ペチュニアの恋


 乾いた地面に一粒の水が落ちる。じわりと染み込んではまた干乾びていく。
 与えられればもっと、もっとと求めてしまう。
 わかっているのに渇望していた。どうしようもないくらい欲しくて堪らなかった。
 求めるものの正体すらもわからずに、ただ、ただ、ひたすら。

「…銀さん?」
 耳元に吹き込まれる優しい音に目を覚ます。ゆるゆると開いた視界に大きな手の平が揺れている。
 思わず手を伸ばしてしまいそうになるのを耐え、行き場を失った手で重い瞼を擦った。すると、呆れたような色を滲ませて、柔らかなトーンが続けられる。
「そんなとこで寝てたら風邪ひいちゃうよ、」
「ん…、」
 ぎしりとベンチの板が鳴く音がして、隣に腰掛けるのがわかった。
 俺は目を開かずに軽くむずがるようにして寝返りを打った。まだ、夢の中にいるようなフリをしながら。
 眠かったのは本当だったが、別に起きられないわけじゃない。けど、こうしていれば次はいつも同じことが繰り返される。それを待つ。
「…しょうがないなあ、」
 一瞬、瞼の裏の光が遮られる。
 伸ばされた指先が、優しく俺の髪をかき上げて、地肌を撫ぜる。
「銀さん、起きなよ、」

 本当は起きてる。

 いつも、いつも、アンタに触って欲しくて目を閉じたまま待っている。
 触れられる瞬間に身体が跳ねてしまわないように、走る鼓動を抑えつけて待っている。

 触れて欲しい。気付いて欲しい。

 なあ、本当はアンタも気付いてるんじゃねえの?
 気付いてるのに言わねえんだろ?ズルい大人だもんな。

 俺だってズルいから、何も言わねえけど。


「居酒屋?」
 手にしたコーヒー牛乳を一口含んで顔を上げた。
 燻らせた煙草の煙を目で追って、横顔を見つめる。
「そ、三丁目に新しくできたトコ、割引券もらったんだけど銀さん行かない?」
「いいけど、長谷川さんは行かねえの?」
 差し出されたチケットを受け取って首を傾げる。チケットには「一枚につき、お一人様半額」の文字。
「今日までなんだよ、ソレ。」
「なら、今日行こうぜ、」
 口をついて出た誘いの言葉を誤魔化す為に、慌てて「一人で飲んでもつまんねーし、」と付け加える。
 しまった。返ってワザとらしかっただろうか。
 平静を装いながら覗き込むと、長谷川さんはそんなことなど気にしていないようで、煙草の煙を吐きながら頭を掻いた。
「あーっと、俺ちょっと予定ができちゃってさぁ、」
 少し言い難そうに、そしてはにかむ様に言葉が発せられた。
 こんな時ばかり察しがついてしまう自分の頭を恨めしく思う。
 ぎゅう、と締め付けられる胸の痛みに気付かないフリをして、からかう様に笑みを作った。上手く笑えている自信は無いが、目の前の男が気付く筈もない。そう、わかっている。
「…奥さん?」
「んー、なんっつーか、今日その、一応記念日っつーか。いや、会わしてもらえるかわかんないんだけど、」
「…へえ、」
 引き攣る喉を誤魔化す為に、手の中のコーヒー牛乳を一口啜る。
 いつの間にか温くなってしまったそれは、返って喉元に纏わりついて気持ちが悪い。
 酸素を求める為に、息を吐く。押し潰されてしまわないように、深く、深く。
「んじゃ、もらっとくわ。サンキュ。」
 絞り出した声も、やはり乾いている。それでも捨てられずに、また、吐く。
「…俺たぶん一人で飲んでっからさ、フラれたら来てよ。」
「ちょっと、そーいうこと言わないでくれる?」
「じゃあがんばって〜、」
 慌てふためく様子に、はは、と適当な笑みを返しながら、広い背中を見送る。
 いつの間にか拳に力が篭っていて、手の中からくしゃりとチケットが歪む音がした。
 別に何かを望んでいるわけではない。どうなりたいのかと聞かれれば一番はこのままでいることだ。
 なのに、何故。
 俺は何度、こうして自分の心臓を握り潰せばいいのだろう。


 賑やかな店内の片隅で酒を呷る。
 喧騒の中に身を置けば、自分の存在など誰にも気付かれないような気がして落ち着いた。
(…薄い。こんなんジュースじゃねえかよ、)
 店のおススメだというカクテルに悪態を吐きながら、一気に飲み干す。
 飲んでも飲んでも味がしない。アルコールが体内に蓄積されていく感覚はあるのに、手足は冷えたままだ。
 代謝はいいほうだと思うが、元々体温が低いせいか、いつも手先が冷たい。顔ばかりが熱くなって、血液が末端に行き届いていないような気がする。
(でも、あの人はあったけえんだよな、)
 カウンターに顔を突っ伏したら、何だか抑えていたものが込み上げてきてしまう。
 呆れたような口調、優しい指先、温かな手のひら。
(…欲しいな、無理だけど、)
 じわり、じわりと寒さに侵食されていく。
 まるでそれから逃れるように、瞼がまた、重さを増していった。
(…来るわけねえ、)
 身体の寒気が増す。
 もう、眠気には逆らわずに、瞳を閉じた。

「…たら、……、」

 ぼんやりと頭の中で声が響く。

「…こんな、…で寝たら…、」

 なんだ。結局フラれたの?しょーがないなぁ。
 自然とにやけてしまう顔を隠しもせずに笑う。

「…なに、」

 ごめんな。来てくれて嬉しい。待ってたんだ。
 あ、言っちまった。やべえ、酔っ払いの戯言ってことで見逃してくんねえかな。
 でもいいか。本当のことだし。

「…へ?」

 そうだ。ずっと待ってた。好きなんだよアンタが欲しい。
 もう知らないふりは勘弁してくれよ。好きなんだ。
 欲しい。ずっと、ずっと欲しくて堪らなかった。くれよ。アンタを俺にくれよ。今だけでいいから。
 今、だけがいい。

 背中にそっと両腕が回されたのを感じる。
 温かい。熱が染み込む。

 ああ、きっと困ってる。でも欲しいんだ。ごめんな。
 言い訳めいた言葉は何だか泣き声のように歪んでしまった。そんなつもりじゃなかったのに。
 自分が、こんなに弱いとは思ってなかったんだ。ごめん。

 俺を抱く腕に力が篭る。熱い指先が、壊れ物に触れるように頬を撫でた。
 温かい。でも、肌を辿っていく手はやはり迷っている。

 酷くしていいから。

 そう呟いて指先を甘く噛むと、抱き締める力がさらに強くなる。
 首に両手を巻きつけて背を伸ばす。そっと、唇に触れる。ほんのりと煙草の匂いが鼻腔を擽った。
 嬉しくなって何度も押し当てていると、唇を舌でノックされる。答えるように薄く口を開くと、遠慮がちに舌が口内に侵入してきた。熱い、体温が高いのか、絡め取られていると溶かされてしまいそうだ。逃れようとすれば、強く吸われる。その度に鼻にかかった声が出てしまい、腰の辺りに重たい痺れが走った。
 いつの間にか服の中に入り込んでいた手に、体中を撫で回される。気持ちがいい。
 触れられる場所、全てが気持ちいい。

 もっと、もっと、

 聞きなれない声が辺りに響く。甘ったるい、意味の通じない言葉が宙に浮いている。
 何だこれ、喉が痛い。何だ、俺の声か。信じらんねえ、こんな、女みてえな。
 だけど気持ちいい。欲しいんだ。もっと。

 指先よりも、舌よりもさらに高い熱が身体の中に入り込んでくる。
 体を引き裂かれるような痛みに、声にならない悲鳴を上げながら、目の前の体を掻き抱いた。ぼやけた景色が涙でさらに歪む。すると、目元にそっと唇が押し当てられて、涙を吸われたのだと理解する。

 優しく、すんな。

 顔中に降ってくる口付けと共に、また仄かに煙草の香りが広がった。また、涙が落ちた。今度は指先で静かに拭われる。大丈夫だと繰り返すと、体の中の熱がゆっくりと動き出す。まるで体中が燃えているような錯覚に襲われて、もはや痛いのか気持ちいいのか嬉しいのか悲しいのか、わからなくなった。

 好きだ、好きだ、

 壊れたレコードのように、勝手に口が同じ言葉を繰り返す。
 紡がれる度に、宥めるように唇が降ってくる。抱きすくめられて、骨が、軋む。
 甘い痛みに幸福を覚えながら、体に刻み付けられるような動きを受け入れた。

 刹那の出来事である筈なのに、熱を吐き出した後も手足が冷えることはなかった。
 優しく髪を滑っていく指は、いつも頭を撫でてくれる手は、こんなに熱かっただろうか。
 体の中にいつまでも熱が燻っている。抱き締める腕はまだ、緩まない。
 意外だった。



 カーテンの隙間から差し込んだ朝日が目を焼く。
 逃れようと寝返りを打てば、ガンガンと頭が痛んだ。やはり二日酔いだ。
 そろそろと掛け布団を被って瞳を閉じる。素肌を滑るシーツの感触が気持ちいい。隣には温かいぬくもりがある。腰に溜まった重い痛みに、夢じゃなかったことを確認すると、沸き起こった感情に頭を抱えた。

(…やっちまった、)

(マジかよ、どーすんだ。なんかいろいろ口走ったような気がするし、)

(…これから、どーすんだ、)

 沈む思考を遮るかのように、隣の気配が動いた。思わずきつく瞼を閉じて、唾を飲み込む。
 そうだ、酔った勢いの過ちにできればそのほうがいい。少しでも真面目な雰囲気になってしまえば彼はきっと自分を責めて傷ついてしまう。俺の我儘のせいで。そうなる前にふざけてでも誤魔化さなくては。

 無意味な葛藤を余所に、もぞもぞと起き上がる気配がする。
 鳴り止まない鼓動に心の準備もできぬままでいると、被っていた布団を無情にも取り払われてしまう。
 眩しさに目を細めて、恐る恐る顔を上げる。情けない、けれど。

(…あれ?)

 急に明るくなった視界に飛び込んでくる風景。見慣れない天井と窓。

「…オイ、」

 低く響く、少し不機嫌そうな、癖のある声。

「いつまで寝てんだテメー、とっとと起きろ。」

 真っ直ぐな黒髪。瞳孔の開いた三白眼。口元の銜え煙草。

「…何呆けてんだ。変なもんでも食ったか?」

 ひやりと背中を嫌な汗が伝っていく。
 徐々に蘇っていく昨夜の記憶と目の前にある事実を見比べる。


 冗談でも、

「あれ、長谷川さん、どうしちゃったの?イメチェン?」

 などと言える筈も無い。

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