タイムリミットSOS!



1日は24時間。
1週間は168時間。
168時間は10080分。
10080分は604800秒。

意地悪な魔法使いがパステルピンクの空を飛ぶ。




【第1錠】 ストロベリー・ミルク




 遠くで自分の名前を呼ばれたような気がする。
 そして俺はようやく起きる為には瞼を持ち上げることが必要である、ということを思い出した。
 恐る恐る細目を開けると、隙間から痛いくらいに凶暴な日の光に襲われる。慌ててもう一度目を閉じてから、光を馴染ませるように小さく瞬きを繰り返した。
 どうやらお天道様は空のてっぺんに昇っている時間らしい。それでも起きるのが面倒臭い。
 俺は殊更朝(いつも大抵昼だが)起きる前に布団の中でうだうだするのが好きなんだ。そんなことを考えながらシーツの感触を楽しもうと手を伸ばした瞬間、傍にある違和感に残念ながら俺の意識は覚醒した。

(……え、)

 寝返りを打とうとした体が思うように動かない。
 恐る恐る手を伸ばしてみると腹が何かによって、いや、何者かの腕によってがっちりと固定されている。しかも項から肩の辺りに何かもさもさとした感触がある。定春だと思いたかったが、明らかに違う毛だ。定春はもっとふわふわしてるし、第一人間の腕である筈がない。ぎくりと身を強張らせながら、落ち着け落ち着けと自らに言い聞かせる。平静を保とうと思わず胸に手を押し当てたが、それは逆効果だった。

「ぎ、ぎゃあああああ!!!」

 叫び声を上げた拍子に、固く閉ざしたままだった瞳をついに開けてしまった。
 卒倒しなかったのが不思議だ。何故ならあろうことか俺の胸にはある筈の無い物体がたわわに揺れていた。しかも括れたウエストには逞しい男の腕が巻きついている。

「どえええええ!!!」
「……ん、」

 何コレ何コレ何コレ。
 人が聞いてんだから誰か答えろォォ!!
 やっちまった。やっちまった。やっぱ夢でも幽霊の仕業でもなかった。俺が!やっちまった!
 そんな俺の叫びに答えてくれる人間なんてこの場には一人しか居ない。
 けれどその一人に説明を求めるなんて愚かな行為は断固避けるべきである。パニックに陥っていたにも関わらず、俺の頭はこの時幸いにも最良の判断をした。俺の悲鳴に身動ぎ、今にも目を覚まそうとする男の気配を瞬時に察する。それからの俺の動きは我ながら見事だった。

「……うるせー…な、」

 もぞもぞと起き上がろうとする男の頭に手刀を食らわしてその意識を奪う。すると、きゅっと小動物のような声を上げてから男は再びシーツの波に沈んだ。

(…あ、危ねぇ、)

 男の黒髪がサラリと揺れたのをきっかけに、脳内に映像が勝手に再生される。ふわりと香った煙草の匂いがスイッチになったみたいに映写機が回りだした。次第に鮮明になっていく映像に顔がみるみる内に青褪めていく。今の自分を鏡で見てたら面白いかもなあ、なんて他人事として逃避するしかできなかった。

 叫びたい。思う存分のた打ち回りたい。醜態晒した挙句なんかとんでもないことも言ってしまった。
 だがのんびりしている余裕は無い。
 コイツが目を覚ましてしまえば俺は一巻の終わりだ。

 すっかり忘れていたもう一つの事実を思い出し、キョロキョロと部屋の中を見回す。
 壁に嵌め込まれた時計が示す時間は午後1時30分。ぎょっと目を見開いた。

(やべぇ!後1時間しかねえ!)

 弾かれるようにベッドを飛び出し、床に散らばった自分の着物を掻き集める。何だか体がベタベタしてるし、できるならシャワーを浴びたい。でもそんな時間は無い。
 襦袢を着けながら苛立ちが増していく。女物の着物は何だってこう面倒臭いんだ。舌打ちしてしまいそうになるのを耐えて(下手な音を出して目覚められたら敵わない)、ひたすら手を動かすことに集中した。

 適当な着付けを終えると、音を立てないように窓の外を確認する。
 ブラインドの隙間から見た景色は何処か見覚えのあるもので、すぐにここがかぶき町であることを理解した。駕籠屋でも使えば万事屋まで10分もかからないだろう。とりあえず最悪の事態は避けられそうだと胸を撫で下ろす。そのまま視線を落とすと、未だ意識を失ったままの男が目に入った。
 そうだ。もう最悪の事態は経験してしまったのだ。

(…あー何だってこんなことによぉ、)

(男とやっちまうなんざ、)

(最悪だァァァ!!!しかもよりによってコイツかよォォォ!!!)

 泣きたい気持ちになるのも当然ってもんだろう。

「…だからコレは慰謝料ってことでひとつ、」

 ブツブツと言い訳を零し、男の物と思しき財布から紙幣を2、3枚失敬する。コイツが騙されて金取られたと俺を恨んでくれればそれに越したことはない。
 溜息を吐くと余計惨めになるので、できるだけ軽い足取りで部屋を出た。



「万事屋銀ちゃんまで。急いでね。」
「はいよっ!」
 まるで魚屋のような威勢のいい掛声を上げながら駕籠屋の運転手が笑う。
 鬱々とした気分を吹き飛ばしてくれそうな雰囲気に少しだけ癒されたような気になりながら、袖に両腕をつっ込むようにして手を自分の前で組んだ。ふと、プラスチックに何かが当たる小さな音がして、思わず袖の中を探る。すると、指先が固いピルケースに辿りついた。

 手のひらで踊る、いちごミルクと同じ色をした錠剤。

「薬かい?飴みてぇな色だなぁ。」
「あ、まあ。」
 興味深いのか運転手はミラー越しに覗き込んできた。
「どっか悪いのかい?そんな細っこい体して大丈夫か?」
「いや、大丈夫ですけど、」
「ちゃんと食っとかないと将来子供生む時大変だよ、お姉さん、」
 ピキリと空間にヒビが入ったことに全く気付かないまま、運転手はさらに言葉を続ける。自分の女房も細くて大変だったとか食が細い割には甘い物ばっかり食いやがって、とか話は次第に惚気話へと変化してしまった。

『少しは控えろよ、』

 しかも甘味の話なんて持ち出すものだから、あの男の言動まで思い出してしまって気分は最悪だ。
 せっかく無かったことにしようと思っていたのに。ほんと最悪だ。何だ、アレか。世の中は全て俺の敵か。
 万事屋への道程がこんなに長く感じたことはない。たった10分足らずの時間が拷問に等しい。
 こんな攻撃もあるのか。ただ座って車に揺られていただけなのに俺の精神は色んな意味でズタボロだ。

「まいどー!」
 運転手の声が何処か遠くに聞こえる。
 振り返る間も惜しんで俺は万事屋の階段を駆け上がり、甲子園のラストバッターも真っ青な勢いで和室にスライディングした。
「あーもう!!」
 着物を畳に叩きつけるように脱ぎ捨て、全裸のまま風呂場へ向かう。
「つーか俺は男だっつーの!!何流されてんだド畜生!!!」
 だが、俺の嘆きとは裏腹に風呂場の鏡には随分とナイスバディな女が映ってる。それだけでも号泣もんなのにあろうことか体のあちこちに鬱血したような赤い痕が残っていた。
「ぎゃああああ!!!あのっバカ!!」
 あんまり情けなくなって、シャワーを頭から浴びながらちょっと泣いた。
 股の間が何だかヌルヌルしていて顔から火が噴き出しそうになった。

「…うう、」

 だが彼を責めるのは酷だとわかっている。
 あの男も被害者なのだ。

 そう自分に言い聞かせながら風呂場から出ると、時間は丁度午後2時30分を差していた。時間だ。
 そう思うのと同時に激しい動悸に襲われる。立っていられない程の眩暈に膝を突き、割れんばかりに跳ね上がる心臓を押さえ込むように胸元で拳を作る。せっかくシャワーを浴びたのに額から次々と噴き出す冷や汗のせいでまたベトベトだ。縋る物を探そうと宙に彷徨わせた腕が筋張り、徐々に筋肉が戻っていく。
「い、ってー…、」
 ぐらぐらと揺れる視界がおさまるまで待ってから立ち上がれば、俺の目線は先ほどよりも高い位置、いや、元の位置に戻っていた。
「ったく、勘弁しろよ。」
 散らかった和室にはあのピルケースも一緒に放り投げてあった。
 中身はあと3錠。印字された「24hours」の文字。

「…どうしたもんかね。」

 そう、あの男。
 土方十四郎もまた被害者である。

 彼は、『彼女』が俺であることを知らないのだから。


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