深海のフォボス 1


 終わりの無い夢の中で生きている。

 悪夢なのかそうでないのかを考えるのにも疲れてしまった。
 ただただ、果てしない時間だけが目の前を過ぎていく。

 一人取り残された俺は進むことも、戻ることもできやしない。これも自分自身が選んだ道なのだと幾ら言い聞かせても、分離された精神と身体が納得する筈も無かった。理不尽な、行き場の無い憤りと絶望が視界を暗くする。闇の中で生きることも慣れていた筈なのに。

 愚かだと嘲笑する声が何処からともなく響いているような気がした。




 始まりは、ほんの僅かな異変だった。

 土方がその異変に気付いたのは空気が澄んだ秋の日のことだった。
 木枯らしに近い、冷たい風が部屋の中を巡る。小さな行燈に火を灯しただけの部屋は薄暗く、夜目に慣れていないフリをしながら目の前の身体に悪戯っぽく唇を落とした。
「…擽ってえ、」
「しょうがねえだろ、見えねえんだから、」
「嘘吐けぇ、」
 首を竦めるようにして銀時が笑う。虫の声が漏れる吐息を掻き消す。顔中に口付けを落としていると、銀時の目がゆっくりと気持ち良さそうに細められていく。髪を撫でる銀時の手から力が抜けていくのを感じて、土方は軽く肌に歯を立てた。
「おい、寝るなよ、」
「…んー、寝てねえ、」
 寝てないと言い返している間も銀時はうとうとと夢の淵にいるようだ。土方は一つ溜息を吐いてから、くるりと跳ねた毛先を指に絡めた。
「てめー、この前もそう言いながら寝ちまったじゃねえか。」
「…ん、そ、だっけ、?」
 恨みがましそうな土方の言葉に、銀時は目を擦りながら答える。どうやら寝まいと努力はしているらしい。
「…悪ィ、でもオメー気持ちいいんだもん、」
「そういう意味で気持ち良くしてるつもりはねえんだけどな。」
「ん、ごめ、」
 素直に謝る姿に毒気を抜かれて土方は押し黙った。まるで自分が我儘を言っているように感じてしまう。
 二人きりで会える時間は限られている。だからどうしてもこうして会えた時に夢中で求めてしまうのだ。省みると、思い出すのは余裕の無い自分の姿ばかりだった。肌を重ねることでしか確かめられないなんて、もうそんな時期は過ぎ去った筈なのに。
「…土方?」
「ん、いや、何でもねえ。寝ていいぜ、」
 反省の意味も込めて、土方は殊更優しく銀時の髪を撫でた。
 少しすまなさそうな表情をしてから、銀時は静かに目を閉じる。

 そう、偶にはこんな風に過ごす時間があってもいい。
 けれど、不意に湧き上がった心配が土方に不安を覚えさせた。
「…最近寝てねえのか?」
  ぽつりと吐き出した言葉に、銀時は薄目を開きながら呟いた。
「いや、昼間もすげえ、寝てんだけど、眠くて、」
「どっか具合でも悪ィのか?」
「…んん、へーき、」
 すう、と音を立てるように、言葉の途中で銀時は眠りに落ちてしまう。
 土方は力の抜けた身体をそっと抱き直して腕の中に閉じ込める。
 またか、と胸の奥に小さな影が落ちるのを感じていた。
 こういうことは初めてではない。一週間前に会った時も同じだった。銀時は終始眠そうな顔をしていて、その時はあろうことかパフェを突きながら眠ってしまったのだ。依頼が入ったと言っていたから疲れていたんだろう。そう思ってあまり気にしなかったのだが、こう続くと少し心配になる。ただ怠けているだけなのか、それにしては胸に巣食った影が消えない。何より、こういう時の自分の悪い予感はいつも当たる。
 (病院連れてった方がいいか…?)
 そうは思っても銀時がそう簡単に言うことを聞いてくれるとは到底思えない。只でさえ「糖分を控えろと口煩く言われる」という理由でこの男は医者を嫌っているのだ。
(考えすぎか、眠いくらいで医者にかからなきゃならねえんなら世の中病人だらけじゃねえか。)
 額にかかった前髪を払って口付ける。柔らかな、太陽の匂いがした。
(…ちゃんと規則正しい生活させるようにアイツらに言っとくか、)
 万事屋の子供たちを思い浮かべながら、小さく息を吐く。
「ったく、どっちが子供なんだか、」
 呆れたように呟いて抱き締める腕に力を込める。

 思えばこの時、問い質すべきだったのだ。

 後からいくら嘆いたところで過ぎ去った時間は決して元には戻らない。
 幸せに身を埋めて見逃していた。小さな、悲鳴を。


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