お世辞にも言えない



 パステルピンクに白いレース。
 触れば脆く崩れてしまいそうな柔らかな感触。
 ふわふわと足元が落ち着かない。まるで雲の上を歩いているようだ。
 鼻先を近付ければきっと甘い匂いがする。

 俺の大嫌いな砂糖菓子の香りが。




 硝子に映った自分の顔を見て顔を顰める。不機嫌そうに歪められた眉に再び苛立ちが増した。
 幾ら俺が不機嫌になろうとも、世界は何も変化しない。時間は全ての人間に平等に与えられる。どれだけ止まれと願っても、逆に早く進めと急かしてみても、こっちの願いなど聞き入れてはくれないのだ。

 ごくり、と唾を飲み込む音がやけに響く。

 覚悟を決めて握った拳に力を入れた。
 銜えていた煙草を思わず噛み締める。もう役に立たなくなった煙草を携帯灰皿の中に押し込んでから、足を一歩踏み出した。心臓がバクバクと張り裂けんばかりになっている。耳の後ろがザーザーとやけに煩い。鏡に映った自分の姿を見ないようにして、目の前のドアを開けた。きっと鏡を確認してしまったら、俺はとてもじゃないが平静ではいられなかっただろう。いや、この場に足を踏み入れること事態、異常だ。既に平静という言葉自体どこか彼方へ飛んでしまっている。だが、それでも鏡を見ることはできなかった。事実を受け入れられるほど、俺はまだ自分を失ってはいなかったのだ。

「どうなさいました?」

 淡い色のワンピースに身を包んだ女が柔らかく微笑む。まるで、春だ。
 暗い闇色に身を包んだ俺は、再びごくりと喉を鳴らした。

「…その、」

 窓の外では何事だと言うように木立が枝を忙しなく鳴らしている。
 爆発寸前の心臓が俺から聴覚を奪う。目の前の人間が何を言っているのかもわからない。先ほどまで流れていた筈のBGMも聞こえない。首を傾げる女の指先しか目に入らなかった。ピンクにラメの施された丸い爪が、不安げにカウンターを叩いていた。

「……―くれ、」

 乾いた布をさらに振り絞るようにしながら喉を震わせる。
 音になったかどうかはわからない。ただ、目の前の女は僅かに瞠目し、そして緩やかに口元を持ち上げた。




「それで、コレ?オメーがぁ?っ、くくくくっ、」

 ふるふると勝手に震える肩を必死に抑えていたが、耐え切れないと言ったように目の前の男が吹き出した。
 予想通りの反応に、俺のこめかみにはビキビキと血管が切れそうなくらいに浮き上がる。漫画みたいにピューと血が噴き出しても、今の俺なら絶対に疑問に思ったりしない。怒りが身体に齎す作用はきっと無限だ。今の俺にありえないなんてことはありえない。

「うるせぇ!テメーが欲しいっつったんだろーが!!」

 怒りに任せて男の足元に拳を打ち付けると、大袈裟ではなく、男は本当にその場に飛び上がった。先ほどまでのふざけた表情は何処へやら、大地震に襲われたみたいに青い顔して後ずさる。
「な、んな怒んなくてもいいだろ、ちょっとからかっただけじゃねーか、」
「だったら冗談が通じる相手に言えよ。踏み潰すぞテメエ、」
 男の胸倉を掴んで揺さぶると、必死になってごめんごめんと繰り返す。
「悪かったって、離して、マジ気持ち悪くなるからァァ、」
 謝る姿には反省の色など全く無い。
 人がどんな想いをしたと思ってんだ。そう叫んでやりたいが、それも何だか大人気ない。
 何でこんなことになっちまったんだと深い溜息を吐いてみれば、男は赤い瞳を揺らして小さく首を傾げた。今更ご機嫌取りかと頬を引き攣らせると、さっきとは違う、真っ直ぐな視線を向けられる。

「悪ィ、ほんとにくれると思わなかったんだよ。」

 仄かに香る甘い、匂い。

「…ありがとな、土方くん。」

 銀色の綿菓子がパステルカラーの波に埋もれていく。




 雨の中を歩いていた。
 細い針のような雨粒が引っ切り無しに空から落ちてくる。町の中は飛沫で靄がかかったように視界が悪い。鉛色の空が光を奪い、冷たい雨が体温を奪っていく。傘を差していてもみるみる足元から濡れていってしまう。まるで底の無い沼にじわじわと沈んでいくようだと思いながら足を速めた。昼なのに墨を零したように暗くて、人っ子一人通りに居ない。

 別にビビッてる訳じゃねえ。こんな日は何か出そうだなんて思っちゃいねえ。
 ただ雨に濡れたせいでいい加減寒くなってきたから、早く帰りたいと思っただけだ。

 自分自身にそう言い訳しながら早足で歩く。(走るのは何だか悔しかった。)すると、壊れた雨樋が雨の重さに耐え切れず、行き成り落ちた。ガコン、と派手な音が鳴り響いて、俺は思わず竦み上がった。
「っ、……って、べ、別にビビッてなんかねーよ!」
 縮み上がった心臓に気付かないフリをして、落ちた雨樋に人差し指を突きつける。
「ったく紛らわしい真似しやがって、」
 深呼吸をしてから気を取り直して舌打ちをする。壊れた雨樋の欠片が暗い路地裏に吸い込まれるようにして消えていく。何となく気味の悪さを覚えて、俺はその場を離れようと視線を逸らした。だが、同時に息を呑まざるを得なかった。逸らそうとした視線は微塵も動かすことができない。何か真っ黒い物が自分に向かって飛びかかってきたからだ。
「ぎゃあああああ!!!」
 腰を抜かしてその場に崩れ落ちる。がらがらがっしゃん、とけたたましい音が鳴り響いて、ゴミの入ったポリバケツやら、酒瓶やらが狭い路地に散乱する。あ、俺死んだ。そう思いながら恐る恐る目を開けると、何かもふもふした物がやはり視界を塞いでいた。

「ワン!」

 真っ黒な野良犬が身体の上に圧し掛かり、俺の体を容赦無く踏んでいく。唖然とする俺を無視して、暫くすると犬は上機嫌で去っていった。事態を理解してカーッと熱が顔中に集まる。慌てて飛び起き、汚れた服を掃うよりも先に周囲を穴が開かんばかりに見回した。

(…犬じゃねえか!つーか只の犬じゃねえか!ほんっと俺!あー畜生!!)

 誰も見てねえだろうな。総悟辺りに見られていたら俺はもう切腹しか残された道が無い。
 祈るような気持ちで起き上がり、辺りに人の気配が無いことを確認する。雨の冷たさなど感じられなくなっていた。

(セーフか?カメラとか仕込んでねえだろうな!)

 ともすれば戦闘中よりも研ぎ澄ました神経で周囲を窺う。だが、俺の期待を打ち破るかのように、傍らのポリバケツがガコンと虚しく音を立てた。サアっと血の気が失せていく。気を失いそうになりながら、震える手で転がったそれを掴む。

「…に、にゃー、」

 バケツの陰から現れた生物を見て思考が停止する。
 それは、お世辞にも猫とは言えない可愛げの無い生物だった。





「おーすげー、ふっかふか!よくできてんな〜!」

 柔らかなベッドに勢い良くダイブして、男が満足気な声を漏らす。連動するように俺はまたしても溜息を吐いた。
「何だよ。そんなに溜息吐いてたら幸せ逃げるぜ?」
「うるせえ、俺がコレ買うのにどれだけのプライド捨てたと思ってんだ!」
「だからお礼言ってんじゃん。そうカリカリしてたらイイ男が台無しだぜ、副長さんよ、」
「イイ男があんな店入る訳ねーだろうが!!」


『はい、かしこまりました。』

 店員の生温い笑みは一生忘れられそうに無い。
 絶対自分用だと思われた。明らかに気を遣ってるのが丸分かりだった。挙句の果てには頼みもしないのに「お包みしましょうか?」とか言い出す始末。きっと「アナタが使うなんて私は思ってないですよ。親戚のお子さんへのプレゼントなんですよね。」ということを示した何とも悲しい配慮だ。被害妄想だと言われればそれまでだが、俺の頭の中は終始卑屈にパニックに陥っていた。綺麗に包まれた商品を渡されると同時にひったくるようにして店を飛び出し、紙袋に施されたポップな店のロゴを隠しながら屯所への道のりを猛スピードで走り抜けた。あれほど帰り道を長く感じたことは無い。

「あーやっと安心して眠れるわ〜、」

 そうして俺が死ぬ思いをして手に入れたものの上に、銀色の男が気持ち良さそうに寝転んでいる。

 その、ピンクとレースに囲まれた人形用のベッドの上に。





 奴を見つけた時の俺の心情といえばビックリした、とかそういうレベルじゃない。
 さっきの野良犬はやはり幽霊とか化け物とかそういった類の物で、俺は異次元に導かれてしまったんだ。そう考えた方が、今この状況を呑み込むには何倍も納得できる。

 ポリバケツの陰には、万事屋が居た。俺にとってはいけ好かない男だ。
 その男が体育座りで膝を抱えて震えていた。それを見て俺は雨が降っていたことを漸く思い出す。本来であればその後、俺は醜態を見られてしまったことに絶望を覚える筈だった。けれど俺は奴の姿を見た途端、一瞬前にあった事を全て忘れていた。何が夢で何が現実かなんて誰にもわかりはしない。真実は俺の中だけにある。とかそんなどうでもいい、全く関係ないことを延々と頭の中に巡らせることしかできなかった。

「よ、ろずや、か?」
「…残念ながら、そう、です。」

 戸惑いを露わにした俺の掠れた声に、万事屋は力無くそう答え、項垂れたまま膝を抱え直した。よく見れば流水模様である筈の着物は泥や埃で柄が判別できないほど真っ黒になっていた。裾はあちこち破れ、何処か怪我をしたのか血が滲んでいる箇所もある。

「どうした?」

 何があったんだという問いは連続して出てきたくしゃみに掻き消された。熱があるのかボーっとしたまま、俺が額に触れてもからかう素振りも嫌がる素振りも見せない。
 相手が弱っていたら喧嘩はそもそも成り立たないのだ。そう結論付けて、少しの迷いの後に俺は男へ手を伸ばした。何かを言う気力も無いのか、奴は素直に身を預けてくる。

 万事屋の身体は、俺の手の平にすっぽりと納まるサイズになっていた。



 持ち上げると雨粒に襲われる。
 震える小さな男をスカーフで包んで、胸の内ポケットにそっと納めた。

「狭いが少し我慢しろよ、」

 そう声をかけるとへらりと笑って目を閉じる。
 直ぐに聞こえてきた寝息に、安堵する理由にはまだ気付かない。



2009.02.11


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