失っていく。混乱しているのは少年も同じようだった。
「依頼なんて、無い、です。銀さん、ずっと寝てるんです、」
「なに、」
「じゃあ、何で…僕てっきり、土方さんが振り込んでくれてるんだとばっかり…、」
 独り言のように呟かれた声はそれでも土方の耳へしっかり届いた。
「どういうことだ、」
「通帳に定期的にお金が振り込まれてて、僕、土方さんが銀さんの体のこと知っててそうしてくれたんだと、」
「知らねえ。俺は、何も聞いてねえ、」
 何も知らない。何一つ、銀時の口から聞かされてはいない。語られる全ての事実が寝耳に水だ。
 銀時は嘘を吐いていた。何の為に。心配させまいと思って?だとしたら金の理由は?
 次々と沸き上がる疑問に対する答えを自ら導き出すことはできない。冷静な思考を失いながら、それでも土方は最優先すべきことだけは理解していた。
「病院は行ったのか?」
 一番優先すべきことは、銀時の身体だ。
「…行ってるみたいなんですけど、」
「みたい?」
「連れて行こうとしたら、もう行ってきた、何でもないって。僕らに薬の袋も見せてくれて、」
 鼓動が速まる。不安が焦りを生む。唇を噛んで誤魔化そうとしても止められない。
「おかしいんです。薬の袋に載ってた病院をネットで調べたけど、存在しないんです。問い詰めようとしてもすぐ寝ちゃうし、最近は食べても後でこっそり吐いてるみたいで、」
 例えようのない後悔が津波のように土方を襲う。
 何故異変に気付かなかったのだろう。知らずに身体が震えてしまう。己への、怒りで。

 言葉を選べないまま放心していると、胸ポケットの携帯が音を立てた。
 弾かれたように意識を取り戻して携帯の画面を開く。タイミングがいいのか悪いのか、液晶画面は相手が銀時であることを示していた。
「…もしもし?」
「あ、土方?今へーきか?」
 いつもと変わらない、軽い声が耳に届く。同時に沸いた感情は一体何だろうか。
 心配、疑問、失望、虚しさ。全てに当て嵌るような、どれとも違うような気がする。
「…嘘、吐いてたのか。」
 思わず口から飛び出した言葉は酷く落ち着いたものだった。電話越しに、銀時が息を呑む気配を感じ取る。やり取りで電話の相手が銀時だと悟ったのだろう。目の前の少年が動きを強張らせながら顔を上げた。

 痛いほどの沈黙が時間と共に流れていく。
 一体どれくらいの間そうしていたのだろうか。先に折れたのは銀時だった。
「…新八に、会った?」
 今日の天気を尋ねるような、気安い調子だった。
「ああ、今此処に来てるぜ。」
「そっか。ったく心配すんなって言ったのによ、」
「銀時、」
「何?」
「今から行くから待ってろ。」
 漠然とした不安が膨れ上がる。土方の悪い予感を証明するかのように、銀時は笑い声さえ滲ませた。
「嫌だ。会いたくねえ。」
「んだと?」

「お前とは、もう会う気はねえ。」

 軽い口調の中に表れる、はっきりとした拒絶の意。
「どういういことだ。」
「ったく、察しろよ。お前とは別れるって言ってんだけど。」
「んなこと急に言われてはいそーですかって納得できるとでも思ってんのか?」
「急じゃねえよ。鈍いな。会いたくねえからずっと電話で先手打ってたんじゃねーか。」
 ぷつりと何かが頭の中で切れる音がした。
「ふざけんな!いいか?そこ動くんじゃねーぞ!穏便にカタ付けようと思ってんならな!」
 感情のままに怒鳴りつけ、一方的に電話を切る。
「オイ眼鏡!来い!」
「は、はい!」
 納得できる筈が無い。乱暴にハンドルを切りながら、土方は己の唇を噛み締めた。
 一体何が起こっている。身体の具合。実在しない病院。定期的な振込み。顔を見せない理由。
 第一心変わりならば何故今頃になって言い出すのか。ぶつける場の無い苛立ちを抱えながら車のスピードを上げる。万事屋の看板が見えると同時に転がるように車を降りた。案の定、スクーターが無い。
「クソッ、」
 堪らず下のスナックの戸を乱暴に叩いてしまう。
「何だい、まだ準備中だよ。」
「あの野郎はどこ行きやがった!?」
「銀時かい?アンタらが来る少し前にスクーターの音してたけど、」
「どっち行った?」
「大通りの方かねぇ、」
 逃げられると思っているのか。他でもない、この俺から。
「眼鏡、俺は奴を追うからもしアイツが帰ってきたら連絡入れろ。一歩も外に出すんじゃねえぞ、」
「は、はい!わかりました!」
 凄みを効かせて再び車に飛び乗る。少しずつ、陽が落ちようとしていた。
 悪いことを考えないように、車の窓を開ける。冷たい空気に曝されて、思考が少しずつ落ち着いてくる。落ち着かせようと、自らに言い聞かせた。
(…どうして、隠す、)
 具合が悪いのにこの寒空をスクーターで走れば余計に悪化するかもしれないのに。
 そうまでして逃げたい理由は何なのか。心変わりしたのなら、面と向かって言えばいい。

(電話くらいで俺が引き下がるとでも思ってんのか?甘いんだよ。)

 誰にも渡すものかと念じながらアクセルを踏む。
 江戸中を走り続けて、前を走る銀色のスクーターを見つけた瞬間、自分の執念が勝ったのだと土方は拳を握り締めた。

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