覆水は海へ帰る



 何でそんな風に呼ぶんだ。

 苛立った様子を隠す素振りすら見せずに、男は繰り返しカツカツと刀の鍔を鳴らした。
 そんなことを聞かれたところで返答のしようもない。その場限りのノリだけで呼んだ名前に意味などある筈も無いからだ。かといって、そう素直に答えるのも癪に障る。ギャグに説明を求められることほど脱力することは無い。

 そう、思わぬ嘘が口をついて出たのはそんな思考が原因だった。
 意味なんて一切無い。ちょっとしたイタズラ心だった。

『からかうと面白いことになりやすぜ、』

 見た目よりも情に厚い、良く言えばそうとも取れる彼の部下の囁きが不意に脳内に蘇っただけだった。どんな反応をするだろう。そう思ったら楽しくなってきて、気付いたらスラスラと口が勝手に言葉を紡いだ。ちょっとからかってやりたかった。困らせてやりたかった。それだけだった。
「多串くん、」
「だから誰が多串だ!いい加減にしろテメー、たたっ斬んぞ!」
 込み上げる笑いを必死に堪えながら、俺は視線を落として小さな溜息と共に眉を下げた。ここが勝負の為所だ。オラ、待ってろよオスカー!なんて内心ほくそ笑みながら息を吸う。
「…だって、オメー……似てっから、」
 出てきた声は我ながら賞賛を受けるべきだと思ってしまうほど弱々しく掠れて、吐き出した瞬間空気に溶けた。
「…え、」
 俺のあまりの変貌ぶりに、土方は刀を抜こうとしていた手をピタリと止めた。
「え、」
「……似てんだ、その…アイツに、」
 ゆっくりと続けた言葉は震えている。笑いを堪えているからだということは言うまでも無い。顔を見られたら一発アウトな予感がしたので、視線から逃れるように俯いた。できるだけ寂しそうに見えるよう意識しながら。
「…アイツって、」
「いや、何でもねえ。ごめんな、気ィ悪くさせて、」
「…あ、その、」
 しおらしく項垂れてみると、土方は罰が悪そうに視線を彷徨わせて何か迷っているようだった。
 何と言ったらいいのかわからないのだろう。言葉を探しながら口を開きかけては閉じる、という動きを繰り返して唇を噛んでいた。どうやら俺の言葉を悪いほうに取ったらしい。故人だなんて一言も言ってないんだけど。もちろんフィクションであり実在の人物とは一切関係ない。やれやれ馬鹿正直はこれだから、と嘘を吐いた自分のことを棚に上げながら、そろそろネタバレしようかと口を開きかけたところで土方がようやく俺の方へ視線を向けた。
「いや…こっちこそ、悪かった、」
「え、」
「知らねぇこととはいえ、悪いこと聞いちまったな、」

(…えっ、と?)

 土方の瞳から迷いが消える。代わりにその奥に湛えた炎は、まるで何か覚悟を決めたように、静かに燃えていた。そして、不意に伸ばされた武骨な手が、壊れ物を扱うかのように俺の髪に触れる。
 自分の身に起こった事が理解できずに固まっていると、もう片方の手のひらがゆっくりと近づいてきて、そっと頬を撫でられる。唖然としている俺に気付いていないのか、髪を撫でていた手も次第に下りてきて両頬を包む。
 動けないのは、言葉を奪われたのは、あまりに驚いているせいだ。脳が麻痺してしまったんだ。
「…声も、似てるか?」
「…うん、」
「何て呼んでた、お前のこと、」
 嘘を重ねてしまったのは、驚いたからだ。
「……え、」
「ん?」
「…なまえ、」
 その手は、想像していたよりもずっと温かかった。
 そう考えてから、俺は自分がこの男の温度を想像したことがあったということに気付いてまた驚愕した。

「銀時、」

 優しげに緩められた目元に返せる言葉など何も無い。
 何故自分の頬が濡れていくのかもわからなかった。




 馬鹿な男だと思う。何事も度が過ぎれば全て馬鹿になるのだ。
 そういう意味で、土方は馬鹿だと思った。馬鹿正直に人の嘘を信じて、そうすることが当然だと言わんばかりに手を伸ばす。掴んだ手のひらには俺も覚えがある箇所に固い肉刺が存在を主張しながら、俺の皮膚を撫でていった。少し、かさついている。
「泣くんじゃねえよ、」
 土方が困ったようにそう呟く。
 長い指に再び優しく目元を擦られて、そうか、俺は泣いているのかと思った。ぼんやりと意識を浮上させながら考えていた。どうしたらいいのだろうかと、考えていた。
「…オメーの、せいだ、」
「ああ、悪かったっつってんだろ、」
 違う。
「ちが、」
「何だよ、」
 ぐっと唇を噛み締めて唾を飲み込む。少しでも喉奥を潤わせてから言葉を吐こうと思ったのに、口の中が乾いていたせいで余計に喉がヒリヒリと痛み出した。
 どうして戸惑っているのだろう。言えばいい。何ひっかかってんだバーカ、嘘に決まってんだろそんなの。よってテメーの負けだパフェ奢れ。口八丁、言い掛かり、それは俺の得意分野の筈だ。
 そう言えば目の前の男はきっと、悪い目つきをさらに吊り上げて瞳孔を開く。ふざけんなテメー、何が負けだ、こちとらハナから勝負なんぞしてねーんだよ、そこになおれたたっ斬ってやる。そんな応酬を予想するという行為自体、簡単すぎて馬鹿らしいくらいだ。そんなのわかってる。わかってる、それなのに。
「ひじかたく、」
「…別に多串で構わねえよ、」
 そう言って、土方はまたクシャクシャと俺の髪を掻き回した。
 温かい。本当に馬鹿な男だ。知らなかった。
 馬鹿がつくほどの優しさを持っているなんて知らなかった。

 それから、土方は街中で会う度に俺へ手を伸ばした。土方、と呼べばその度に困ったような顔をして、お前の好きに呼んだらいい、と何度も言った。銀時、と呼んで、たまにすまなさそうな顔をしてパフェを奢ってくれた。優しい眼差しは同情なのだから、早くこんな嘘は止めにしないといけないとわかっているのに、俺の喉はまるで鉛が貼りついているかのように動かない。
 今も、土方は俺の髪を撫でている。
「…土方、」
「あ?」
「土方、」
 温かい指先に促されて溢れ出る感情は、一体何なのだろう。
 そう思ったら、堪らなかった。張り裂けた胸が血飛沫を上げて頬を濡らす。
「…、そ、に決まって、んだろ、」
「何?」
 もう、嘘はつけない。

「……多串くんなんて、存在しねーんだ、」

 頬を撫でていた指の動きが止まり、銜えていた煙草がぽとりと地面に落ちた。火のついた箇所が空気に触れてじりじりとフィルターを侵食する。
 一瞬、冷たい風が間を流れて時間を止めた。同時に舞い上がった埃が目に入りそうになって、慌てて瞼を閉じる。すると、また温かい感触がそっと頬に触れた。何が起こったのかわからずに恐る恐る瞳を開けようとすると、深い、肺の中の空気を全て押し出そうとするような溜息が聞こえてきた。土方の怒りの度合いはわからなかったが、その溜息の長さが奴の怒りの頂点であろうことは何となく理解できた。

「……おい、」

 唸るような音が土方の喉奥から漏れる。
 覚悟を決めて息を飲み込んでから、俺は目の前の光景に唖然とした。

「へ?」
「…やっと白状したか、」

 ありったけの溜息を吐いたであろう唇はニヤニヤと楽しげに弧を描き、俺の髪を撫でる手は再び優しげに動き出す。
 胸倉を掴まれてよろめくと、ふわりと煙草の香りが広がった。そのまま胸元に抱き寄せられたのだとわかるまで一体何分かかっただろうか。
「え、な、ええ?」
「前にも言っただろーが、」
 耳元に吹き込まれた低い声に、背筋がぞわりと痺れる。布越しに伝わる体温が鼓動を早めて、思考を阻む。顔が熱くて堪らない。訳がわからないままに体中を撫で回される。全てを理解したのは、唇を何度も重ねられた後だった。

 耳朶を食んでいる唇から、一つの言葉が囁かれる。


「テメーの腹は最初っから読めてんだよ、」



【END】


嘘も真実も呑み込んで

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