銃口と春の罠 1



 春の嵐が花弁を散らしていく。

 雨交じりの溜息は、良く似合っていた。
 緩やかに水面を揺らしていく影。目の前に燻る、鮮やかな紫煙。



【SIDE:H】



 仲は悪いほうだ。というかかなり悪い。犬猿の仲という言葉が当て嵌まるだろう。
 それでも、心のどこかで認めていた。認めてしまうことが悔しくて、湧き上がってくるむず痒い感情からどうしても逃れたくて必死に言い訳を探していた。
 嫌う事。それが距離を作ろうとしているからだなんて気付きもせずに、自らに思い込ませた。
 距離を作らなければ危険だということをどこか本能のようなものが察知していたのかもしれない。

 こんなにも簡単に脆く崩れるものだなんて知りもせずに。



「ここで何してる、」

 湿気の篭った空気が肌に纏わり付く。カビ臭さが漂ってきそうな、嫌な雰囲気だった。
 煙草の匂いがしたから、つい手を伸ばしてしまったのかもしれない。声をかけてしまったのは予定外だった。

 地面は乾くことなく常にジメジメとして濡れている。一般人は到底寄り付かない場所だった。
 俺がここに来たのは捜査の為で、勿論追っていたのはコイツではない。そのせいで当初のターゲットが俺の存在に気付き、足早に去っていくのが視界の隅に映る。捜査が振り出しに戻ってしまったとわかっても、掴み上げた手を離すことはできなかった。

「…オイ、いいのかよ、」
 眉間に皺を寄せて怪訝な表情を浮かべながら、目の前の男が呆れたように言葉を吐いた。
 それまで雑然としていた界隈は警察の姿に気付き、人々はまるで蜘蛛の子を散らしたように逃げていく。そういう場所だった。
 一方で、脇の路地ではまだ騒ぎに気付かずに、下卑た笑みを浮かべた男が年若い男に向かって「いくらだ?」と指を立てていた。そういう場所だった。
「なあ、痛ぇんだけど。離してくんない?」
 ネオンの光が銀色の髪を下品なピンク色に染めていた。視線を落とせば、男がいつもの格好ではなく単衣だけをだらしなく見につけているのが目に入る。口元からは煙草の煙が緩慢に吐き出されていた。頭の中が妙に冴えていくのを感じながら、吸っているところを始めて見るな、と静かに記憶を反芻する。
 映し出される姿は、全て夜の色に呼応しているかのようだ。肌蹴た白い胸元は周囲の飢えた男達を誘うように開いていて、男の瞳はいつもの死んだ魚のような様子ではなく、色を含んで怪しげに細められていた。
 まるで、自分の目の前に現れた人間を値踏みするかのように。

「…てめえ、」

 ここにいる理由は問うまでもない。そのことに気付いて、唇を噛み締める。何故かそれ以上言葉は出てこなかった。
 蔑みの言葉を浴びせることも、無視して立ち去ることも敵わず、ただ眼を見開く。同時に、腹のそこから沸々と何か得体の知れない感情が湧き上がってくるのを感じていた。正体なんて知らない。マグマのように熱い、吐気にも似た、何かが。
 俺の思考を読み取ったのだろうか。奴は溜息交じりに微笑を浮かべて身体の力を抜き、静かに口元を歪めた。

「あーあ、これじゃ商売になりゃしねえ、」

 吐き出される言葉が推測を真実に変える。
 指先がゆっくりと円を描き、煙草の煙がそれを追った。

「…ってんのか、」

 振り絞るようにしなければ声が出ないことに一番驚いたのは俺だった。

「え?何?」
「…売ってんのか、」

 冷え切った言葉を投げつけると、男は再び煙草の煙をくゆらせて薄く唇を開く。

「あ、もしかして俺しょっぴかれる感じ?」

 慣れている筈の煙が目に痛い。男の声は雨音に流されて、耳に届く前に消えてしまう。

「それとも何、」

 面白そうに吊り上げられた唇から、目が離せなかった。

「…興味あんの?副長さん、」

 俺ァ別にテメーが相手でも構わねえぜ?
 男の唇がゆっくりといつもと異なる音を紡ぐ。耳鳴りと共に頭の中に響く声に、何かが焼き切れるような音がした。性質の悪い冗談はいつまで経っても終わりを見せない。ひやりと身体の中を伝っていく温度の低い感情が腹の中まで埋め尽くしていった。

 ああ、なんだ。
 俺、ショック受けてやがる。何でだ。

 理由もわからないままぼんやりそんなことを考えていると、男が先ほどまで咥えていた煙草を俺の唇に押し当ててきた。
 苦い。良く知った苦味に思考を奪われる。くらくらと揺れ始める頭を抑えようとこめかみに手を当てると、男の指がそっと上から重ねられた。驚きと、触れた手の冷たさに思わずその手を払い除ける。

「どうする?」
 叩かれた手をじっと見つめてから、男が小首を傾げて再び俺の顔を覗き込んできた。ふざけているのかとその腹を探ろうとしても、貼り付けられた無表情な仮面からは何の感情も読み取ることはできない。そうしている間にも、頭の揺れが酷くなって何も考えられなくなる。

 何やってんだ。
 ふざけんじゃねえ。
 誰がテメーなんか。

 後に続ける罵声もしっかり考えてから、思い切り息を吸った。
 怒鳴りつけて、軽蔑して、もう二度と関わらなければいいだけの話だ。

 からかうなら他の奴にしろ。
 俺だってヒマじゃねえんだ。
 これ以上ヘタなこと言うと本当にしょっぴくぞ。


「…いくらだ、」

 ふざけるな。何言い出してんだ。
 ふざけるな。信じらんねえ。
 ふざけるな。早く否定しろ。

「お、マジ?」
 パアッと花が咲くように、男の顔が綻ぶ。
「…ああ、買ってやるよ、」
 花を踏み躙るように、冷酷な感情が降ってくる。
「助かるわ。そーだな、三…、いや、一でいいや。」
 出血大サービスな、と立てた人差し指を振りながら上機嫌で笑い続ける。嬉しそうな笑顔には見覚えがあった。

 以前気まぐれで甘味を奢ってやった時に見せたのと同じ、穏やかな笑顔。
 こんな時にもそんな風に笑うなんて知らなかった。

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