コロボックルのゆびきりげんまん



 空を飛ぶということはこういうことか。

 一瞬、宙に浮く自分の姿を空から見ているような錯覚に陥った。
 こんな時は今までの人生が走馬灯のように脳裏を過るというが、そんなことは起こらなかった。
 感慨深い人生でもなかったからな、とやけに冷えた頭で考えながら、土方は目を閉じた。やけに空が青い。



 鼻先にポタリと冷たい感触がして、ゆるゆると瞼を持ち上げる。霞みがかった視界は体の異常ではなく、どうやら朝靄のようだった。
 澄んだ冷たい空気が頬を撫でていく。己の状況がわからずに、土方は辺りを見回しながら記憶を辿った。
 確か自分は崖上から投げ出された筈だ。逃げ出した攘夷浪士の幹部を追って山狩りを行ったが、それを待ち構えていた奴らと戦闘になり、爆発に巻き込まれて崖下に落ちたのだ。
 谷底すら見えないその高さに己の最後を覚悟した。

 落下していく自分の姿を思い返しながら、ゆっくりと首を傾げる。
 何故生きているのかとまず最初の疑問が浮かんだ。

 辺りは鬱蒼と木々が生い茂っている。途中枝にでもひっかかって、衝撃が和らいだのだろうか。
 それにしてもよくここまで軽症で済んだな、と思いながら体を起こそうとするが、それは叶わなかった。
 両足が動かない。見ると右足が倍近く腫れ上がり、おかしな方向へ曲がっていた。骨が折れていると認識した途端に激痛が襲う。額から脂汗が噴き出していることにも気付いていなかった。歯を食い縛りながら近くに落ちていた枝を拾って添え木にし、スカーフで右足を固定する。左足は折れてこそいないが、捻っているようだった。

 思い通りに動かない体に舌打ちして、唇を噛み締める。こんなところを敵に見つかりでもしたら一堪りもない。
 這うようにして近くの椋の木に寄りかかり、大きく溜め息を吐いた。怪我のせいで熱が出ているのか意識が朦朧としてくる。思わず目を閉じようとした瞬間、茂みがガサガサと揺れた。咄嗟に刀へ手をかける。だが、土方の予想とは裏腹に、妙なものが姿を現した。

(…何だ?ウサギか?)

 白い毛玉がもぞもぞと茂みの中を蠢いている。
 凝視していると、その毛玉は様子を窺うように隙間から土方を覗き見た。
 それは、敵でもウサギでもなく、年端もいかない小さな子供だった。予想外のことに目を見開く。

 子供はキョロキョロと辺りを見回しながら、少しずつ土方の方へと近づいてきた。
 どうしてこんな所に子供が一人でいるのか。そもそもここは何処なのか。浮かぶ疑問は痛みのせいで何も考えられない。ぼうっとしている内に、子供はそろそろと土方の傍らへ腰を下ろした。
 白髪かと思っていた髪は朝日に当たって銀色に輝いていた。珍しいその色に一人の人物を連想するが、直ぐに思考を打ち消した。眩しさに、目を細める。

「何…してんだ、」
 掠れた声で問いかけると、子供はビクリと跳ね上がり、一目散に逃げ出した。
 小さな背中がみるみる内に遠ざかっていく。
「オイ、」
 呼び掛けに振り返る訳もなかった。
 こんな山奥に小さな子供がたった一人で。迷子だろうか、それとも地獄の使いだろうか。
 銀色の髪に赤みがかった瞳。もしくはアイツの隠し子だろうか。
 どれもあり得そうな気がして、土方は小さく笑った。そもそも此処が地獄でないと証明するものは何もない。
 思考を巡らせているうちに、どんどん息が上がってくる。
(あー、やべえな。目ェ回ってやがる、)
 目の前の景色が歪む。喉が酷く渇いて仕方ない。体中が燃えているようだ。
 傷の痛みを少しでも逃がそうと大きく息を吐く。周りに生い茂った植物の朝露で唇を湿らせてみたが、その程度で渇きが納まる筈も無く、相変わらず脂汗が落ちるばかりだった。
 暫く休んだほうがいい。もし敵に見つかればそれまでだが、今更惜しむ命でもない、と土方は刀を抱えるようにして目を閉じた。

 眠りに落ちては痛みで現実に引き戻される。何度も何度もそれを繰り返しているうちに辺りは暗くなり始めていた。土方が時間の経過に気付くことができたのは、またしても己の肌に当てられた、冷たい感触がきっかけだった。
(…何だ、)
 濡れた感触が額に当てられて、ゆっくりと覚醒する。
 思わず息を呑んでしまったのは、視界を埋め尽くした光が原因だった。
「お前、」
 鈍く光る銀色が、目の前でゆらゆらと揺れていた。先ほど逃げ出した銀色の子供だった。

 思わず身動ぎすると、額に置かれていた濡れた手拭いがずり落ちる。
 土方が目を覚ましたことに気付いて、子供はまたビクリと震えて後ずさった。だが、今度は逃げ出すまでには至らない。そのままじっと土方を見つめたまま、ゆっくりと一歩足を踏み出す。土方が動かずにいると、一歩、もう一歩と足を進めてきた。手を伸ばせば触れる距離まで子供が近付いてきても、土方は動かずに彼をただ見ていた。
 子供は土方の額からずれ落ちた手拭いを拾うと、手にしていた竹筒を差し出した。中を覗き込めば、竹を切っただけのコップ代わりの入れ物に澄んだ水がなみなみと揺れている。
「…くれんのか?」
 土方の問いに子供がこくりと頷く。竹筒をそっと押し当てられて、口を開く。
 冷たい水が乾いた喉に吸い込まれていくように、一心に飲み干した。礼を言って竹筒を返すと、子供はぷいと顔を逸らしてからまた走り出す。もう日が落ちるというのに、危ないと手を伸ばすが、少年は慣れた足取りでひょいひょいと去ってしまう。一人でこの山に住んでいるのだろうか。それとも自分はやはり幻でも見ているのだろうか。
(何だっけな、アレか…コロボックル、だっけか、)
 蕗の下に住む小人。飢饉に困る人々の為にせっせと食べ物を運んだ、蝦夷の神。
 その話を自分にしてくれたのは誰だっただろうか。幼い頃の穏やかな記憶はどこか遠くてぼやけてしまう。

 歩けるようになるまでは戦況を知る術も、自分の位置を把握する方法も無い。
 焦っても仕方ないとわかっていても、溜息ばかりを吐いてしまう。何度目かわからない深呼吸をしていると、またガサガサと茂みがざわついた。顔を上げると、先ほどの子供が息を切らせて土方の元へと向かってくる。竹筒に汲まれた水を再び差し出されて土方は困惑した。されるがままに口をつけると、少年は濡れた手拭いを土方の額に当ててきた。
(…助けてくれてんのか、)
 冷たい感触に、ほう、と息を吐く。焦りからくるものではない、安堵の溜息だった。
 少年は無表情のまま土方の顔を覗き込んでいる。
「ありがとな、」
 ぽん、と頭を撫でてそう呟くと、少年はびっくりしたように飛び上がって、再び茂みに隠れてしまう。
 それでもちらちらと土方の様子を見ながら少しずつ近付いてくる。同じ様なやり取りを何度かして、夜も大分更けた頃、少年は疲れたように土方の傍らでコロンと丸くなった。
(まるで動物だな、)
 上着を脱いで掛けてやると、子犬のようにむずがりながら寝返りを打つ。
 ふわふわと揺れる銀の髪を撫でながら土方も眠りに落ちた。一瞬自分の置かれている状況を忘れてしまいそうになるくらい、穏やかな心地だった。


 それから数日、穏やかな日が続いた。
 少年は居なくなったと思うと水を汲んで持ってきたり、慣れているのか川魚を手掴みで持ってくることもあった。時には土方が背にしている椋の木に登り、小さな実を取って齧る。甘い物が好きなのか、良く熟れた実は少年のお気に入りのようだった。
『歳は?』
『名前は?』
『家族は?』
『いつからこの山にいる?』
 どの問いにも、少年は答えなかった。
 土方が何を言っても、少年はゆるゆると首を振るだけで一言も言葉を発しなかった。
 もしかしたらこの子供は本当に妖精や山神の使いなのかもしれない。次第に土方はそう疑うようになっていた。
 子供が一人、こんな山奥で野生の動物のように暮らしているなど、信じたくなかった。

 夜になると土方の傍らで眠る姿。時が経つにつれて、その手が自分のシャツをしっかり握り締めていることに気付いた時、土方はどうしてか堪らない気持ちになった。
 やるせない。それが一番近い感情のような気がした。

 穏やかな時を破ったのは、明け方に響いた爆発音だった。地鳴りのような振動に弾かれたように起き上がる。耳を澄ませば遠くから爆発音に混じって、怒号が響いているのがわかる。
(…どういうことだ。山狩りの延長にしては規模がデカ過ぎる。)
 まるで戦争だ、と思わずにはいられない。
 嫌な予感がぞわぞわと背筋を這い上がる。何が起きているのかわからない。『知らないこと』が一番の恐怖だった。
 二度目の地響きに傍らで眠っていた少年が飛び起きる。だが、少年は何処か落ち着いた様子で砲撃音のする方向をじっと見つめていた。まるで、日常の風景をぼんやりと見ているような眼差しだった。
「オイ、」
 土方が声を掛けても顔を向けず、少年はそのまま何時間も動かずにいた。
 やがて日が暮れる頃、音は小さくなり、同時に少年が走り出す。表情の無い横顔に、土方は息を呑んだ。

 少年がその夜、土方の元へ戻ることはなかった。


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