仮初十六夜問答


【5】

 じわじわと昇り始めた朝日に瞳の奥を焼かれているようだ。焦れば焦るほど、目の前の男の表情が悲壮感をもって歪んでいく。
「いや、ほんと違うから、そういうんじゃないから、」
 銀時があたふたと弁解しようとしても、土方は全く聞く耳を持たなかった。
「わかってる、」
 皆まで言うな。辛そうにそう呟いて目を伏せる。そして肌蹴た銀時の着物の袷を正して、放り出されていた帯を手に取った。小さく息を吐くと、銀時の体を引き寄せ、帯を丁寧に結い直す。まるで親が子供の服を整えるような優しい仕草。早く誤解を解かねばと思うのに、何故か口を噤んでしまう。喉の奥からじわりじわりと熱が湧いて、言葉を音にするのを邪魔される。物心ついた時にはもう、自分に親なんてものは居なかったけれど、何だか仔狐に戻ったような気分だった。
「……土方、」
「ああ、」
 巡る風が、部屋に差し込む陽の光を集めていく。己の胸が別の時を刻み始めていることをほんの少し、恐れた。
「そんな、気にすんじゃねェよ」
 一度伏せた顔を上げ、そっと手を伸ばす。未だ汗の浮かぶ額を拭ってやると、土方は弾かれたように顔を上げた。真面目な男だというのはこの短期間だけでもよくわかる。
「夕べは、何もねェよ。でも、そう言ったところでテメーは気にしちまうんだろ」
 何も無いと言っても聞かない。それはきっと銀時が信用されていないからだ。ここへ来てまだ一日、当然のことなのに何故か胸がつきりと痛む。きっと、言霊によってこの男に縛られている証なのだろう。唐突な銀時の言動に、土方は戸惑いを押し殺したように黙っている。構わず、言葉を続けた。
「その、だからよ。仮に何かあったとしても、俺にとっては何でもねェんだ。気にすんな」
 そうだ。何でもない。少し前まであれほど逃げ出したい衝動に駆られていたのに。目まぐるしく変化していく状況に、頭がついていけなくなったのだろうか。それとも、自分より土方が遥かに狼狽した姿を目の当たりにしたからなのか。わからない。けれども悲愴感に満ちた今の表情より、賊と対峙した時に見せた好戦的な姿の方がよっぽどいい。只々、そう思った。
「……てめェの、」
 溶けた朝日が揺らめく。するりと頬を撫でる指と、低く響く声に意識が戻る。
「てめェの、望みは何だ」
 一つ一つ確かめるように、土方は静かにその言葉を繰り返した。
「望み?」
「ああ、」
 詫びのつもりなのか、それとも昨夜の褒美のことを指しているのだろうか。
「……ねェよ、」
 問われた所で何も浮かぶ筈は無い。
「何つーか、お前の傍に置いといてくれれば、それでいいから、」
 言霊の縛りが解けるまで、今の望みは、それだけだ。湧き出る熱を逃がすように息を吐きながら答える。
「……お前、」
 ぽつりとそう呟いて、土方が手を伸ばす。汗を拭っていた銀時の手を掴み、両手でそっと握り込んだ。
「……わかった。俺ァ、今はまだ何も言えねェ。だがきっと、応えるようにする、」
「へ?」
 一瞬だけはにかんだ表情に呆気に取られていると、再び体を抱き寄せられた。熱い吐息に耳元を擽られて、思わず身体が跳ねる。
(え、応えるって何に?いや、傍に置けってそういう意味じゃなくて!)
 自分が再び間違いを犯してしまったことを悟るが、時既に遅しだ。やり取りを頭の中で巻き戻してみるが、一度流れてしまった時間は決して元に戻らない。
(ウアァァァァ違う!!やっちまったァァァ!!)
 ダラダラと冷や汗が垂れる。おのれの言葉の意味が脳内に響き渡る。何をされても気にしないから傍に置いてくれ、と。健気な愛の告白そのものではないか。そして、目の前の男はその言葉にきっと応える、と。
「いやいやいやァァァ!!そうじゃなくて!」
 これはいよいよ拙い。言霊を解くのが目的なのに、このままでは益々深みに嵌ってしまう。だが、反射的に声を上げると無遠慮な声があっさりそれを遮った。
「失礼します!鉄之助です!重湯と着替え此処に置いときますんで!だ、大丈夫っスよ!自分部屋には入らないっスから!何も見てないっスから!」
(……何でだァァ!!)
 声の方向に視線を向き直し、がっくりと肩を下ろす。まるで何かの呪いでも受けているかと疑ってしまう。此処に来てから銀時の意志は悉く封じられているとしか思えなかった。
「オイ、」
 握られたままの手を引かれて視線を戻すと、土方は眉間の皺を深くして銀時を見つめていた。
「テツに言ったのか?」
 真剣な表情を向けられて、直ぐに彼の懸念を悟る。
「いや、大丈夫。言ってねェよ」
「なら、何で重湯まで、」
「ん、だから、寝込んでるのは俺ってことになってるから」
 へらりと笑ってそう返すと、深く刻まれていた眉間の皺が少し弛んだ気がした。
「そうか。よく誤魔化せたな」
「お、おお。まあ、嘘も方便ってな?」
 平静を装って笑う。掴まれていた手をそっと外すと、重湯と着替えを取りに入口へと向かった。熱で汗ばんでいた土方の手は、離れると妙に指先が冷えたように感じる。なのに頬は妙に熱くて混乱した。風邪がうつってしまったのかもしれない。
「ほら、ちゃんと汗拭けって、」
「ああ、悪ィな」
「悪いついでに看病してやるから早く治せよ」
「……ああ」
 具合が悪いのは銀時だとしている以上、迂闊に部屋の外へ出歩く訳にはいかない。当然の理由なのにどこか言い訳めいていると感じてしまう。自分の中に生まれかけている「何か」を否定したいのだ。だがその何かを暴くことは恐ろしくて、思考を意識の外へと追いやった。
 土方が着替えを済まし、再び寝入るのを確認して自分もごろりと横になる。尻尾を絡めてその心音に耳を澄ました。一定のリズムで繰り返されるその音はどこか懐かしく眠りを誘う。
 瞳を閉じれば、先ほどの問いが頭の中に蘇った。
 言霊の力が無くなって自由の身になったら、
 俺はこの男に一体何を望むのだろう。



 物語の始まりはいつだって唐突だ。
 これは夢だとわかる空間の中で、幼い己の姿を俯瞰して見つめていた。母の死。初めて連れられてきた広い屋敷。よろしくと響く優しい声と大きな手。そして、雪の中、柔らかな毛並みに包まれた記憶。手を伸ばせばあの時と同じ暖かな感触がある。夢と現実の狭間を確かめるように、土方は指を立ててその存在を探った。
(……何だ?毛皮か?)
 一撫でする毎に、沈んでいた意識が少しずつ浮上する。重い瞼をゆるゆると持ち上げると、視界に飛び込んできたのは一面の白だった。ふわふわと揺れる柔らかな毛並み。何が起こっているのかわからずに混乱する。
「わん!」
「犬?」
 犬特有の荒い息が顔にかかる。白い犬が今にも噛み付かんばかりに土方の顔を覗き込んでいた。狛犬のような出で立ちに思わず後退りつつ、何より土方を驚かせたのはその大きさだった。己よりも二回りは大きい躰。自分が置かれている状況が理解できずに只々首を傾げる。すると、衝立から今度は白い男がひょっこりと顔を出した。
「あ、こら定春。喰うんじゃねェぞ」
「……万事屋?何だコレは」
 水差しと器を載せた盆を運びながら、銀時がへらりと笑う。
「うちの犬。あったけぇだろ?」
「お前の?随分でけェな」
「おう。ま、たまに居んだろ?前住んでたとこの近くに捨てられててよ。生まれた時からデカかったんだろうな、エサ間に合わなかったんだろ」
 たまに、で片付く大きさなのだろうか。些か疑問に思いながら傍らの犬に視線を向ける。ぴすぴすと鼻を鳴らしてむずがる姿はまだ眠そうだ。眠っている間に毛皮に包まれていた感触はこれだったのか。
「粥と薬湯持ってきたけど、食えるか?」
「ああ、もう大丈夫だ」
 体の怠さは多少あるが、熱は下がっている。この分なら勤めに戻れそうだ。体を起こすと察したように犬が土方の背に回る。どうやら背もたれ代わりになってくれるらしい。暖かな感触にふと息が漏れた。どこからどこまでが夢だったのだろうか。気にするな、と言われても鵜呑みにする訳にはいかない。だが、こうして甲斐甲斐しく動く姿を見ていると何故か問うことはできなかった。
「世話かけるな、」
「いいって、これだってお勤めなんだからよ」
 濡れた手ぬぐいがそっと額に当てられる。当然のように汗を拭う手が別の熱を持つ。薬湯の苦みで気を引き締め、静かにその顔を覗き込んだ。視線に気付くと、銀時はどこかきまり悪そうに首を竦めた。
「これからちょっくら山行ってくっから、何か滋養のあるもん取ってくる」
「山?今からか?止めとけ、陽が落ちるのも早くなってるだろ」
「裏の里山にちょっと入るだけだって、深入りはしねェよ。大丈夫」
「なら明日でもいいだろ」
 人の手が入っている里山とはいえ、暗くなれば野犬や獣も出る。戦で奇襲をかける訳でもないのにわざわざ危険を侵す必要はない。唐突な言葉に首を傾げると、困ったように溜息が漏れた。
「その、悪ィんだけど、神楽が蔵の備蓄食い尽くす勢いで、流石に拙いからよ。食うもんくらい自分たちで何とかするわ」
「……そんなに食うのか、」
 想像できずにいると、背後の犬が肯定するように鳴いた。あの小さな少女はともかくこの犬の体格なら有り得るかもしれない。
「まあ直ぐ戻るから心配すんなよ。あ、それと地味な兄ちゃんがお前に急ぎで報告あるって言ってんだけど、どうする?明日にするか?」
「いや、もう起きる。大丈夫だから通してくれ」
 山崎は敏い。あまり籠っていては余計な心配をかけてしまうだろう。
「わかった。なら定春置いていくからよ。でけェけど命令されなきゃ噛んだりしねェから大丈夫」
「……言ってる傍から滅茶苦茶噛んでくんだけど大丈夫かコレ、」
 二人の頭にがぶがぶと歯を立てる姿に一抹の不安を覚えるが、銀時はへらへらと笑っている。この分だと日常茶飯事なのだろう。甘噛みとは言えない強さだが、犬は上機嫌に尻尾を振っている。遊んでいるつもりなのだろうか。
「じゃ、行ってくる。すぐ戻るからよ」
 水差しを傍らに置いて銀時が退室する。部屋の空気を入れ替えるように柔らかな風が吹いた。


「男連れ込んだまま出てこねェっつーからツラ拝んでやろうと思ったのに一人ですかィ、つまんねえの」
「うわ、何ですかこの犬、」
「何だ。総悟も一緒か」
 亜麻色の髪を揺らしながら、不満そうに部屋を見渡す姿に土方は密かに胸を撫で下ろした。山崎とは違い、この幼馴染は土方に対して容赦が無い。この場に銀時が居れば面倒なことになっただろう。視線を向ければ、まあまあと山崎が沖田を宥めている。二人は土方に向き合い、ゆっくりと腰を下ろした。
「随分お楽しみだったって聞きましたぜ、何者なんで?」
「……さあな、それより報告あんだろ?」
 二人が来た理由はわかっている。隣国の兵がこちらへ進軍しようとする気配があるという情報が入ったのは、土方が帰還したその日だった。狙いはこの国の背後に在る松平片栗虎だろう。その取っ掛かりとして彼の息がかかっているこの国を落とすつもりに違いない。
「はい、軍勢は一万を超えているそうです。まだ増えるだろう、とも」
「……一万か、」
 渋い顔をする山崎の横で、沖田は一見興味が無さそうに唇を尖らせている。だが、普段は軍議にも出ず、好き勝手に動いている男だ。それが此処に来たということは彼なりに危機感を抱いているのだろう。沖田は土方を見つめながら何度か指を弾き、ゆっくりと口を開いた。
「こっちは搔き集めてもせいぜい三千が関の山でさァ、真正面からぶつかっても無駄だ。奇襲かけるしかねェ」
「近藤さんは何て言ってる?」
「できれば戦は避けたいそうで。だからって奴らを素通りさせる訳にもいかねェ。まあ、松平のとっつあんが目当てなら素通りさせたところで結局同じことですしねェ」
「……そうだな。早い方がいい。城に行くぞ」
 こうしている間にも敵は足を進めている。一刻の猶予も許されない。
 太刀を携え立ち上がると、察したように鉄之助が厩舎へと走っていく。三人とも足早に渡りを進み、用意された馬へと跨った。城までは目と鼻の先だ。風を切るように市中を抜ければすぐに城門が姿を現す。馬の走りを緩めると同時に、山崎が恐る恐る口を開いた。
「あの、土方さん、」
「何だ」
 言い難そうに瞳を二、三度瞬かせてから、意を決したように息を吸う。
「あの三人組、やっぱり間者じゃないですか?」
 半分予想していた言葉。此処にある筈もない萩の香りがふわりと漂った気がした。
「俺たちが帰ったその日に敵軍が動いて、翌日にあの三人と刺客が来るなんてできすぎですよ」
 予め経緯を聞いていたのだろう。山崎の言葉に続けるように、今度は沖田が口を開いた。
「奴らは刺客と繋がってて、土方さんを信用させる為に仲間を犠牲にした。まァ、このご時世珍しいことじゃないでしょうや」
 成程、と土方は静かに息を吐いた。山崎がわざわざ沖田を連れてきたのはこの為だったのだろう。自分一人の意見ではあの三人を屋敷に迎え入れた時と同じように流されてしまうと見越して。
「現に敵がこうして大々的に動き出したまさに今、奴らは屋敷を離れてるんです。本当に山に行ったのかも怪しいですよ。こっちの情報を流してるんじゃないですか?」
「そうかもな」
「土方さん!」
 苛立った口調と繰り返される同じやり取り。心配になるのは理解できるが時間の無駄だ。無視して土方が馬を進めようとすると、それを遮るように沖田が立ちはだかった。
「わかってると思いやすが、俺はアンタが絆されようが殺されようが構わねェ、好きにすりゃいい。けど、それが近藤さんにまで害をなすってことになりゃ話は別だ。アンタごとその三人を俺が斬りまさァ。それだけは覚えておいてくだせェよ」
「……ああ」
 一度だけ交錯した視線を逸らさぬまま、無音の空間を埋めるように風が吹く。流れる空気と共に感情を押し流すように、沖田がゆっくりと瞬きをする。そうして次の瞬間には、悪戯を楽しむ悪童の顔でにんまりと口角を吊り上げた。
「にしてもその旦那、そんなに具合良かったんなら俺も相手してもらいてェなァ。土方さん、ちょっくら貸してくだせえよ」
「駄目だ。何言ってやがる」
「へえ、随分とご執心なことで」
「ちょ、沖田さんまで何言ってんですか!」
「抱き潰した上に自分が看病するからってテツ追い出したって聞きやしたぜ、そりゃもうだらしねェツラしてたって」
 戯れの言葉に応えるつもりはない。だが間髪入れずに続けられた揶揄いにふと違和感を覚えて眉を顰める。
「……俺が言ったって?」
 倒れてから起きるまで鉄之助と話した覚えはない。鉄之助が部屋に入らないように取り計らったのは銀時の筈だ。またいつものように沖田が鎌をかけているのだろうか。
「あ、俺も聞きましたよ〜いつもの土方さんだとは信じられないくらい締まりのない顔してたって」
 音もなく落ちた一滴が、じわりと胸に染みを宿す。

『寝込んでるのは俺ってことになってる』
『お前の傍に置いといてくれれば、それでいいから、』

 そっと近づく気配の正体は吉相かそれとも凶兆か。
 時間が無いのはわかっている。それなのに答えを出すのを惜しむ理由は何なのだろう。

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