BE MY ANGEL!


【1】A fallen angel



 嫌な風だ。
 湿気を含んだ生温い空気が体中に纏わりつく。紫に色を変えた空は今にも雷を落としそうなのに、いつまで経っても雨の一粒すら落とす気配がない。不気味な静けさに土方は思わず背筋を震わせた。

(…何か出、いや、んなわけねえ、)

 いつもは騒がしい屯所も、今日は攘夷浪士のアジトが発見された為、皆出払っている。浪士達を捕縛後、銃弾が掠めて肩に怪我をした土方が現場に居ることを、近藤は許さなかった。だが、こんな薄気味悪い場所に帰されるくらいなら、あのまま後始末の指揮を執っていたほうがずっとマシだったと土方は思う。
 悪い妄想に取り憑かれそうになるのを防ごうと懸命に頭を振ったが、その行為こそが妄想に取り憑かれている証拠だと、土方は気付いていなかった。
 室内に篭る空気は夏特有の暑さを持っている筈だ。湿度、温度、どう考えても不快指数は最高潮を示している。それなのに、時折、左肩の周辺、怪我で熱を持っている箇所がひやりと温度を失うように感じた。気のせいにしては無意識に立つ鳥肌がやけに生々しい。

『…赤い着物の女が、』

 こんな時に限って思い出してしまう己の記憶を恨めしく思いながら、土方は少しでも気を紛らわそうと胸元から煙草を取り出した。あの事件も結局幽霊の仕業などではなかったのだ。
 自ら巻き込まれることになった胡散臭い三人組を思い出しながら、思考を変えようと悪い考えを隅へと押しやる。代わりに思い出したのは、その内の一人との会話だ。

『…銀さんを、探してもらえませんか、』

 眼鏡の少年がそう言って屯所に現れたのは今日の昼間のことだった。言われて土方は「そういえば最近万事屋の姿を見ていないな」と思った。
 見廻り中に子供二人を何度か見掛けることはあったが、あの一番いけ好かない男の姿はここ数日見ていない。喜ばしいことだと鼻を鳴らしたが、事態は思ったよりも深刻だった。
『3日で帰るって言ったのに、もう10日も帰ってこないんです、』
『悪いが、そういうのはウチの管轄じゃねえ。警察署のほうに言ってくれ、』
『…行ったんですけど、家出人扱いで相手にしてもらえなくて…』
『何、』
 今にも消え入りそうな、弱々しい声で、少年は続けた。

『…お願いします、土方さんしか頼める人がいないんです、』

 袴を握っていた拳は小さく震えていた。


(…ったく、何で俺が、)

 溜息を吐きながら銜えた煙草に軽く歯を立てる。
 別にあの男がどうなろうと知ったことではない。何処で野垂れ死のうと構いやしない。自分の仕事はテロの撲滅であり、家出人の捜索はそれに含まれないことなど目に見えて明らかだ。手助けする義務など無い。

(…そうだ、俺には関係ねえ話だ、)

 肩の傷口を押さえて横になる。手元の灰皿は既に吸殻で溢れていた。
 障子の隙間から漏れ聞こえる風の音は、まるで生き物の悲鳴のようだ。気味の悪さを感じながら土方はせめて明かりをつけようと立ち上がった。

(関係ねえ…が、)

 放っておけばあの子供たちはどんな無茶をしでかすかわからない。そんな考えが不意に浮かんでくる。

(…万事屋の野郎は以前、桂と関わっていた、)
(だとすれば俺たちの仕事に関係ないとも言い切れねえ、)
(…だいたいあのヤローは、)

 そこまで考えてからようやく土方はハッとして我に返った。おかしい。浮かぶ考えはすべていい訳めいて聞こえる。これではまるで少年の依頼を受け入れる為の理由を探しているようではないか。
 落ち着けと電気のスイッチに手を伸ばすが、紐を引いても手応えは感じなかった。明かりも点く様子が無い。こんな日に電球が切れているなんて運が悪い。
 懐から取り出したライターで煙草に火を点けようとするが、こちらも空を切るような感触だけで、火は点かなかった。
 時刻はもう丑三つ時、隙間風は断末魔のように音を増している。ここまでくると、沖田あたりに仕組まれたのではないかと疑ってしまう。
「…へっ、嫌がらせだとしてもビビッてねーんだから意味ねえよ、」
 苦し紛れに出た言葉は僅かに震えていて、どう聴いても強がりにしか思えなかった。
 カチ、カチと掠れたライターの音だけが部屋の中に響いている。
「クソ、何で点かねえんだよ、」
「……オイル切れてるよ、」
 返ってきた言葉に促されて、手元のライターを覗き込む。
「あ、ったく何でこんな時に、」
 ぎりりと唇を噛み締めるとフィルターから苦味が口内に広がった。苛立つ心情を表すように、乱暴に空のライターを投げつける。ライターは鈍い音を立てながら壁にぶつかり、部屋の隅に所在無さげに転がった。煙草が吸えないなんて。
 忌々しいと舌打ちしながら土方は再びその場に腰を下ろす。
「どうしろってんだ、」
「……点けてあげようか?」
「ん?悪ィ…、」
 どこからともなく響いてきた声にそう答え、顔を上げようとした所で動きを止める。

 部屋には自分しかいない、と土方は今更のように気がついてしまった。その瞬間、ひゅうひゅうと息苦しそうな音を立てていた風がピタリと止まった。同時に額からドッと勢いよく冷や汗が噴き出す。
「…な、に、」
 気配は無い。けれど、何かいる。
 第六感とでもいうべきだろうか。何の根拠もないのに、土方はその「何か」を確かに感じていた。徐々に迫り来る閉塞感に息を呑む。風は収まった筈なのに、目の前の書類が一枚、ぱらりと床に落ちた。

「煙草、つけてあげようか?」

 バン、と耳を劈くような破裂音と共に、目の前の障子が乱暴に開かれる。
 夏とは思えないほどに冷え切った空気が部屋の中を満たしていく。不自然な温度に押し流されるように、土方は呼吸をすることができなくなった。水の中に落ちたと錯覚しそうなくらい、息ができない。着ている服は水を吸ったかのように重く、手足も自由に動かなかった。パニックに陥りそうになりながら、それでも信じられない光景に口を開く。

「お前、」

 昼間に交わされた会話の張本人、行方知れずだった万事屋の坂田銀時が目の前に立っていた。戦慄く唇を押し止めて、不自由な身体を振り払う。
「テメー!こんなとこで何し、いや今まで何処行ってやがった!!」
 己の身体に喝を入れる意味も含めて、声の限り怒鳴りつける。すると銀時はきょとんと目を見開いて土方の顔を真正面から覗き込んだ。
「…お前、俺が見えんの?」
「は?」
「俺の声、聞こえんの?」
「何言ってんだ、ふざけんのも、」
 いい加減にしろ。そう続けようとしたが、土方の口はそれ以上動かなかった。
 土方と視線を合わせた途端、銀時が嬉しそうに破顔したのだ。
 初めて見る笑顔に目を奪われ、同時に顔に熱が集まっていく。土方はそれを驚きの為だということにした。

「…よかった、いやよくねぇけど…とりあえずよかった、」
 土方の心情などお構いなしに、銀時はホッとしたように胸を撫で下ろしている。
「何なんだテメーは。ちゃんとわかるように言え、」
「これ見てもわかんない?」
「だから何…」
 促されるように視線をずらして、土方は三度息を呑んだ。
 カタカタと、また障子が鳴っている。風が部屋に入り込んでくることはない。
 揺れる視界に映る銀時の姿は、足が無かった。
「……え、」
「煙草、点けてあげようか?」
 そう言って銀時が不敵に笑うと、土方の指先にある煙草に蒼い火が灯る。動揺のあまり土方は煙草を畳の上に落としたが、焦げ痕は、つかない。
「おま、まさか、」
「そ、どうやらドジ踏んだみてぇ、」
 それでも事態を飲み込めない土方に向かって銀時はまた笑った。
 今度の笑みは寂しい笑みだと、土方は混乱する頭の隅で思った。
「…なん、で、」
「それがわかんねえんだよ、」
「は?」
「…お前に頼みがあんだけど、俺の体、探してくんねーか?」
 降って湧いた出来事についていけない。
 目の前の男は何と言った?ドジを踏んだ?何を探す?誰の身体を?
「何で、俺が、」
「いやー俺もいきなりこんなことになってて訳わかんねぇの。死んだにしても何処行っていいかわかんねえワケ。で、もしかしたら自覚がねーからわかんねぇのかな、と思って、」
 ふてぶてしい口調、頭の後ろを掻く仕草は普段と何も変わらないのに。
「それに一応生きてる可能性もあるだろ?ひょっとして幽体離脱ーとかよ、」
「だから、何で俺が、」
「まあ、嫌だっつーんなら諦めるわ。…呪うけど。」
「オイィィ!待てや!!」
 さりげなく続けられた言葉に総毛立つ。洒落にならない。
「たまに寂しくて火の玉引き連れて会いに来るかもしれねぇけど、そん時はよろしくな、」
「待てっつってんだろ!誰がやらねえって言った!!」
「ほんとに?土方くんやさしー、」
 拒否権を奪っておいて何を今更。
 嫌味の一つも言ってやろうかと思ったが、何故か土方は頷いて押し黙った。

 また、銀時が嬉しそうに笑ったことが理由だとは気付かずに。

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