星と、あなたと、大きな手に甘えて。
しとしとと降り注ぐ雨の中、朱色の橋の真ん中に見覚えのある傘が寂しげに佇んでいる。
足元が濡れるのも構わずに、細い両足を投げ出している様は行き場を無くした子供のようにも見えた。
「オイ何してんだ、ガキはとっとと家帰れ、」
もう日はとうに暮れている。厚い雨雲のせいで辺りはさらに闇を増していた。
声をかけると子供は視線を上げ、俺だとわかると忌々しいと言わんばかりに舌打ちする。全くこういうとこばっかり似ちまってどうしようもねぇな。子供とはいえ仮にも女子だというのに、品の無い仕草に思わず眉をしかめてしまう。
「ニコチンコには関係ないネ。」
「そうもいかねえ。こっちも一応役人なんでな。帰らねえなら迎え呼ぶぞ、」
何でそこまでしようとしているのかと一瞬疑問が過ぎったが、敢えてそれは無視することにする。治安維持のための青少年保護も一応職務の内に入るだろう。
携帯電話を取り出そうと胸元のポケットを探ると、少女は弾かれたように顔を上げた。
しまった。何で万事屋の番号を知っているのかと聞かれたら、どう答えるべきだろうか。
「帰るヨ!帰るから銀ちゃんには連絡しないで!」
俺の危惧を余所に出てきた言葉は意外なもので、どこか様子もあたふたと落ち着かない。
「喧嘩でもしたのか。」
確信を持って問い掛けるとやはり図星だったらしく、目を背けて僅かに俯く。
「…マヨラーには、関係ないネ、」
負け惜しみのように呟かれた言葉は先程よりも数段覇気が無い。
どうしようかと考えを巡らせていると、盛大な腹の音が辺りに鳴り響いた。疑問に思って自分の腹に手を当ててみるが、音はどうやら隣から聞こえてくるようだ。(しかもなかなか鳴り止まない。)
「ったく…アイツはこんなガキに何も食わせてやってねえのかよ、」
呆れたように呟くと、目の前の手が小さな拳を作ってブルブルと震えている。
腹が鳴ってしまった恥かしさからくるものかと思ったが、どうやら違うらしい。
どちらかというと、
「違う!」
まるで、激しい怒りのような。
「違うヨ!銀ちゃんは…ちゃんと、」
膨れ上がった感情を表すように、みるみる内に眦が赤く染まって、溜まった雫がウルウルと音を立てるように盛り上がる。どうやら地雷を踏んでしまったらしい。
「…銀ちゃん、お金無い時いつも自分の分我慢してるネ。外で食べてきたからいらないって嘘ついて…昨日も、」
俺の前で涙を流すことだけはしたくないのだろう。
悔しそうに何度も息を飲み込みながら、潤んだ瞳を乾かすように小刻みに頭を振る。
「それで喧嘩したのか、」
「…みんなの問題なのに、関係ないみたいに言うからヨ。」
子供は聡い。ただ、与えるだけではダメなのだ。
大事にされているからこそ感じる疎外感を、アイツはわかっているのだろうか。
やれやれと溜息を吐くと同時に、何だか胸の中にもやもやとした感情が浮かんできた。すると同時に少女の口から爆弾が投下される。
「昨日も…夜中トイレ行ったら銀ちゃん、こっそり定春のエサ食べてたアル。」
「はあぁぁ?」
告げられたあまりの事実に絶句する。なんてことしてやがんだ。あの馬鹿、頭おかしいんじゃねえのか。アホだバカだ天パだとは思っていたが、まさかここまでポンコツだとは恐れ入った。イカれてやがる。
つーか何なんだよアイツ。いくら何でもそこまで困ってんなら俺に言えばいいじゃねえか。普段は顔を見ればパフェ奢れだの何だのと言うくせに、肝心な時はちっとも頼ろうとしない。言ったところできっと「お前には関係ないから」と答えるのだろう。人のテリトリーには我が物顔で侵入して勝手に手を貸してくるくせに、他人には決してそれを許そうとしないのだ。大馬鹿野郎が。
怒りの導火線が瞬時に着火する。次に面付き合わせたら鼻っ柱ぶん殴ってやろうと心に決めて、ひとまず目の前の少女に向き直った。視線を落とすと、彼女はまだ唇を噛み締めて悔しそうに息を殺している。
「銀ちゃんのことバカにしたら許さないアル、」
「…そうだな。」
素直に頷くと、拍子抜けしたように目の前の表情から力が抜けた。
俺も結局コイツと一緒か。
「悪かった。詫び入れるからちょっと付き合え。」
少女はぽかんと口を開けたまま首を傾げて、少し固まった後、静かに頬を弛ませた。
「知らない人から物もらったら銀ちゃんに叱られるヨ。」
「…そういう台詞は涎を拭いてから言えよ。」
両手一杯に荷物を抱えて商店街のアーケードを抜ける。いつの間にか雨はもう上がっていた。
晴れた夜空には三つ仲良く並んだ星が光っている。
目を細めると、視界の先に万事屋の看板と白い影がぼんやりと見えた。心配して探し回っていたのだろう。見つからないうちにと、両手の荷物を差し出して足を止める。
「ほら、一人で持てんだろ。」
「…寄ってかないアルか?」
「仕事なんでな。俺が買ったって言うなよ。」
「何で?」
「知ったら受け取らねえだろうからな。」
ぬかるんだ足元を探るようにして振り返ると、勢い良く袖を引かれてその場に躓いてしまいそうになる。
「何だ、早く帰れ。心配してんぞ、」
「…トッシー、ありがとう。」
気恥ずかしいのか、少しはにかむようにして少女が笑った。
子供らしくあどけない、意外な表情に目を見張ると、歌うように柔らかな口調が続けられる。
「今度、ご飯食べに来るヨロシ。銀ちゃん料理上手ネ。あ、材料は買ってこいヨ。」
まるで家族の自慢をするように、誇らしげに。
「神楽!ったくどこほっつき歩ってんだ!心配すんだろーが…って何その荷物!?」
「買ってもらったヨ。」
「もらったヨ、じゃねーよ。知らない人についてくなって言ってんだろーが!何かされてねーだろーな?一緒に行ってやっから返してきなさい!」
「大丈夫、知ってる人ネ。」
荷物を半分差し出して、空いた手で大きな手を握り締める。あったかい。
「…銀ちゃん、マミーみたい。」
「ああ?野郎に向かって何言ってんだ、」
「マミー、さっきはごめんね。」
「だからマミーじゃねえって、つーか誰に買ってもらったのコレ!」
優しく握り返される指の強さが嬉しくて、さらりと謝罪の言葉を受け入れてくれるのが嬉しくて、知らずに口元が弛んでいく。本当はごめんと一緒にありがとうも言いたかったけど、今更のような気もして口に出せない。繋いだ手をブンブンと振り回していると、気恥ずかしいのも手伝って、逆に少し意地悪をしたくなってしまった。
「銀ちゃんのおまわりさんに買ってもらったアル。」
「…は?」
「銀ちゃんの、おまわりさん。」
一瞬訳がわからないと眉を寄せたので、銀ちゃんの、の部分を強調してもう一度同じ言葉を繰り返す。
意味がわかったのか、見開かれた瞳と目が合うとみるみるうちに顔が赤く染まっていった。
子供だからって気付いてないと思ったら、大間違いネ。
『神楽ちゃん、ママには内緒だからね。』
手を引かれて歩いた優しい思い出。
温かい手のひらに導かれて懐かしい記憶が蘇ってくる。
喧嘩した後の秘密の仲直り。こっそり好きな物を買ってくれた父。
「トッシーはパピーみたいヨ。」
面食らったような顔をして、冷や汗を流し続けるズルい大人を尻目に走り出す。
握った手はそのまま、やわらかい灯りがついた家へと真っ直ぐに。
見上げた夜空に三つ並んだ星。
それを見守るように、少し離れた場所に小さな星が瞬いていた。
その光はどこまでも優しく、そして温かい。