ニュクスの眠り 1



 病室のドアの隙間から視線を外し、新八はそっと胸を撫で下ろす。
 暖かな春の香りが建物に染み付いた消毒液の匂いを少しずつ消してくれるような気がした。

「…新八?何してるアルか?」
 まるで己の気配を消そうとするかのように来た道を戻る新八を見つけて、後から来た神楽が怪訝そうな声を出した。急に声を掛けられたにも関わらず、新八は動じることなく己の人差し指を唇の前に翳す。
「お邪魔みたいだから出直そう?」
 珍しく悪戯っ子のような表情を見せる新八に神楽は自分の胸が高揚していくのを感じていた。聞かずとも、それが良い知らせであることを悟る。体がウズウズするのを堪えながら、思わず新八の手を取って走り出した。
「コラ!廊下は走らない !」
 この病院内で鬼婦長と呼ばれていそうなナースの怒りを背に浴びたが、構わず走り続けた。これくらいは大目に見て欲しい。本来ならばここが病院であることすら忘れて力の限り叫びたい気分なのだから。
「ちょ、神楽ちゃん待って!速すぎだって!」
 スピードを制されても関係ない。
 それはついてこれない新八が悪いんだと結論付けて足を進める。

 トッシーが起きた。
 銀ちゃんのところに帰ってきた。
 やっと、やっときてくれた。

 走り続けていないと涙が零れてしまいそうだった。
 もう誰も苦しまずにすむんだと嬉しくて堪らなかった。

 そう、思っていたのに。




 動き出した時の流れに呼応してカーテンが靡く。
 かさついた唇がゆっくりと肌を辿る感触に銀時は震えた。命を吹き込まれるかのように触れた場所が熱を持つ。独りの寒さを消そうと背を抱く腕に力が篭る。

「…銀時、」

 名前を呼ばれる度に、呼ぶ度に、己の存在を示す輪郭がはっきりとしてくるような気がした。何か言おうと開いた唇は震えるばかりでちっとも音を発しない。知らず知らずの間に視界が滲んで呼吸が浅くなる。
 せめて名前を呼びたい。そう願うのに口から漏れるのは情けない嗚咽ばかりだ。
 なんて弱くなってしまったんだろう。怖くて、怖くて仕方ない。以前は何とも思っていなかったことが恐ろ しくて堪らなくなる。苦しい。この温もりを失うことへの恐れが、こんなにも。

「ひじかた、」

 独りで生きてきた筈なのに、もう独りでは歩けない。
 懐かしい低音が耳元を擽る。土方が呼吸をしている。生きている。自分を抱き締めている。何でもない奇跡が箍を外していく。溢れ出す感情を飲み込むように口付けられて、もう何も見えなくなった。
「…体、大丈夫か?」
 くしゃりと髪を掻き回す手に身を任せながら、銀時は土方が発した言葉にふと笑みを漏らした。
「その台詞、そのままバットで打ち返すぜ。」
 人の心配する前に自分の心配をしろ、と呟けば今度は土方がホッと息を漏らす。
「俺はへーき、」
「そうか。」
 頬を撫でる指の優しさが懐かしい。
「随分経っちまってるみてぇだな。」
「…ん。でも、他の奴らも、大丈夫だから、」
「ああ、だろうな。」
 静かに、春の風が吹く。やわらかな残像が瞼の裏に浮かんでは消えていく。
 何処か遠い夢のような現実の記憶。夢でなかったことの証明は自分自身の体だ。丸みを帯びたこの体と付き合うことにも今は慣れつつある。土方の視線が己の体に向けられていることに気付いて、銀時は小さく自嘲気味に笑った。

 夢であればよかったのだろうか。夢であれば、お互い知らずに済んだ。
 見っとも無い程の弱さ、薄汚れた猜疑心、狂気に満ちた執着と独占欲。

 何も、知らないまま。

「…銀時、」
「ん、」

 知ってしまって尚、お互いを求めている。
 愛だとか恋だとかそんな綺麗な言葉では表せない。

 存在を確かめるように土方の肌を辿る。
 対になった腹の傷跡に唇を寄せながら、銀時は甘く震えた。




「本当か!そりゃよかった!」

 豪快に笑う近藤につられるようにして新八も破顔する。まるで太陽のような人だなあ、と思いながら眩しそうに目を細めた。本人には決して言わないが、ストーカーでさえなければ姉を幸せにしてくれるんじゃないかとも思う。絶対に、言わないけれど。
「退院したらお祝いしないとな!」
「そうですね。土方さん、これから忙しくなりそうですし。」
 土方が居ないとフォローできる人がいないから本当に参っている。
 疲れたようにそう話していた山崎の姿を思い出しながら、新八が呟く。
「実はそうでもねぇんだ。銀時が随分手伝ってくれてたからな。」
「え?」
 意外な言葉に勢い良く顔を上げる。隣で酢昆布を齧っていた神楽も弾かれたように振り向いた。
「銀ちゃんが?」
「ああ。せめて依頼ってことにしたかったんだが、受け取ってくれなくて困ってんだ。お前らも困ったら何でも言ってくれよ。トシの身内は俺の身内同然なんだからな!」
「じゃあ酢昆布一年分寄越すヨロシ。」
「おーいいぞ〜!」
「ちょ、神楽ちゃん!」
 遠慮の無い神楽を制しながら、病院への道を三人でゆっくり歩く。もうそろそろ行っても大丈夫かな。まだイチャついてたらどうしよう。そんな風に少しハラハラしながらしながらも、足取りは軽い。
「後はアイツの体が元に戻れば安心だな。」
 検査結果を受けて「元に戻れるかもしれない」と言っていた銀時の姿を思い出す。
 本当にそうなれば、何も心配いらないだろう。けれど、ふと考えてしまう。このまま銀さんが女性のままだったら、二人は堂々と寄り添うことだってできるのではないだろうかと。男同士と後ろ指さされることもないのでは、と。
 二人がその選択肢を選ばないとわかっているからこそそう思った。来る筈がない未来だとわかっているからそう思っていた。

 この白いドアを開けるまでは。


「まだイチャついてたら半殺しにしてやるネ。」

 冗談交じりの言葉とノックの音が響く。

「おう、トシ!具合はどうだ!」
 温かく室内を照らしていた太陽が、流れてきた厚い雲に覆われる。
 冷えた空気が、 不安を波立たせるように部屋を巡った。真っ白な空間を。


「…近藤さん、医者呼んでくれ、」

 時計の針が歪に曲がる。
 目の前の光景を信じたくなくて、新八は固く目を瞑った。

 もう何も心配いらないと、そう胸を撫でおろしたばかりなのに。
 見たくない。土方の腕の中で、銀時が蒼白い顔をしながら気を失っている姿など。

inserted by FC2 system