アンテロスの涙 1


 目覚める時は、いつも一人だった。

 当たり前であることを寂しいと感じるようになったのは、温もりを知ってしまったからだ。
 今までは何とも思っていなかった出来事に痛みを覚える。熱を知らなければ、寒いとすら思わない。冷たい布団の中で無意識に温もりを探してしまう。それは自分が弱くなってしまったということなのかもしれない。
 だが、同時にそれはとても幸せなことのように思えた。甘く歯痒い時間はいつまで経っても慣れない。

『銀時、』

 土方はいつも、銀時を起こす気が無いのにそう声を掛ける。
 銀時もそれを理解しているからあえて瞼を開けない。寝たふりを続けながら心の中だけで「もう朝なんだな」と思う。そうして土方が銀時の瞼にそっと唇を落とすのを待っている。
 暫くすると、土方は触れるだけのキスをし、銀時の髪を一撫でしてから部屋を後にする。
 それが二人で過ごした日の朝の日課だった。

(土方、)

 ああでも、今日は起きてみようか。

 どうしてだろう。
 体が冷えて堪らないんだ。

 お前が、傍に居る筈なのに。




「おい、起きろ。高杉様がお呼びだ。」

 後頭部を突く固い感触に起き上がる。じゃらり、と腕に繋がれた鎖が鳴った。
 石畳の冷たさが体の芯まで伝わっている。全身が凍りついたような痛みを抱えながら、銀時は足を踏み出した。今朝は霜が降りているのか、石畳の上に敷かれた茣蓙は湿っている。裸足の爪先は霜焼けで腫れ上がっていた。そのまま歩いても、感覚が無い。
(…よく死なねえな、俺、)
 見張りらしき男に鎖を引かれながら一歩一歩進む。意識が朦朧として何も考えることができない。
 ああ、夢だったのか。こっちが現実だったのか、とそれだけだ。

「早くしろ。」
「早くしろったってオメーよォ、こんなもんジャラジャラくっつけられてんのに無茶言うんじゃねえよ。」
「五月蝿い。口答えするな。」
「はいはい、わかりましたよ、」
 銀時が飄々と返せば、男は舌打ちをして扉を開けた。どうやら今は夜らしい。牢の暗さに慣れた目には行燈の光さえも眩しすぎた。銀時が思わず眉を顰めると、窓辺に寄り掛かっていた男がゆっくりと振り返る。煙管から漏れる煙に吐気がした。
「…遅ェ、」
 煙の匂いが鼻に届くのと同時に、高杉が煙管で煙草盆を打ち鳴らす。銀時を連れてきた男が目に見えて竦みあがった。
「も、申し訳御座いません!」
「下がってろ、」
「はっ!」
 恐怖のあまり歯をカチカチと鳴らしながら、男が逃げるように退出する。銀時は閉まるドアを一瞥してから、高杉へと向き直った。体が熱い。脳がマグマになってしまったかのようだ。寺の鐘の中に閉じ込められて外から殴打されているような衝撃が絶えず頭の中に響いている。氷漬けにされているような悪寒も治まらない。体の不調を抑えきれずにふらつく銀時を高杉はただじっと見つめている。さも愉快だと言わんばかりに。
「ざまあねえなァ、白夜叉も所詮人間か、」
「…態々嫌味言う為だけに呼びつけたのかよ。この暇人が。」
 嫌味に嫌味を返しても立っているのがやっとの状態では何の迫力も無い。むしろ哀れにすら見えるだろう。
 悔しさに唇を噛み、だが直ぐに銀時は顔を上げた。確かめておかなければならないことがある。
「…あの子はちゃんと帰したんだろうな?」
「ああ?」
「条件だった筈だ。」
 銀時の言葉に、高杉が目を細めた。
「クッ、めでてぇ野郎だな。恋人より赤の他人の心配か?」
「うるせえな。アイツは俺が心配するだけ無駄なんだよ。」
「だからめでてぇって言ってんだよ。」
 煙管の火種が、盆の中に落ちる。
 高杉の口元がゆっくりと弧を描いた。

「女になってまで、騙されてることに気付かねえんだもんなァ、」

 耳鳴りが治まらない。


『あの、コレについて調べて頂きたいのですが、』
 どこか悲壮感を漂わせて、その女が万事屋を訪れたのは秋も半ばを過ぎた頃だった。見覚えのあるチラシを銀時が覗き込むと、女は両手で顔を覆いながらワアッと泣き声を上げた。
「コレに応募するって出て行ったまま、兄が帰って来ないんです!」
 どうしたものかと頭を巡らせながら、銀時は自分の懐に手を入れる。だが差し出そうとしたハンカチがくしゃくしゃに丸まっていることに気付いて眉を顰めた。一度自ら蹴った話がこんな風に蒸し返されるとは。
「依頼料は言い値で構いません、お願いします、」
(…そう言われると返って言い辛いんですけど、)
 女の言葉に内心やれやれと呟いて溜息を吐く。
「…保障はできねえぜ?」
「構いません。」
 面倒なことになりそうだ。直感だった。


「テメーは騙されてたんだよ。」
 憐れみ交じりの嘲笑が男の口から発せられる。
「あの女もこっちの手のモンだ。兄なんて最初から居やしねえ。」
「んだと、」
「全て、テメーを引き込む為だ。」

 人目から逃れるようにひっそりと立てられた研究所に足を踏み入れ、治験モニターになった。渡された薬は酷く眠くなる他は特に変わった作用も無く、銀時は微睡むだけの日々が続いた。
 だが薬を飲み続けて二週間が経ったころ、三日おきに姿を現していた女が万事屋に訪れなくなった。どうかしたのかと首を傾げるのと同時に、事務所の電話が鳴った。思えばこの時に疑うべきだったのだ。
 電話の主は研究所の所長で、不法侵入した女を捕らえてあると銀時に告げた。彼女の身内でなく、何故銀時に知らせたのか。不自然さを銀時が口にする前に、男は静かに笑った。
「まあ、窃盗目的ではなかったようですし、今回は見逃すつもりです。」
 柔らかな声が響く。
「では坂田さん、明日は検査日なのでよろしくお願いしますね。」
 静かな、脅迫だった。
 笑う男の背後に現れた影を見て、銀時は愕然とする。
 視線の先には、銀時を舐め回すような目つきをしながら、高杉が煙管を燻らせていた。

 やがて変化の兆しを見せ始めた銀時の体は、モルモットのように調べ尽くされた。
 話が違うと喚いてもどうすることもできない。渡された薬は麻薬と同様の作用があるのか、服用を止めると激しい痛みが全身を襲う。体を襲う、眩暈と吐気。痛みから逃れる為にまた薬を服用する。負の循環を、止めることができなかった。

『……俺に、護られるしか、ねえだろうがよ、』

(…土方、)

 あの時の言葉がどんなに悔しかったことか。そして、どんなに嬉しかったことか。
 抱き締める熱い腕に、銀時がどれほどの安堵を覚えたか。土方は知らない。

 だから、怖かった。あのまま寄り掛かってしまえば、もう二度と立ち上がれない。
 触れた先から想いが溢れ出してどうしようもなくなってしまう。そんな関係を望んではいない。ましてや土方が真選組よりも自分を優先することなどあってはならない。お互い決して依存することは有り得ないと、そう断言できるからこそ始まった関係なのに。


「テメー、一体何がしてぇんだ、」
 今にも崩れ落ちそうになる体をどうにか支えながら、銀時は高杉を睨み付ける。
 行燈のぼやけた灯りに目が眩む。気を失えば、負けだとわかっていた。
「…さあなァ、」
 不気味な笑い声は裏が見えない。
「そうだな…強いて言えばテメーの名前か。」
「名前?」
「鬼兵隊に白夜叉が加わった。そう流れるだけでどれだけ人が動くと思う?」
「けっ、バカじゃねえの。こんなナリした奴が使えるかよ、」
 今の自分を戦力にしたいのなら筋違いも甚だしい。からかっているつもりなのだろうか。込み上げる怒りで拳が震えた。
「わかってねぇなァ、誰が戦場に出すっつった。テメーは飾りだ。『白夜叉が此処に居る』その事実だけありゃいいんだよ。それだけで幕府も動かざるを得なくなる。」
「んなわけ、」
 ねえだろうが。
 そう言いかけた銀時の言葉は嘲笑に呑み込まれた。
「ああ、もう幕府は動いてんな。見ろ、」
 楽しげな声と共に、数枚の写真が銀時の足元にばら撒かれる。拾えと命ぜられるまま、銀時はその内の一枚を手に取った。
 雪化粧に覆われた白い日本庭園を踏み躙る、紅。
 腐敗臭すら漂ってくるのではないかと思わせる程の、醜悪な死体が写っていた。
「やってくれたぜ。手ェかけた庭が台無しだ。」
「…んだ、コレ、」
「若ぇのが真選組にとっ捕まったんだが、この様だ。アジトの一つに投げ込まれてやがった。まあ、アジトの方はコイツが捕まった時点で引き払ってたがな。」
 高杉の言葉に焦りは微塵も感じられない。むしろ、事態を楽しんでいる。
 唾を飲み込もうとして、銀時は自分の喉が酷く乾いていることに気がついた。喉が、引き攣れる。写真の男は生きていた時の風貌が想像できなかった。剥がされた爪。削ぎ落とされた耳と鼻。抉られた瞳。もはや男女の判別すらつき辛い。
「酷ぇよなァ、人間がすることじゃねえよ。」
 態と言い聞かせるように、高杉はその言葉を選ぶ。
「鬼がやったとしか思えねえよなァ?」

 鬼の所業。

 浮かぶのは、
 銀時が知るのは、只一人。

「なあ、銀時、」

 真選組に棲む、優しい鬼。

「テメーは自ら俺の所に来た。この意味がわかるか?」


『…二度と、俺から離れようとすんじゃねえ、』

『銀時、』

『……頼む、』


「奴はさぞかし恨んでるだろうよ、」

 体の震えに耐え切れず、ついに膝から崩れ落ちる。

「テメーはアイツを裏切った。そういうことだ。」

 大事な物が闇に塗り潰されていく。

「同情するぜ、」

 温かな、ぬくもりが消える。

「今の奴は、俺と同じだ。」

 お前が、俺を、狂わせた。

 重なる声。
 銀時の脳内に響いたのは、土方の声だった。


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