デッドエンドの境界



1.スリル


「テメー!待ちやがれ!」

 己に向かってくる怒鳴り声をひらりとかわし、二階の窓から飛び降りる。着地の衝撃で足の裏から激しい痺れが伝わってきたが、予想していたことなので構わずに走り出した。そういえば、この前同じことをしようとした奴が足の骨を折ったって誰かが言ってたな。そんなことを思い出しながら木漏れ日が舞う中を走る。向かい風は爽やかだ。
 そろそろ撒いたかと振り返れば、追っ手は窓から身を乗り出して何やら叫んでいる。耳を澄ませる必要も無い。どうせ俺への罵声だ。
「待てっつってんだろーが!!」
「言われて待つバカがいると思ってんのかよ!バーカ!」
「テメー何回目だと思ってんだ!」
「初犯です〜!」
「ふざけんな!今月だけで6回目だ!」
 よくもまあそんな律儀にカウントなんてしてるもんだ。授業に出るようになっただけでもマシなんだから、HRと掃除をサボるくらい大目に見て欲しい。 風紀委員だかお節介だかなんだか知らないが、いちいち目くじら立ててるとストレスで早死にするよ。
 なんて言ったら火に油を注ぐだけだとわかっていたので、呆れをたっぷり混ぜて溜息を吐く。さすがに風紀委員が窓から飛び降りるわけにはいかないのだろう。土方は悔しそうにこちらを睨んでいる。鼻で笑って逃亡ルートの果てにしっかりと設置しておいた自転車に駆け寄ると、噛み締めていた唇が得意げに釣り上がった。
何だ?
疑問に思いながらポケットに手を突っ込んだ瞬間、その訳を知る。鍵が無い。
「返して欲しけりゃ、そこ動くんじゃねーぞ、」
 ニヤニヤと笑う土方の右手には見慣れたペンギンお化けのキーホルダー。(坂本にもらった。)一気に自分と相手の立ち位置が逆転するのがわかる。クソ、あの野郎。いつの間に。自転車の鍵は手元にある。問題はアイツが持っているのが俺の家の鍵だということだ。
「人のモンを勝手に盗ってんじゃねーよ!返せ!」
「言うこと聞かねえからだろーが!」
「何でテメーの言うこと聞かなきゃなんねーんだよ!ふざけんな!」
 どうする。あれが無いと家に入れない。このまま大人しく捕まるか?だが捕まれば説教、正座、反省文、と流れは決まっている。冗談じゃない。
万事休す、と唇を噛んで睨みつけると、土方の後ろに人影が見えた。土方は気付いていない。珍しい。人の気配には驚くほど敏感な奴が、だ。音も無く姿を現した人物に心当たりは一つしかいなかった。
 そして、神様は俺の味方だ。
 その人物は得意げにキーホルダーを玩ぶ土方の右手から、あっさりそれを奪い取ると、軽やかに窓の外へと舞い降りた。
「ヘマしてんじゃねぇよ、」
「…うるせー、」
 口元を吊り上げながら鍵を俺に投げて寄越すと、勝手に籠の中に自分のバックを押し込む。
「てめっ、高杉!!」
「ま、アレよりはマシか、」
 窓から身を乗り出している土方を指差して嘲笑う。
 うーん、その通りですけど、さすがにちょっと土方が気の毒のような。
 励ましを込めて哀れな男にブンブンと手を振った。
「そんじゃーあ土方くんお疲れ様ー!ばいばいきーん!!」
「テメーらまとめてぶっ殺す!!」



 二人乗りの重さに耐え兼ねているのか、チェーンがぎしぎしと苦しげな音を出す。
 このオンボロもそろそろ寿命かもな。そう思って溜息を吐いた。乗り潰したと言っていいほどお世話になったが、ここで逝かれてしまうのは痛い。財布的に。
「オイ、高杉。落ちてもしらねーぞ、」
「落ちるかよ、」
 高杉は後ろに大人しく座ってはいるが、運転する俺と背中合わせの状態で棒アイスを齧っている。フラフラと足を揺らすものだからバランスが取り辛くて仕方ない。
「…随分仲良くやってんじゃねーか、」
「あ?誰が?」
「風紀委員なんぞと、」
 くつくつと笑い声が背中越しに聞こえてくる。顔を見なくても奴はあの人の悪い笑みを浮かべているんだと容易に想像できた。
「どこが仲イイんだよ。あの野郎、人を目の敵にしやがって、」
「確かになァ、」
「テメーだって同じことしてんのに矛先はいつも俺!ふざけんな!」
「そりゃテメーの要領が悪いだけだ、」
 言い返そうとしたが、そう言われれば思い当たる節もあってつい口篭る。
「…だとしてもよーおかしくね?さっきだって俺掃除サボろうとしただけじゃねぇか。授業は真面目に出てたのによ。お前なんか授業もサボってたのに真っ先に俺が追いかけられるって理不尽だろ?」
「俺はサボってねえよ。保健室だ。」
「だからサボリだろーが!」
 ヨロヨロとバランスを失いそうになりながら、ゆるいカーブを曲がると下り坂が現れる。一直線に続く急な坂道は上りは地獄だが、下りは極楽だ。ペダルから足を離し、ブレーキからも指を外す。心地良い風が耳元を擽っていった。
「…まるでガキだな、」
「あ?何ー!!」
「ガキだって言ってんだよ、」
「誰がー!」
「テメーと奴だ、」
 風を切る音が会話の邪魔をする。自分のほうだけでかい声を出すのが可笑しくて、俺はついゲラゲラ笑った。
「何でだよ!」
「テメーのことが大好きですって、アイツの顔に書いてあるぜ。」
「はー?お前霊感とかあったっけー?」
 冗談には冗談で返すのが礼儀ってモンだ。
 再び笑い出す高杉の声はやはり冗談を言う時と同じように聞こえたので、俺も気にせず笑い続けた。

 ハンドルから片手を離す。両手を離したらどんなスリルが待っているだろうか。
 高鳴る鼓動は少しの恐怖を期待している。明日は何が起こるだろう。


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