恋
何かおかしい。
そう思い始めたのはいつからだっただろうか。
僅かな変化は良く観察すれば日常のあちこちに溢れていた。
けれども僕はその変化をもたらした原因に思い当たる節がない。たぶん神楽ちゃんにもないだろう。
いや、なかった。少なくともこの日までは。
掃除をする手を止めて、そっと目の前ので眠る人物を盗み見る。
元凶はぐうぐうと呑気に気持ち良さそうな鼾を掻いていた。ふう、と溜息を吐いてから拳を握る。
【1】Midnight
disease
きっかけは何の変哲もない穏やかな日。
小さな贈り物が銀さん宛てに届いたことだった。
「銀ちゃん!お届けものネ!クール宅配便って何アルか!?」
神楽ちゃんと一緒に荷物を受け取って事務所に戻る。
彼女は待ちきれないと言わんばかりに目を輝かせ、銀さんの腕を引いて荷物の開封を促す。
伝票の品物欄に視線を落とすと「ナマモノ」の文字が目に入った。何だろうか。万事屋の台所事情を思い返し、食べ物だったらいいなと期待する。そうでなくても贈り物はワクワクするものだ。見ているだけで自然と胸が高鳴る。
「銀さん、開けてみましょうよ。」
「そうヨ!早くするアル!」
目を輝かせる僕らを見て、銀さんがやれやれと重い腰を上げる。
ダルそうな足取りが僕たちの前で止まり、眠そうな視線が箱に貼り付けられた伝票を捉えた。
次の瞬間、
「捨てろ。」
「「へ?」」
余りにこの場に似つかわしくない言葉に反応が一瞬遅れる。
「な、何言ってんですか。開けてもいないのに、」
「うるせー、それはナマモノじゃなくて生物だ。いやむしろ劇物だ。」
「はあ?」
「どっちでもいいネ。銀ちゃん開けないなら私が開けるヨ。そこで黙って指くわえて見てな!」
「あっ!バカお前、」
銀さんの制止を無視して神楽ちゃんが包装紙をビリビリと破り出す。すると中から有名な高級洋菓子店のラベルがひょっこりと顔を出した。箱を開けるとさらに色とりどりのフルーツと生クリーム、そして細かな細工が施されたチョコレートが載せられた限定商品であるタルトが1ホールその姿を見せる。
「わあ、」
あんぐりと開いた口からは感嘆符しか出てこない。
横を見れば、神楽ちゃんも食い入るように見つめている。今にも涎が垂れそうだ。
「すごいじゃないですか。この店の限定モノって人気が凄くて予約1ヶ月待ちだってテレビでやってましたよ。」
舞い上がる気持ちを抑えられず、声を弾ませて振り返った。だがその顔を見た瞬間にぎくりと身が強張る。
予想とは裏腹に、銀さんの表情は酷く冷たく醒めているように見えた。
「ぎ、銀さん?」
「捨てろっつてんだろ。」
「何言うネ!」
「神楽ちゃん…」
「このケーキ1つ作るのにどれだけの人が汗水垂らして頑張ったと思ってるネ!沢山の人の美味しく食べて欲しいって想いを無駄にするなんて、銀ちゃんがそんな身勝手な人間だなんて見損なったアル!」
声を張り上げた神楽ちゃんにツッコミの準備をしていたにも関わらず、彼女の意見は至極真っ当なものだったので僕の出番は無くなってしまった。銀さんも反論の余地が無いのか苦虫を噛み潰したような顔をして眉間に皺を寄せている。
「…じゃあお前らで食えよ。俺はいらねーかんな、」
悔し紛れに発した言葉を残し、憮然とした態度で部屋を出ようとする。
「ちょ、銀さん!どこ行くんですか?」
「…パチンコ、」
ぴしゃりと玄関の扉が拒絶の音を立てた。
「どうしたんだろ、」
「ほっとくネ。銀ちゃんも難しい年頃なのヨ、」
まるでリスやハムスターのようにタルトを頬いっぱいに詰め込みながら神楽ちゃんが溜息を吐く。確かに他に説明のしようがなかった。そうでもなければあの銀さんが糖分をいらないだなんて言うだろうか。有り得ない。
「神楽ちゃん、銀さんの分残しといてあげて。」
「わかってるネ。」
顔色を窺うように言うと意外にも神楽ちゃんはあっさりと了承した。何だかんだいっても心配しているらしい。
一つ息を吐き、熱い緑茶を注ぎながら贈り物の箱を見つめた。中身が気に入らなかったなんて考えられない。だったら原因は送り主、ということだろうか。けれど。
畳まれた包装紙をもう一度広げて伝票を確認する。差出人の欄には店名が書いてあるだけで、箱にも特にメッセージはない。なのに中を確認もせずに拒絶するなんておかしいだろう。まして不審物の疑いがあるのなら銀さんは僕たちがタルトを口に入れるのを全力で防ごうとする筈だ。けれどそこまではしなかった。むしろ、お前らで食え、と。
ならば銀さんはあらかじめそれが送られてくることを知っていたか、筆跡で送り主を判断したことになる。
差出人欄の店名は印刷だったが、万事屋の住所と銀さんの名前は手書きだった。少し角があるけど、整った、流れるような文字。一体誰からだろう。なんとなく、どこか見覚えがあるような。
「気になるアル。」
僕の気持ちを代弁するかのように神楽ちゃんがポツリと口を開いた。
気になる。けれど、知りたいような知りたくないような気持ちが混ざっていてよくわからない。2人とも同じ気持ちでテーブルの上に置かれたタルトをじっと見つめる。
すぐに帰ってくる様子は無かったので、銀さんの分を切り分け、ひとまずラップをして冷蔵庫にしまい込んだ。
『…捨てろ、』
あの言葉通り、捨てられてしまうのだろうか。
送り主は誰なんだろう。どうして銀さんは頑なに拒むのだろう。
その日の夕方、銀さんは冴えない表情で戻ってきた。パチンコの結果は聞くまでも無い。どうせ負けたんだろうということが目に見えてわかる。何だか怒るのもバカらしくなって溜息だけを吐くと、銀さんは俯いて躊躇いがちに口を開いた。
「…悪ィ」
聞こえてきた言葉の意味が一瞬理解できずに唖然とする。
あの銀さんが謝るなんて信じられなかった。今日は一体どうしたんだろう。甘味を断ったことといい、ひょっとして槍でも降るのではないだろうか。いやそれとも地球の滅亡か。
眉を顰める僕に銀さんは上っ面だけの笑みを浮かべる。ますます信じられない。
「ぎ、銀さん、」
熱でもあるんじゃないですか?そう尋ねようとした僕の声は突然鳴った電話の音に掻き消された。
驚く僕に構わず、銀さんがひょいと手を伸ばして受話器を耳に押し当てる。
「もしもし?」
緩慢な動作で頭を掻きながら銀さんがそう言うのを見て、ようやく我に帰る。
誰からだろう?という本日何回目かの疑問を頭に浮かべた途端、銀さんが不意に動きを止めた。
ビクリと、一瞬震えたようにも見えた。
「……らねーよ、」
見間違いなんかじゃない。
「…知らねーよ、」
受話器を持つ手が強張り、薄く開いた唇は戦慄いている。
「知らねえ、捨てた、」
僕は息を呑んで、目の前の光景を見た。体が動かなかった。今、僕は音を立てちゃいけないような気がしたのだ。
そして、何故か根拠も無く一つの確信が生まれる。きっと、電話の相手はプレゼントの贈り主だ。
「…捨てたっつってんだろ、迷惑なんだよ、」
振り絞るような声色だった。心臓を鷲掴みにされたような衝撃だった。
「もう、やめろよ、」
最後にそう呟いて、銀さんは静かに受話器を置く。
ごくりと唾を飲み込んで、恐る恐る口を開いた。向けられた背中からは何の感情も読み取れない。
「…ぎ、銀さん、」
「あ?」
振り向いた銀さんはいつものダルそうな表情で、受話器を持っていた時とはまるで別人だった。
目の当たりにしたギャップに、何を言っていいのかわからなくなる。
どうしようと目を泳がせて、僕は一つ試してみることにした。
「あの…、さっきのタルト、銀さんの分冷蔵庫にしまってありますから、」
「んだよ、いらねえっつったろ?」
返ってくる口調はその内容を除けば、いつもと変わらない。
「そんなこと言って、後で糖分不足で八つ当たりされるのは御免ですよ!!」
暗に食べろ、と。小言の延長のノリで言ってみる。
電話の主がプレゼントの送り主と同一人物であるとは限らない。けれど、何故か胸の奥がざわついて仕方なかった。だって、あの苦しそうな声を聞いてしまったから。
よくわからないけれど、このままじゃダメだと思ってしまう。
銀さんはいつも通り僕の小言から逃れるように、煩そうに耳を塞いでいた。
そうやって、他のことも見ないフリ、聞かないフリをしているんだ。
何か、大切なことまで。
その日の夜中、僕はその理由を知ってしまった。
一階のスナックも閉まり、かぶき町もようやく眠りにつこうとする夜更け。
何処からか梟の鳴く声が聞こえてきたような気がした。ふと、目を覚ます。押入れからは神楽ちゃんの壮大な寝言と定春の鼾が響いていた。トイレにでも行こうかと立ち上がると、台所からぼうっと光が漏れていることに気付く。もしや幽霊かと呼吸を止めそうになるのと同時に、和室に銀さんがいないことにも気が付いた。
ならば台所にいるのは銀さんだろう。きっと冷蔵庫でも漁ってるんだと思い、ホッと胸を撫で下ろす。
それにしてもこんな時間に物色とは行儀が悪いにも程がある。
おそらく一度要らないと言った手前、甘味を僕たちの前で食べるのは格好がつかないと思ったのだろう。変なとこでプライドが高いから。でも、神楽ちゃんが知ったら真似し出すとも限らない。
一度懲らしめるつもりで、気配を消してそっとドアへと近づいた。幽霊の真似事でもすれば何よりもお灸になるだろう。そう考えて。
よし、と隙間から中の様子を覗き込み、僕は自分の予想が正しかったことを証明した。
そして、間違っていたことも、証明した。
ぼんやりと、漏れていた光は冷蔵庫の光だった。
ドアを開けっ放しにしたまま、銀さんはその前に座り込んでいた。
床に胡坐を掻いて、予想した通り、タルトを載せた皿がしっかりとその手に収まっている。オレンジ色の光に照らされた寂しそうな横顔に、僕はぎくりと身を強張らせた。
見てはいけないものを見てしまったことを悟るが、もう遅い。
そっと伸ばされた手が、ラップを剥がしてタルトを鷲掴む。
乱暴な仕草とは裏腹に銀さんはそれを口に入れる寸前で、何度か戸惑っているように見えた。
しばらくしてから、目を伏せて、ゆっくりと一口齧る。繊細に積まれていたフルーツの中から、口に含みきれなかったブルーベリーが一つ零れて、再び皿の中へと落ちていった。
同時に、彼の眦から一筋の涙が落ちていった。
頬を濡らすものに気付いていないかのように、銀さんは勢い良くタルトを齧り出した。
まるで、一口目の躊躇いなんて無かったかのように。
時折、小さな嗚咽を混じらせながら、飢えたように、求めるように、そして、拒むように。
必死に何かを堪えているような表情は、あの電話の時の横顔と同じように見えた。
タルトの欠片がボロボロと床に落ちる。
銀さんの瞳からも、同じように涙が落ちる。
全て口に含んで、昼間の神楽ちゃんと同じように頬を膨らませながら咀嚼し続ける。
食べ終わっても一向にその場から動こうとしない様子を見て、僕はどうしたらいいかわからず途方に暮れた。ただ、開けっ放しの冷蔵庫の電気代が勿体無いなあ、なんてことしか考えられなかった。
他のことは、何もわからない。
銀さんが不可解な行動ばかりをとる理由も。
プレゼントの送り主は誰なのかも、電話の人物は誰なのかも、僕には全く検討がつかない。
けれど一つだけ、朧気ながらわかったことがある。わかった、というよりも只の直感に過ぎないけれど。
この人はきっと、恋をしているんだ。