Rain sculpture
傷跡は消えないほうがいい、と、そう言ったのは誰だったろうか。
古傷の痛みに雨の予感を感じながら、今はまだ太陽が支配している空を見上げる。
「…新八、帰る時傘持ってけよ、」
呼吸のスピードを計るように、人差し指を一定の速度で机に打ち付けた。
「へ?天気予報は一日中晴れだって言ってましたよ。」
とん、とん、とん、
雨音にも似た音。鼓動と同じリズム。
生きる、振動。そっと瞳を閉じる。
「銀ちゃん、私今日新八のトコ泊まるネ。アネゴと約束してるアル。」
「ああ、そうだったな。気をつけろよ、料理に。」
肩を揺さぶる小さな手に促されて、閉じていた瞼をもう一度ゆるゆると開く。すると、ぶつかった視線は弾んだ口調とは逆の色が含まれていた。俺の様子を覗き込んだ、神楽の瞳。そこに混じる、僅かな心配の色と、もう一つ。微々たる、恐れ。
「…銀ちゃん、具合でも悪いアルか?」
こういった感情に敏感なのは、彼女もまた、この感情に身に覚えがあるからなのだろうか。ふと胸を過ぎる予想は呑み込んで、慌てて笑顔を貼り付けた。きっとそれすらも見抜かれてしまっているのだろう。神楽は小さく溜息を吐いた。
どこか、諦めたような響きだった。
「まあ、腹減ってるかんな、」
態度を繕えば繕うほど、不自然になってしまう。その事を知っているから、あえて不機嫌そうに振舞った。憮然とした俺の態度に神楽は不満げに口を尖らせる。
「じゃあちょっとは稼いでくるネ!このマダオが!」
ドカリと乱暴に背中を蹴り上げて、それでも確かにその表情は安心したように柔らかくなった。
子供に心配をかけるのは一番してはいけないことだ。それなのに、こうして空気を読ませてしまうのを心苦しく感じる。「ごめんな」と胸の中で小さく呟いた。ごめんな、神楽。お前くらいの年なら、もっと図々しく、我儘に振舞ったっていいのに。俺がそうさせてしまったのか。それとも、生活と戦いがイコールになる人生を歩むことを強要された者の宿命なのか。
「銀ちゃん?」
いや、前者だ。たとえ後者であったとしても、俺はそうならないように手助けをするべき人間でなければならない。いつかここから巣立つその日まで力になりたいと、この小さな手に誓った筈だ。
「…へいへい、わかりましたよ、っと、」
くしゃくしゃと、柔らかい髪を撫でた。もう一度誓いを繰り返す。神楽、お前が俺のようにならない為に。
「わかればいいアル。じゃあ、行ってくるネ。」
「おう、気をつけろよ。横断歩道を渡る時は右見て左。もう一度右だ。」
「…人をバカにしてるヨ。そんなことしてる間に車が左から来るネ。」
「じゃあもう一回左見とけ。」
未だ文句を言い続ける神楽を無理矢理送り出して、部屋に戻る。西の空に少しグレーが混じってきているのが見えた。傷が、疼く。
こんな日は早く眠ってしまおうと雨戸を閉めて、布団を敷いた。誰にも見えないように、このまま世界から隔離されてしまえばいいのに。両腕を抱いて深呼吸を繰り返す。同時に、響く音。
とん、とん、とん、
屋根を叩く音に襲われて、ごくりと唾を飲み込んだ。それはもう、習慣化されたものだった。どんなに思い出したく無いと願っても無駄だと、今の俺は気付いている。己の内に巣食う影は戦うべきものではない。受け入れるものだと、気付いていた。
雨が齎す命の音にも似た振動を感じながら、再び瞳を閉じる。待ち受けるのは悪夢であると知っている。けれど、逃げるわけにはいかない。忘れること、逃げることは、彼らを冒涜するも同じだ。
汚すわけにはいかない。彼らの、死を。
とん、とん、とん、
雨が落ちる。命が落ちる。
思い出すのは、いつも雨ばかりだ。戦場に雨が降ったことなど、数える程しかない。それでも、まるで魂に染み込んでしまったかのように蘇る。咽返るような血の匂い。打ち付ける雨がそれらを洗い流すことなどなかった。ぐちゃぐちゃとぬかるんだ地面に足を取られて動きが鈍る。泥を踏んでいるのか、それとも己が奪った魂の抜け殻、肉塊を足蹴にしているのかもわからない。飽和した空気中の水分は肉を腐らせて、鼻も効かなくなっていった。己の息ですら、吐き出した瞬間に蒸気と化して雨粒になる。
煙幕のように辺りを覆い尽くす激しい雨の中、体を突き動かしていたのはたった一つの感情だった。
いつも、あの雨粒は一つ一つが針になって、全身を貫いていた。
浴びた血をさらに身体の奥へ、奥へと染み込ませるように。魂に、刻みつけるように。
生温い雨に混じった腐臭が脳に焦げ痕をつける。
唸り出す闇に沈んでいく錯覚を覚えながら、鼓動の数を数えた。次第に夢と現の境界が曖昧になっていく。
全身に纏わり付く声に記憶を呼び起こさせる。それは始まりの合図だった。
何度も何度も繰り返される悪夢は、今となってはもう悪夢かどうかもわからない。速まる鼓動、胸を突く衝動。まるで、血が滾るような悪夢。果たしてそれは悪夢なのだろうか。問う必要は無い。それは、紛れも無い俺自身に他ならなかった。
「…誰も、来るんじゃねぇよ、」
誰も聞いていないとわかっていてそう口にする。闇だけが答えるように震えていた。
とん、とん、とん、
窓を叩く、鼓動。宙に浮いた意識は連れ戻すことなく、そのまま彷徨わせる。酷く落ち着いた闇の気配にゆるゆると目を開ける。蠢くような感覚は身に馴染みのあるものだった。導かれるように腕を伸ばす。
懐かしい鉄の重み、刀身に染み付いた匂い。暗闇の中に浮かぶ、淡い銀色の光。身体が震える理由を、俺は知らないフリをする。ただ、衝動のままに手を伸ばす。
不意に手に触れた固い感触に、安心して口元を吊り上げた。手に納まったのは、この部屋にある筈が無いものだったからだ。これは夢だと再び確信して、ぐっと握り直した。笑い出しそうになるのを堪えていた。
手に馴染んだ重さが、心地良く圧し掛かる。親指を擽る、鍔の装飾。湧き立つような衝動は抑えることをしない。これは夢だ。抑えられる筈は無い。ごくりと唾を飲み込んで鼓動に耳を欹てる。
抜け殻になった鞘が床に落ちる前に、振り抜いた。
闇を裂くように、解き放たれた銀色の光が鋭く線を描く。身体の奥がジリジリと焼ける。
いつも、目の前の景色も見えない状況で、己を突き動かしていたのは唯一つの興奮だけだった。
鞘を投げ捨て解き放つ瞬間、鼓動と重なり合った雨音を切り裂く瞬間に得られる快感を、俺は知っていた。
「っ、あっぶねぇな、」
ガツンと鈍い金属音が鳴り響いて、抜刀の勢いを殺される。
障害に阻まれ振り抜いた勢いが全て自分の手に返ってきた。刀を握る手がジンジンと痺れている。木刀を握った手が、行く手を塞いでいた。目の前の光景に目を見開く。
「とんでもねえ目ェしてんぞ、テメー、」
鍔迫り合いに力を込めて、土方が俺の手を弾く。その瞳の奥に揺らめく静かな炎に身体の芯がぞくりと震えた。
とんでもない目?それはお前のほうだろう。そう言い返してやりたかったが、引き攣った口元からは荒い呼吸が漏れるだけで言葉が出ない。
「…居ねぇのかと思ったら、随分と物騒な愛情表現じゃねぇか、」
ニヤリと不敵な笑みを浮かべる姿に鼓動が跳ね上がる。
俺の手から離れた剣を再び鞘に仕舞うと、土方は舌舐め擦りをしながらにじり寄ってきた。俺は、はあはあとみっともなく自分の息が上がっていくのを感じていた。身体が熱い。
「何で、オメーが居んだよ、」
「…さあな、」
闇と同じ色をした瞳が、俺の姿を映す。頬に触れる指先は同じ人物とは思えない程に優しくて混乱する。たぶん、俺と同じ色に染まっている筈の腕が、赤ん坊をあやすように俺の背を抱いた。
「……ゃ、ねぇのか、」
ぽつりと呟かれた言葉が聞き取れずに顔を上げる。
「へ?何、」
「テメーが俺を呼んだんじゃねぇのか、銀時、」
確信にも似た言葉が、優しく髪を撫でた。
息が詰まる。溢れてしまう。どうして、コイツはこうなんだろう。
「…ズリィな、お前、」
ズルい。テメーだって、俺と同じくせに。
さっき俺を止めた時のツラ、鏡で見たことあるか?すげー目、してたぜ。
まるで、蒼い炎を浮かべたような、冷たい、激しい熱を湛えて。
危うく俺は、イっちまうとこだった。すげぇ、興奮してる。今も。何も、斬らなくても。
「銀時?」
「うるせーズリぃんだよ、」
それなのに、こんな風に、まるで壊れ物でも扱うように触れやがって。
「ああ?」
「どーしてくれんだよ、バーカ、」
「何がだ!」
仕返しのように抱き付いて、耳朶を噛む。
ねっとりと舌を這わせると、意図がわかったのか土方は小さく息を呑んだ。
「…なあ、土方。もっかいさっきのツラして、」
「ああ?」
「責任、とれよ、」
はあ、と熱の混じった溜息を吹きかける。
土方は再び意地悪げな笑みを浮かべて、俺の腰に回した腕をもぞもぞと動かし始めた。
「ったく、節操ねぇな、」
「いいだろ、テメーだけなんだからよ、」
「あ?」
「…テメーだけだ、俺を、止めたの、」
首筋に走る甘い刺激に、素直に声を漏らす。
好きだなんて、言わなくても伝わってる。きっとお前には、全て。
「銀時、」
「ん?」
ふ、と寂しげな笑みが零れる。
「…呼べよ、俺を。こういう日くらい、」
「ひじ、っん、」
返事を待たずに与えられる口付けに、温かい熱が胸の中へと流れ込んでくる。
欠けた魂を注ぎ込まれているようだと錯覚する。
とん、とん、とん、
優しい雨が体中に降り注ぐ。
ようやく、人になれたような気がした。お前が、俺を、人にする。
【END】
It makes
me cry only in your arms.
M様へ捧げました
リクエストテーマ…「白い鬼と黒い鬼」