仮初十六夜問答


【1】


 乾いた風がうねりを上げて舞い上がる。
 砂埃を巻き散らしながら視界を塞ぐそれは行く手を阻み、前へ進むのも容易ではない。舌打ちをしながら土方は口元を咄嗟に覆った。砂利が入ってしまったのだろう。ざらつく口内に溜まった唾液を吐き捨てれば喉の渇きが増してしまう。甲冑に付着した返り血の匂いが鼻についた。
 近藤の待つ城までは後三里も無いだろう。黒毛の愛馬の首筋を撫でてやると、承知したと言わんばかりに速さが増した。同時に、ふわりと蒼白い光が手綱を掴んでいる手に纏わりつく。燐光にも似た、魂の光。
「……こっちじゃねェぞ」
 導くように手首を翻してそっと触れる。今回は悪いものではなさそうだ。
 土方が声をかけると淡い光は宙を二、三度回転しながら天へ昇っていった。怨恨の念などは感じない。戦で命を落とした者ではないことを悟る。
 安堵してしまうのは身勝手だとわかっていても、そんなことを思ってしまう。本当に、何て勝手で傲慢なのだろう。戦を引き起こしたのは誰だと思っている。誰ともわからない無数の声が背後でそう囃し立てているようだった。
 土方が「それ」を見るようになったのはいつからだったのか。物心がついた頃には既に空を指さし、可笑しなことを口走る子供だった。己を育てた乳母はそう言って、少し困ったように笑っていた。そうして、「それ」が他人に見えない物なのだと悟り、土方は長く口を噤んできたのだ。だが、魑魅魍魎が跋扈する戦乱の世でその力はまた土方自身のことを護ってきたのも事実だった。

 東の空へと視線を向ければ、白々と夜が明け始めるのが見えた。山間から覗いた太陽が風景に色をつける。暖かな陽の光はまるで己の勝利を讃えているかのようだ。
「やっと城が見えてきましたね」
 傍らを走る山崎がほっとしたように息を吐く。まだ油断するなと声をかけながら帰路を急いだ。物見櫓から見えていたのだろう。土方たちが城に近付くと、合図を向けるまでもなく城門が開く。
「土方様がお帰りになられたぞ!」
「殿を呼べ!」
 帰還を喜ぶ家人たちが一斉に騒ぎ立てる。土方は馬を降りると駆け寄って来た従者に兜を渡して甲冑の紐を弛めた。蒸して貼り付いた前髪を掻き上げれば、澄んだ朝の空気が頭皮を冷やすように流れていく。漸く一呼吸ができると思いながら顔を上げると、張りのある声が己を呼んだ。
「トシ!よく帰ったな。怪我はないか?」
 気さくに笑いながら、近藤が歩み寄ってきた。一人一人の怪我を心配し、労りの言葉をかける姿は城の主とは思えない。だが、彼の威厳が損なわれることもない。家人を大事にする彼に応えたいと思うのは当然のことだ。
「ああ、大丈夫だ」
「先に湯浴みしてきたらどうだ、久しぶりに湯殿の準備したからよ!」
 誇らしげに胸を叩く姿に、一つの予感が過ぎる。まさかなど思うまでもない。
「近藤さん、アンタまた家人と一緒に準備してたんじゃねェだろうな」
「えっ、いやだって皆で準備した方が早いし」
「ったく、大将がそんなことするんじゃねェって何回言ったらいいんだよ。奴らの立つ瀬がねェだろうが」
「わ、悪ィ、」
 シュンとすまなさそうに首を竦める姿に溜息を吐く。すると、ばつが悪いの近藤は話題を切り替えるように手を叩いた。
「まあまあ、それと、その後でいいんだが、ちょっと手ェ貸してくれねェか。いや、手っていうより目なんだけどよ、」
 わざわざ言い直した言葉に頷くと、近藤は腕を組んで声を潜めた。
「厩舎の下男の様子がおかしいんだ。看てやってくれねェか」
「……憑かれたか?」
「薬師が言うには、病じゃなさそうだと、」
「わかった。すぐ行く」
 軽く呼吸を整えながら、そっと眼帯に触れる。見えざるものが見える。その力が強まったのは、病で右目を失ってからかもしれない。だが、見えるというだけで、それを祓うような力は土方には無かった。せいぜい妖の仕業かどうかを判断するだけで、そこから先は力のある寺の者を呼んで丸投げだ。
 慌ただしく湯浴みを済ませ、近藤に言われた部屋へと向かう。扉を開けると、心配そうな近藤と家来たち、そして呻きながら横たわる男の姿があった。
「トシ、どうだ?」
 苦しむ男の傍らに膝をつき、神経を研ぎ澄ませる。すると、脂汗を浮かべる男の背後に白い尾のようなものが複数揺らめくのが見えた。
「……狐憑きか、」
「何だと?」
 それも只の化け狐ではない。尾が一つ、二つ、と数えるごとに息を呑む。土方は男を正面から見据え、顎を掴んで顔を上げさせた。
「てめェは、九尾の狐か?」
 男にではなく、その奥に潜むものに対して声をかける。すると、土方の言葉に反応するように男がゆっくりと口を開いた。
「…お前、俺が、見えるのか、」
「ああ、」
 土方の想像よりも、柔らかな口調が部屋に響く。少なくとも悪意があるようには思えなかった。
「すまねェ、こんなつもりじゃなかったんだ。悪ィ、こと、しちまったな、」
「どういうことだ。何でコイツに憑いてる?」
「俺が落とした宝玉を、コイツが拾ったから、返してもらいに、きた、けど、見つからなくて、アレがねェと、この体から出てくこともかなわねェ、」
「何だと、」
「頼む、探して返してくれねェか。礼ならする。この先ずっと、俺がお前を護ってやるから」
 銀の尻尾がしゅんと項垂れるように垂れ下がり、獣耳が伏せられる。まるで主人に叱られた犬のようだ。これが本当に九尾の狐だというのか。天下に名を轟かせる大妖怪が間抜けに落とし物をしたばかりか、取り憑いた人間から出られなくなっているとは。頭の中で勝手に描いていた偶像を打ち砕かれた気にもなりながら、土方は近藤と顔を見合わせて頷いた。
「わかった。おい、コイツの部屋と厩舎を探せ、」
 土方とのやり取りを固唾を飲んで見守っていた者たちが、声を合図に一斉に動き出す。狐から邪気を感じなかったからか、土方の言葉に異を唱える者はいなかった。
「……九尾の狐ってのは、随分間が抜けてるんだな」
 思わずしみじみとそう口に出してしまうと、狐が苦々しい表情を浮かべて土方を睨み付けた。
「うるせェ、食っちまうぞ」
 唇を尖らせてそう呟く姿はまるで人間のようだ。大妖怪はもっと禍々しく威厳があるべきだというのも人間が勝手に思い込んでいるだけなのかもしれない。ぶっきらぼうに響く気安い言葉に、どうしても警戒心を削がれてしまう。どうにも緊張感が無い。
「……祈祷僧呼ぶまでもねェか、」
 一息吐きながら土方がそう零すと、傍らの近藤もまた安心したように口元を緩めた。狐の様子を窺いながら暫くそのまま待っていると、慌ただしく廊下を駆ける音が響く。襖が開くと共に山崎が息を切らせて飛び込んできた。
「土方さん!ありました!玉ってコレじゃないですか?」
 額に浮かんだ汗を掻き上げながら手にした布を開く。すると、宝玉が連なった首飾りが現れた。眩い気を発する石を前にして、目が眩みそうになる。他の者はそんなことを感じないのか物珍しそうに身を乗り出した。
「まさかとは思ったんですが飼葉を探ってみたら、手拭いに包んで隠してあったんです」
「オイ、狐。コレがそうか?」
 山崎の言葉を受けて、近藤が勾玉を差し出す。銀色の淡い光が揺らめき、空間が歪むようにひりひりと空気が揺れた。
「……ああ、」
 だが、肯定の言葉とは裏腹に、狐の表情に影が落ちる。一つ息を吐いて瞳を閉じたかと思えば、獣耳が悲しそうに伏せられた。
「……すまねェな、」
「どうした、」
 まだ何かあるのか、それとも態度を翻そうとするつもりなのかと身構える。狐は化かす生き物。宝玉を取り戻した上で悪さを働くかもしれない。携えた剣を反射的に握り締める。だが、零れたのは、思いも寄らない言葉だった。
「コイツがそれを拾った時……呟いたの、聞こえてきた。これを売れば郷里の母親に薬が買えるって、だから、俺は、」
 酷く人間じみた、やるせない、独白だった。
「…だからテメェがそんなにギリギリになるまで、コイツに手を出さなかったのか、」
 確信にも似た想いがじわじわと胸を焼く。これが妖だというのか。こんなにも危うく、不安定な。湧き上がる衝動を誤魔化す為に土方は口を開いた。喉の奥に痒みを抱えているようだった。
「そうかよ。ならもう用は済んだだろ。とっとと出てけ」
「トシ、」
「ったく、コイツも妖なんぞに憑かれやがって役立たずが、」
「トシ!おま、何てこと!」
咎める近藤の声を無視して、獣を追い立てるように手を払う。
「暫く暇をやらなきゃならねェな。薬持たせて故郷に引っ込ませるくらいはしねェとよ。まあ、コイツの世話する馬は毛艶が良いから、すぐ戻ってきてもらわねェと困るが」
「トシィィィ!!」
 涙を流して抱きつこうとする近藤を往なして視線を向ければ、狐は唖然としながら土方を見詰めている。
「まだ、出れねェか?」
 隠れた幼子を言い含めるように呟くと、淡かった光が次第に強まっていく。
「……大丈夫だ。出てく、ありがとな、」
 霧散する光と共に、耳からではなく、直接脳に声が吹き込まれる。
「約束は守る。この先、俺は、お前を護る」

「いらねーよ」
 自分の身は、自分で護る。空に向かってそう呟くと、ゆらりと空気が揺れた。どこか、笑ったようにも思えた。獣の気配が消え、取り憑かれていた下男から苦難の相が薄まる。宝玉の首飾りも消えていた。
「トシ、すまなかったな、疲れてるのに」
「構わねェよ。ああいうのは放っておけば余計な厄災を招いちまう。早いほうがいい」
「しかし、不思議な奴だったな」
 他人どころか異種の生き物に対してああも深い情をかけるとは。神獣として祀られるほどの大妖怪だからこそなのだろうか。
 きっと、近藤も同じ想いを抱いているのだろう。視線を向ければ狐が消えた方向を静かに見つめている。
「まあ、後始末はこっちに任せて今日はもう屋敷に戻って休んでくれ。先に戻った総悟の部隊から報告は受けてるからよ」
「わかった。すまねェな。何かあったらすぐに呼んでくれ」
「おう!」
 近藤と沖田とは幼い頃から剣術を競い合ってきた仲だ。今は主と家臣だとはいえ、他の者がいない場所ではどうにも気安くなってしまう。

 豪快な笑顔に見送られながら城を後にして己の屋敷へと向かう。秋の空は高く、澄んだ空気が風に流れていった。稲刈りを終え、乾いた田畑には頭を重くした稲穂が連なり天日干しにされている。見渡す限りでは豊作と言っていいだろう。
 こうして一歩道を違えれば、戦場とは程遠い日常が動いている。先ほど明け方まで戦をしていたことがまるで夢のようだ。双方とも現実である筈なのに、どこか夢の狭間に陥っていた。時折ああして見えてしまう妖も幻ではないのだろうか。
 ゆるゆると思考を振り払って顔を上げると、土方の帰還に気付いた家臣が待ち構えていたように門を開いた。そして、瞳を一際輝かせた青年が走り寄ってくる。小姓の鉄之助だった。
「ご無事でよかった!朝餉をすぐにお持ちするっス!それとも先に休まれるっスか?」
「いや、書簡の用意をしないとならねェ。湯だけ書院に持ってきてくれ」
「はい!」
 すべきことを頭の中に羅列しながら渡りを進む。すると、角を曲がった瞬間、鉄之助が何かに気付いたように声を上げた。
「あれ?なんだろ、花?」
 視線の先を辿ると、主殿の前に萩の花と芒の穂が置かれているのが見えた。
「おかしいな、さっきまで無かったのに、」
 そう首を傾げる鉄之助の傍らで、そっと花を手に取る。
「あ、ダメですよ!誰が置いたかもわからないのに!」
「……いや、大丈夫だ」
 仄かな花の香りが鼻腔を擽る。久しく感じることの無かった柔らかな甘さ。己に染み付いた血の匂いが薄れていくような錯覚すら覚えた。
「そうか、昨夜は中秋の名月だったか、」
「あ、そういえばそうですね。皆戦況が気になってそれどころじゃなかったから忘れてました」
 甘い香りがゆっくりと己を包んでいく。きっと、これは。
「テツ、心配かけたな。月見には一日遅れたが、今日は皆に酒を振舞うよう手配してくれ」
「えっ、本当ですか!やったー」
「オイ、勤めが終わってからだぞ」
「勿論ですよ!ありがとうございます!皆喜びますよ!」
 今にも駆け出しそうに喜ぶ姿に苦笑しながら、手にした萩を覗き込む。いつ届けられたのかと考えるのは無駄だろうか。萩の花はまるで手折られたことに気付いていないかのように萎れることなく瑞々しい。
「……狐の恩返しなんぞ、か、」
「狐?恩返しって、今昔物語ですか?」
「ああ、そんな話あったなって思い出してよ」
「駄目ですよ、アレ結構いやらし、」
「そういう話じゃねェよ。てめェは蕪にでも突っ込んでろ」
「あ、やっぱり読んでるじゃないっスか!あれヤバいっスよね!」
「馬鹿言ってんじゃねェ。それと、ついでにこれも活けて持ってきてくれ」
 秋の風が部屋を巡る。筆を進める手は自然と速まった。不思議なことに思考が明瞭になっている気がする。書簡を認め終えてからも書物を読み耽り、土方が気付いた時にはもう辺りは暗くなっていた。
「お館様、灯りを、」
「いや、まだいい」
 部屋を朧げに照らす十六夜月。淡い光を受けて揺れる芒と萩の花。夢幻の世界への入口に誘われているようだ。
 刻み煙草を詰めた煙管に火をつけ、ゆっくりと煙を燻らせる。
『この先、俺は、お前を護る』
 上へ上へと立ち上っていく煙は、天まで届くのだろうか。
「……確かに、変な奴だったな、」
 禍々しさなど微塵も感じなかった。九尾狐ともなれば人の魂を喰らうという言い伝えがある程だというのに。一体何をもってしてあの獣が『護る』つもりなのかはわからない。だが、こんな季節の贈り物は悪くないと思った。
 煙管を盆に置いて静かに盃を傾ける。耳を澄ませば家人の騒ぐ声が聞こえてきた。鉄之助たちが音頭をとって、皆で一日遅れの名月を楽しんでいるのだろう。大勢での酒盛りが苦手な土方の代わりに動いてくれる鉄之助や山崎の存在は単純にありがたかった。
 視線を再び花へと戻し、土方は傍らにもう一つ盃を置いた。もし、あの銀色の影が再び現れた暁には酒の一杯でも振舞ってやろう。そんなことを戯れに考えながら夜空を見上げる。
「……咲けりとも、知らずしあれば、黙もあらむ、この秋萩を見せつつもとな、だったか、」
 咲いていることを知らずにいたら、黙ってもいられる。だが、この秋萩を見せられては黙ってなどいられない。
 不意に浮かんだうろ覚えの秋の相聞歌を思わず口ずさむ。そう、あんなことはそうそう二度と起こらないと確信していたからこそそう思ったのだ。まさかこうも容易く覆されるなど思いもせずに。


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※狐の恩返しの話は今昔物語集・巻第二十七第四十
 蕪の話は、蕪でオナってたらその蕪食べた少女が孕んじまったぜ、というぶっ飛んだ話があります。
 土方さんが詠んだ短歌は万葉集より(作者不明)

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