硝子格子の裡
夕日が沈みかけると、その窓辺に立つのが日課だった。
綺麗に磨き上げられた桟を人差し指の腹で辿りながら、夜へと急ぐ町並みを見つめる。
日々繰り返される、単調な光景。
その中の僅かな変化、四季の移ろいを見つけるのが唯一の楽しみだった。
「銀さん、そろそろ準備してください、」
控えめに叩かれる扉に向かって、はいよ、と気の抜けた返事をする。
小指で紅を引くのも手馴れたものだ。椿の色にも似た、真紅に染まった唇は容易く弧を描く。
約束を、一つ。
透明な、世界で。
一、邂逅
「…岡場所?」
けほけほと咳をしながら、土方は横を歩いている近藤に目を向けた。子供のように輝かせた瞳とは裏腹に話題は欲に塗れていることに呆れてしまう。そんな土方の視線を理解しつつも近藤は歯を見せて豪快に笑った。
「一緒に行ってくれよ〜、トシ連れてきたら女の子が喜ぶって言われてよ、」
「勘弁してくれよ。行くったって入り口までだろ?保護者じゃあるまいし、俺ァんなとこに用はねえ。」
きっぱりと言い捨てる。それでも、近藤が諦める様子はなかった。得意げに人差し指を立てて、これだから流行に疎い男は、と嗜めるように肩を叩く。
「それが違うんだよ、岡場所っつっても普通じゃねえんだ。」
「はあ、」
「手頃な値段で吉原気分、つーのが売りでな。指名して、はい寝所へどうぞ〜みてえな局見世とは違うんだよ。簡単にはヤれねえの。」
「ああ?」
まどろっこしいと眉を顰める土方に、近藤は今から行く店はシステムも吉原を真似ていると語った。
初会は宴会を設けるだけ。裏、つまり二会目もほとんど同じ。三会目で漸く馴染となり初めて寝所を共にする。
「それ、単なるぼったくりじゃねえのか?」
「いやいや吉原に比べたら段違いに安いんだって、しかも初会から女郎が話してくれるんだぜ?店の奴らも気安い感じだし、なートシ行こーよー、」
「あのなあ、立場的に俺らは私娼を取り締まる側だろーが。何言ってんだ。」
「いいじゃねえか、刀を外したら役職は関係ねえだろ?」
屁理屈を並べて駄々を捏ねる近藤に、どうしたものかと土方は頭を抱えた。確かに余程のことが無ければ岡場所が取り締まられることは無く、事実上黙認となっているのが現状だ。土方たちが奉行所に勤め出してから数年が経っているが、実際に取り締まりが行われたことは一度も無い。
そうこうしている内に目的地へと誘導する近藤に溜息を吐いた。しょうがない、宴会だけなら面倒なことにはならないだろう。一度だけだと自らに言い聞かせて足を進める。
突き刺すような冷たい風が肌に当たる。また一つ咳をして、土方は足元を濡らす雪を叩いた。
「お、ここだ。俺話つけてくるからトシはちょっとここで待っててくれ、」
そう言って数寄屋造りの建物の中へ消えていく近藤に再び溜息を吐きながら、土方は庭に足を踏み入れた。灯篭に降り積もった雪と辺りに響く流水の音。緑が無い季節の庭は、何処か寂しい。
「っ、も、ちょっと、」
不意に聞こえてきた幼い声に、土方は顔を上げて声のするほうへと視線を向けた。
見れば小さな子供が手を目一杯伸ばしてそこに咲いた椿の花を手折ろうとしている。少女は手の届く場所に咲いた花が見えていないかのように、一番高い場所に咲いた花に手を伸ばしていた。
「こっちじゃ駄目なのか?」
土方が少女の手元の椿を指差してそう問うと、彼女は激しく首を振った。そうかと呟いて、少女が目指していた椿をそっと手折る。差し出すと少女はにっこりと笑みを浮かべてそれを受け取り、嬉しそうに駆け出した。
降り積もった雪をものともしない軽やかな走りに感心していると、少女は一番奥の雨戸を激しく叩き出す。戸を壊さんばかりの勢いに、土方は驚いて近寄った。乱暴を注意しようとしてしまうのは奉行所勤めの性だ。
だが、土方が少女に声をかけようとする前に、ガタガタと音を立てて雨戸が開いた。
「ったくうっせーんだよ!神楽!戸壊す気か!!」
綺麗に結われた銀の髪は染めているのだろうか。その割には違和感が無い。
白地の着物には良く見れば銀糸で流水の刺繍が施されている。薄紫の伊達衿と藤色の帯が上品に際立つ。だが、場違いな言葉遣いに圧倒されて土方は言葉を失った。
何より、そこに佇んでいるのは紛れもない男だ。
「何だ、椿か?サンキューな。」
男は軽く微笑んで少女の頭をポンポンと撫でる。少女は擽ったそうにしながら振り返り、男に何か耳打ちすると驚きで固まっている土方を指差した。何のことかと首を傾げる間に少女は下駄を脱いで建物の中へと入ってしまう。
残されたのは、二人。
そもそも客がこんなところまで足を踏み入れていいのだろうか。今更ながらにそんな想いが浮かんでくる。
出直そうと足を引いた瞬間、男が手にしていた椿の花を翻しながら口を開いた。
「子供使ってアプローチ?お客さん古い手だね、」
聞こえてきた言葉は一瞬何のことだかわからなかった。
固まったままでいると、男が椿の花にそっと口付ける。途端に土方は怒りで顔を赤くした。
「誰がんなことするかァァ!!」
「あ、そうなの?」
「大体俺はてめーのことなんざ知らねえよ!」
「ふうん、そうやって言うのも手だったりして、」
「うるせえ!何なんだここは!陰間茶屋たぁ聞いてねーぞ!!」
声を荒げる土方に、男はさも楽しそうにくつくつと笑っている。
「陰間茶屋じゃねえよ。看板は『いい女取り揃えております』。アンド『男も取り扱っております』ってだけだ。」
「はあ?」
「『男色は粋でステイタス、でも役者に入れ込むのはハードル高い、もっと気軽なのは無いのか』ってお客さん向けのサービスなんだよ。常連さんだけの裏メニューみてえなもんだ。さてはオメー上司に無理矢理連れてこられたクチ?」
ぐっと押し黙ってしまうことは肯定の意を表すのと同じだった。
すると男は雨戸に寄りかかって、目を細める。向けられる視線は、酷く優しい。
「…銀時、」
聞き慣れない言葉に、土方は弾かれたように顔を上げる。
「へ?」
「俺の名前。もし今日来るなら店の奴にそう言えって言われたって伝えな。オメーくらいの美丈夫がノコノコ入って来たら、確実に裏馴染にされんぞ。唯でさえココの連中はオッさんの相手ばっかりで飢えてんだ。」
言葉の意味に気付いて土方は自分が青褪めていくのを感じていた。
裏馴染、つまり遊女の方が惚れ込んで三会目を待たずに関係を持ってしまうこと。
冗談じゃないと唇を噛む。
「じゃあな。」
「あ、ちょ、待て、」
土方の返答を待たずに、銀時は背を向けてしまう。引き止めようとすると、奥から別の人間の声が響いた。
「銀さん!何やってんですかそんなとこで!お客さんに見られたらどうすんですか!!」
「うるせーな。大丈夫だって、」
「ったく、まだ準備済んでないんですから戻ってくださいよ。」
「はいはい、」
そっと閉じられた雨戸を見つめて立ち尽くす。
深々と、雪が降り積もる。
手折られること無く地面に落ちた赤い花弁が、白い世界を彩る。
「お、居た居た。トシ、何やってんだそんなとこで。」
「…いや、」
体温を奪う筈の、氷の結晶。
「ははーん、さては興味出てきたんだろ?こんな天気じゃなかったら遊女の一人や二人ひょっこり顔出すかもしれねえしな!」
「…そんなんじゃねえよ、」
「まあまあ、行こうぜ。トシはどんなタイプが好きか聞かれてんだよ。どうする?」
それなのに、
「近藤さん、」
「ん?」
「…俺、指名してぇ奴がいんだけど、」
鼓動が鳴り止まない。
頬が熱くなる、理由は。
「機嫌良さそうですね。」
黒いビードロの花器を取り出し、椿を生けている銀時に気付いて新八が声をかける。
「ん?そーか?」
「鼻歌歌ってましたよ、」
「ん、そーか、」
珍しい、と新八は無意識に笑みを浮かべた。着物を畳む手も、自然と速まる。今日は使わない帯を仕舞おうと、畳紙を広げる。すると、銀時が慌てたように振り向いた。
「どうしたんですか?」
「っと、その、」
歯切れの悪い言葉に手を止め、ゆっくりと顔を上げる。少しの逡巡の後、銀時ははにかむように言葉を発した。
「…その、帯と簪変えてくんねえ?あ、あと衿も、」
「へ?時間あるからいいですけど…どうしちゃったんですか、珍しい。」
「うるせー、何かコレいまいちノらねえんだよ、」
ノった例が無い癖に、と思いながらも口に出すことはせず新八は頷いた。
やる気の無い様子が常である男がこう言い出すなんて、何かあったのだろうか。いや、深く考えるだけ無駄だろうと自らに言い聞かせて帯を広げる。
「どんな風にします?」
窓の外には相変わらず雪が降っていた。
音も無く、世界を飾る。
優しくて、寂しい色。
「…この椿に合う感じで頼むわ、」
真紅の炎が花弁を燃やす。
一つの歯車が動き出したことを、まだ誰も知らない。